3-3
午後の授業は美術だった。美術室は机が後ろに寄せられていて、椅子だけが並んでいる。
『それでは二人一組になってください。向かい合って相手の肖像画を描きましょう』
美術の女性の先生が檀上で言う。さっそくペアになっていく生徒たち。
『あ、
隣のクラスの実久ちゃんに声をかけた。美術の授業は選択クラスで、二クラス合体して授業が行われる。こういうときは、よく実久ちゃんとペアを組んでいた。
『実久、こっちで描こう』
私が声をかけて目が合ったのに、実久ちゃんは何も言わず同じクラスの子とペアになった。その時は仕方ないかと思ったけれど、今思うと何か言いくても言えないような表情をしていた気がする。
『えっと』
私は辺りを見回した。ペアはどんどん出来上がっていって席に座り、私は一人取り残されている。
『どうしましたか? 偶数だから余らないはずですよ』
先生の一言がどうしていいか分からずに立ち続ける追い打ちをかけた。
『杉本、俺とペアになる?』
『え、でも』
声をかけてくれたのは橋田くんだ。もうすでに同じクラスの男子とペアを組んでいた。
『ごめん、他の奴と組んで』
橋田くんがそう言うと前の椅子に座っていた男子は頷いて席をどいてくれた。
『ほら、杉本』
『じゃ、じゃあ』
私は空いた席に座る。ああ、これも駄目だったんだと意識の中で思いながら。私たちは互いの顔を見ながらスケッチブックに鉛筆を走らせた。
『杉本、ちょっと横向いて、髪を耳にかけて』
橋田くんが言われた通りにしてみる。
『うん。横顔の方が絵になるよ』
そう言われて少し頬が赤くなるのを感じる。だけど、そうしていると橋田くんの顔が見えない。チラチラと横目で橋口くんの様子をうかがう。
『もういいよね。私のスケッチ進まないし』
『しょうがないな。ま、モデルは良くても俺に絵のセンスないしな』
橋田くんが見せてきたスケッチブックには、かろうじて人物だと分かるカクカクとした横顔が描かれていた。思わずクスクス笑ってしまう。
『なにそれ。壁画みたい』
『壁画はないだろ。せめてピカソみたいとか』
『ほらそこ。口ばかり動かしてないで、手を動かして』
おしゃべりしていたら先生に怒られてしまった。ふと先生の背後にいる女子と目が合う。じっとこっちを睨んでいたのだ。その時はうるさくして怒っているのかと思ったけれど、そうじゃなかった。
美術の授業が終わって、ホームルームも終わると後はもう帰るだけ。
『じゃな、杉本』
『うん。また明日』
部活に向かう橋口くんと挨拶を交わして、帰る前にお手洗いに向かう。女子トイレに入ると誰もいなかった。一番奥の個室に入ったときだ。それは予告もなく訪れた。
ガンッ ガンッ
いきなり個室のドアが蹴られ始める。私は怖くて身を縮めた。音だけじゃなくて声もする。
『杉本ー、いるんでしょー』
『な、なに?』
誰かは分からないけれど、相手は一人じゃない。間髪入れずに続く音は複数人いる証だ。声は女子。
ガンッ ガンッ
『最近調子に乗りすぎじゃないですかー?』
圧のある不機嫌そうな声に、なるべくドアから離れる。トイレの個室なんてそれほど広さもないから意味もないのに。
『サッカー部の橋田くん、結構人気あるって知らないわけじゃないよねぇ?』
この時やっと何故こんな目にあっているのか理由を知った。席が近くて親しくした私に嫉妬した女子たちが嫌がらせをしてきたのだ。鳴りやまないドアを蹴る音に私は身を縮めて耳を塞ぐ。
『一緒に食堂行ったり、美術でペアになったり、完全に調子乗っているよね』
『それは、向こうが……』
『はあッ!? 橋田くんの方から近づいてきているって言うの? あんたなんかに? ぼそぼそ何言っているか分かんない子に?』
『席が前後だし……』
『そんなの関係ないし! とにかく、もう橋田くんと話さないでね』
やっとドアを蹴る音が止んだ。そう息をついたのもつかの間だった。
『今度近づいたら、またこうだから』
上から冷たい水が大量に降ってきた。頭から水をかぶり一気にびしょ濡れになる。
『おまけ。行こっ』
頭に濡れた雑巾が叩きつけられる。キャーキャー言いながら、女子たちの声が遠のいていく。
この時は二月の真ん中だった。トイレの中は、風は吹かなくても十分寒い。だけど、誰かにずぶ濡れになっている姿を見られる方が嫌で出ていけなかった。こんなことをされる自分がすごく恥ずかしかったのを覚えている。
長い時間待って生徒たちの声や足音でざわめいていた音が全くしなくなったので、私はそっとドアを開けてみる。トイレのタイルの床には水色のバケツが転がっていた。
制服の水気を絞って、水浸しになった便器を掃除して、私は教室に戻る。もう誰も残っていない。窓の外は日が沈んで、暗くなっていて星もくっきり見える。しけっている制服の上からコートを羽織り、帰路に就いた。水がしたたり落ちていないか気にしながら、電車に乗る。鼻水が落ちそうな鼻を大きく巻いたマフラーで隠した。
どうしてこうなったのかなって、二回目でも思う。橋田くんと話したせいだけじゃない。きっと私に彼女たちにそうさせる何かを持っていたからだ。
アパートに帰りつくと誰もいない。お母さんは仕事で遅くなる日だった。私は夕ご飯を用意するために、台所に行ってお米を研ぐ。水は冷たい。一粒だけ涙が落ちた。
それから私は橋田くんを避けるようになる。挨拶ぐらいはするけれど、話しかけられてもすぐに何か用があるように見せてその場を去るようにした。それでも女の子たちの嫌がらせは続いて、さすがに水をかけられることはないけれど、無視されたり靴箱にゴミを入れられたりしていた。
でもそれも、一か月ぐらいのことだった。二年生になりクラス替えがあったのだ。
先生たちが私の状況を知っていたかは分からない。でも、橋田くんとは違うクラスになり、ほとんど知り合いのいないクラスに私はいた。嫌がらせしていた女の子たちとも離れたのだろう。嵐が過ぎ去ったように嫌がらせが止んだ。
元々友達を作るのが下手だった私。なおさらどう人と接していいか分からなくなった。新しいクラスでも友達は出来ず、休み時間はスマホで音楽を聴くようにした。
目を閉じて、ただ歌に集中するように。そして――。
――あれ?
薄っすらと目を開ける。さっきまで高一の冬の過去にいると思っていたのに、私が今いる場所は、家でも学校でもない。
ここどこ?
目の前に真っ白い空間がどこまでも続いている。不思議な空間。思い出すように丸い波紋が所々で広がっていた。
自分の手を見る。手を動かして、耳を澄ませて。私は自由に動けた。動けるから過去ではない。過去は決まっているから、自由には動けない。それなら未来? 現在?
そのどれでもない。もしかしたら、夢の中なのかも。
私、タイムリープしながら寝てしまったのかもしれない。三百六十度、辺りを見回してみてみる。何もない。でも何か聞こえる気がする。一歩だけ前に踏み出してみた。
途端に、意識が黒く沈んだ。
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