3-5


 私はまた白い空間に私は立っている。動いたら波紋の中に入って、過去に飛んでしまうのかもしれない。だから私は動けるのに動かずにじっとしていると声がした。


「ねえ、なんでぼーっと立っているの?」


「だって、またどこかの過去に行ってしまいそうで。……あれ? 誰?」


 過去を意識だけが渡っていて何年かぶりに話した気がする。


「私」


「私、だね」


 そこにいたのは確かに私だった。ただし、小さい頃の五、六歳の私。なんでこんなところに出てきたのだろう。


 小さな私は小首をかしげる。


「ねえ、ここに何しに来たの?」


「分からない。いつの間にかここにいたの。ここ、どこだか知っている?」


「私もいつの間にかここにいたよ。こんな子供が知っているわけないよね」


 小さな私はトコトコと裸足で私の周りを歩く。どうやら小さな私は自由に歩けるみたいだ。


「ねえ、どこに行きたかったの?」


 来たくてこの真っ白な空間に来たわけじゃない。私が行きたかったのは、


「お姉ちゃんがいる所……。私、お姉ちゃんに会いに来たの。でも、全然会えなくて」


 大嘘までついてまで、薬を使わせてもらったのに。


「お姉ちゃんならあそこにいるよ」


「え?」


 私は小さな私が指差した方を見た。


 白い空間の片隅。そこにはトライARの青い衣装を着たお姉ちゃんが微笑んでいた。


「お姉ちゃん!」


 私は思わず一歩踏み出す。だけど、やっぱりまた暗闇に沈んだ。





『あなたがいけないのよ!』


 キンキンとした怒鳴り声が耳に響く。気が付くと私はドアの前にいた。身体が小さい。たぶん小学生の頃に戻っている。


 これまで数か月前までしかさかのぼらなかったのに、どうしてだろう。暗がりの中、パジャマ姿の私は胸の前にあるドアノブをそっと押す。中の様子をドアの隙間から見た。


 リビングに離婚したはずのお父さんが立っていて、その前にお母さんも立っていた。


『なんで麦音が学校に馴染めないのが俺のせいなんだ』


 私の事を話している。この時のことはよく覚えていた。東京の近郊、元居たところからお父さんの仕事の都合で引っ越して、数か月経った時だったはず。


 私は数か月経っても学校に馴染めず友達も出来ていなかった。心配した担任の先生が昼間、特別に家庭訪問に来たのをお母さんは気にしていたんだ。


『あなたが仕事ばかりで、私たちのことを気にかけてくれないからでしょう!?』


 そんな大声でケンカしなくても、もう少し時間が経てば私も友達が少しは出来るよ。そう心の中で言っても小学生の私にすら聞こえはしない。


『仕事ばかりなのは仕方ないだろ。職場が変わって、慣れるのにこっちも大変なんだ』


『大変なんだ、大変なんだって。そればっかり! 引っ越す前だって言っていたわよ』


『気楽なパートとは違うんだ。分かるだろう』


 私はじっと息をひそめて見ていた。この頃、二人がケンカするのはいつものことだった。内容も特に変わらない。だけど、この日はそれだけじゃなかった。


『それに転勤で引っ越してよかっただろ。これでお前たちもコパンのことも忘れられる。いつまでも死んだ人間にしがみついてもしょうがないからな』


 お父さんの言うことに私は息を詰める。お母さんもみるみるうちに顔が真っ青になっていった。


『よくも……』


 お母さんはテーブルにあったコップを掴む。


『よくもそんな酷いことが言えるわね!』


 叫びながらお母さんはコップをお父さんに投げつけた。お父さんに当たって、床に落ちたコップがガシャンと大きな音を立てて割れる。今度はお父さんが叫ぶ番だった。


『危ないじゃないか!』


『だって、だって』


 涙を流しながらお母さんは膝から崩れ落ちる。床にガラスの破片があっても気にしていなようだった。


『コパンはただ死んだんじゃないわ。殺されたのよ!』


『……そういう言い方をするな。あれは事故だっただろ?』


『うっ、うっ。コパンが私たちを残して死ぬわけない。きっと誰かに背中を押されて殺されたのよ。そうに違いないわ!』


『違うだろ? 麦音も言っていた。他の子をかばったって。誰かに押されたっていうのはお前の妄想だ』


『違う! だって、せっかく何もかもうまくいっていたのに。あなただってあの頃はもっと優しかった。麦音だってもっと活発で。コパンだって、あんなに……、うあああああっ』


 お母さんは泣いていた。声を押さえることもなく。


『ほら、血が出ているじゃないか』


 お父さんがしゃがみ込み、お母さんの手を取る。手からは血がにじみ出ていた。それが目に入ると小学生の私の身体はびくりと震える。ドアがごく小さくカタと音が鳴った。覗き込んでいた私の目とお父さんの目があった。


『麦音、起きてしまったのか。もう寝なさい』


 お父さんが私に近づいてくる。ドアが大きく開かれると、今度は頬を濡らしているお母さんと目が合った。


『麦音。麦音は大好きだったお姉ちゃんのこと忘れないわよね』


 お母さんのかすれた声が耳に届く。私はお父さんの背中越しに約束を交わすように小さく頷いた。





 私はゆっくりと目を開いた。


「お姉ちゃん。私、私……」


 そこはやっぱり白い空間。暗闇に落ちる前と同じ、少し離れたところに、お姉ちゃんは立って相変わらず微笑んでいる。


「大丈夫だよ」


「え?」


 静かに立っていたお姉ちゃんが口を開いた。そして白い空間に波紋を広げながら一歩ずつ近づいてくる。


「大丈夫に決まっている」


 私がぼーっとしていると、お姉ちゃんは胸に手を当てて頷いた。


「ずっと信じているから」


 私の瞳にはみるみるうちに涙がたまっていった。


「お姉ちゃん……」


「手を引いていくことは出来ないけれど」


 離れた場所にいたお姉ちゃんは、もう一メートル近くまで来ていた。


「ずっと応援しているから」


「お姉ちゃん、それ……。歌の歌詞だよ?」


 お姉ちゃんが言っていたのは全部、トライARのオリジナル曲トライアルノミの歌詞だった。それを聞いて私には分かってしまった。


 目の前にいるのは私の記憶の中のお姉ちゃんだ。


 やっぱり私は、もう――。


「ごめんなさい、お姉ちゃん。お母さん……。私、もう、全然、お姉ちゃんのこと覚えていないの」


 記憶の欠片さえあれば、十年前にタイムリープできるかと思っていた。でも、そんな欠片さえなくて、私はどこにも行けずにいる。



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