3-2
◇◇◇
――ピピピ、ピピピ。
聞きなれた目覚まし時計の音が鳴る。布団から手だけをうんと伸ばして、目覚まし時計のてっぺんにあるボタンを押した。ぬくぬくとした布団の中は魅力的だけど、一気にはいでしまう。上半身を起こして足を床に着く。そのまましばらくベッドの脇に座って、目覚まし代わりに寒さを感じた。
六畳ほどの部屋にあるのはベッドに、勉強机に、タンスに、姿見の鏡。鏡に自分の姿が写る。そこにはタイムリープする前とあまり変わらない、パジャマ姿の私がいた。
ああ、ここは現実だ。
私は失敗したんだ。十年前なんかじゃない。場所はただの私の部屋。
立ち上がって壁に掛けられている長そでのセーラー服に袖を通す。たぶん、高一の冬。コートとマフラーも隣にかけてある。赤いスカーフを巻いて、黒のハイソックスを履いたら、私の身体は自分の部屋を出る。
台所に行って、トースターに食パンを一枚置く。焼き時間は四分。待っている間に洗面所で顔を洗った。戻ってくるとパンは少し焦げていた。火傷しそうになりながら、お皿に乗せてテーブルに運ぶ。台所に戻って冷蔵庫を開け、イチゴジャムと牛乳を取り出した。牛乳をコップに注いで、テーブルに着いた。ジャムをトーストに塗り、手を合わせる。
『いただきます』
うん。いつもの甘酸っぱい味。
食べ終わるとお皿とコップを洗い部屋に戻る。髪をといて、この日は何日か分からないけどスマホで時間割を確認する。目で追っているのは木曜日で、午後は美術の授業がある。紺色のコートを着て紺色のマフラーを巻いて、家を出た。
アパートの階段を下りて、住宅街の中を五分ほど歩くと駅に着く。駅には既に電車を待つ人がまばらに並んでいた。
ホームで待つのは手先が冷えるので、こすり合わせたり息をかけたりしていた。クリーム色の電車が来て、乗り込む。座れたり座れなかったりするけれど、この時は運よく席が空いていた。鞄の中からスマホを取り出し、イヤホンをつける。トライARのミニアルバムの曲を選択して流す。
目を閉じて気持ちよく聞いていると、あれ? と思った。
朝目が覚めて、ご飯を食べて、準備して。それだけで、とっくに三十分過ぎている。それなのに元の時間に戻れていない。どうせすぐに戻るからとのんきに構えていたけれど。もしかして普通のタイムリープと同じように、あの秋葉原のレストランに行くところまで時間が追いつかないと意識も戻れないのかな。
そう思うけれど、私にはどうすることも出来ない。意識が過去の身体に閉じ込められている中で、電車に揺られていることしか出来なかった。
でも、いいや。そのうち戻るだろうし、ただ身体に意識が付いていくだけだから大変なことは何もない。そうやってただ意識を過去に揺らしていた。
◇ ◇ ◇
「どうするんだよ。全然、目が覚めないじゃん」
僕は目の前のエモンに訴えた。レストランのバックヤードのパイプ椅子を並べて寝ている杉本麦音。ただ健やかに眠っている。ちゃんと息もしているし、汗もかいていない。だけど、どんなに声をかけても、どんなに肩をゆすってもピクリとも反応しないのだ。
エモンもどうしていいか分からずに、ただそこに立っている。
「こんなはずじゃ……。僕たちはすぐに目覚めたっていうのに。仁太も過去での体感時間は三十分ぐらいだっただろ?」
「いや、それより短かったかも。でも、やっぱり使った本人は薬を浴びた量が違うから症状が違うとか?」
エモンは首を横に振る。
「薬の量は関係ない。あれは販売されているのより濃度を濃くしてあるだけ。脳の奥深くにまで命令が行くようにね」
「じゃあ僕たちは目を覚ましたのに、なんで目を覚まさないんだ?」
「分からない。でもこうしていても目は覚めそうにないな。峰山の車を呼んで病院に連れて行こう。脳波に異常がないか調べてもらうんだ」
スマホを取り出し、エモンは峰山さんに電話をかける。その手は少し震えていた。
「いいのか? 秘密の実験だったんじゃないのか?」
「この非常時にそうは言っていられないよ。あ、峰山。今から言う場所に車を――」
辛そうでも幸せそうでもない杉本麦音の寝顔。待つことしか出来ない僕は寝顔を見ながら話しかける。
「いったいどんな過去にいるんだよ。早く戻って来いよ」
それとも僕やエモンと一緒にいるよりも、姉と一緒の過去の方がずっといいのだろうか。だから目が覚めないのだろうか。
◇ ◇ ◇
私はただ淡々と授業を受けていた。
窓際の後ろから三番目の席。暖房のために締め切った教室の窓は、曇っていて水滴が流れている。現国の先生のベストは渋いうぐいす色。毎日のように見ていた光景だけになんの違和感もなく。過去の身体に未来の意識が同化している。
『それじゃ、杉本。読んでみろ』
『はい』
当てられた。席順だったのだからしょうがない。私は立ち上がって、教科書の指定された箇所を読み始めた。
『私はその人を常に先生と呼んでいた。だから』
『声が小さいぞ。もう一度』
『私はその』
『もういい。代わりに橋田、読んでくれ』
『はい』
そういえばこんなことがあった気がする。声が小さくて先生に注意されて、代わりに後ろの席の橋田くんが読むっていう。
『さっきはごめんね』
授業が終わって昼休みになると、すぐに後ろを振り返った。
『なに? ああ、先生に代わりに教科書読んだこと? どうせ俺も順番で当てられたんだから気にするなって』
橋田くんは犬歯を見せて、にっかり笑う。
それを見て意識の中の私は思い出した。この日、何があったか。橋田くんは立ち上がると背が高い。私も立ち上がっても、見上げながら話さないといけなかった。
『杉本、いつも学食だよな。いつも一人だし。一緒行くか?』
『え、いいの?』
『もちろん。一人で食べても面白くないだろ』
この後何があったか私は知っている。行っちゃダメ。そう念じても、足は勝手に動いていく。私と橋田くんは二人並んで学食に向かった。
私が通う高校には学食が別棟に建てられていて、お昼になると毎日学生たちで込み合っていた。橋田くんは列に並びながら私に話しかける。
『俺、A定食にするけど、杉本は?』
日替わりはAとBとあって、A定食はアジフライ、B定食は生姜焼きだった。
『私はうどんかな』
厨房の上にはメニューが並んでいて、その中からうどんを選んだ。
『うどん? いやいや。そんなんじゃ、午後持たないだろ』
『え。私、いつもうどんかおそばだけど』
『いつも? うわっ、ほそっ』
橋田くんは制服の上から私の手首を握った。これがいけなかったのかもしれない。私の腕を離して、橋田くんはニッカリ笑う。
『食べないからそんな細いんだよ。よし。杉本はB定食。決まりな』
『えー。何で勝手に。定食とか食べきれないよ』
『残したら俺が食べてやるから』
橋田くんは自分のお腹を叩いてアピールした。私の口からは自然とクスクスと笑いが出てくる。でも、笑っている場合じゃないんだよ。
腕にドンと誰かの腕が当たる。
『あ、ごめんなさい』
列に並んでいて動いていなかったけれど、私はとっさに謝った。
『調子に乗んなよ』
ぼそっと耳元で言われた。何度思い返しても背筋が緊張で固まる。
『どうかした、杉本?』
『う、ううん』
少し前に進んでいた橋田くんの元に小走りで走り寄った。
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