3-1 それぞれの過去

  パンッ


 あれ? 暑い。冷房の効いたレストランにいるのに。僕はゆっくりと目を開けた。いや、僕の意思とは関係なく開けられた。ふーっと頬を膨らまして息を吐き、手にしていたバッドをじっと見つめる。


 バッド?? なんでバッドなんて持っているんだ、僕。


 目線が自動的に流れていく。そこには野球のマウンドがあり、バッターが立っていて、キャッチャーのミットにボールが吸い込まれる。聞き覚えのある小気味い音が響いた。


『ストライク! バッターアウト!』


 キャッチャーの後ろにいる主審がそう叫んだことでようやく状況が分かった。


 ここは現在じゃない。過去だ。しかも一年以上も前の。


 おそらく隣にいた僕は杉本麦音が使った追憶体験薬によるタイムリープに巻き込まれたのだろう。たぶんこの過去が終わらないと戻れない。


 見なきゃいいのに、僕はスコアボードを見た。九回裏、三対二で負けている。スリーボール、ツーストライク、ワンアウト。青と黄色と赤のランプがついている。それが、ただの二つの赤いランプ、ツーアウトに切り替わった。一塁と三塁にはランナーがいる。ツーアウトで後がないけれど、ヒットを出せば逆転可能だ。


『いけー、仁太!!』


『お前なら打てる!』


 ベンチから声援が飛んできて、僕はそちらを振り向いて黙ってうなずく。そして、髪をかき上げてヘルメットを被りなおし、バッターボックスへと向かった。バッドを構えて、土を踏みしめる感覚が懐かしい。


 タイムリープしたのは中学最後の夏の大会。僕が所属する野球部は準々決勝にまで進んだ。これに勝てば県でベスト四。うちの中学の野球部始まって以来の快挙だ。スタンドには学校からの応援も結構来ている。


 だけど僕はこの時の結果を知っている。当然だ。僕の過去なのだから。


 しかも、このとき僕が思っていることは、なんでこんな大事な場面で僕なんだ、だった。


 ここでヒットを出せば間違いなくヒーローなのに情けなくて、かっこ悪い。


 そんな僕がバッドを振っても打てるはずもなく。ファール、ストライク、ボール、ストライクと順当にスコアボードの黄色いランプを重ねていく。


 そして、最後は、


 カンッ


 高めのボール球に手を出して、ボテボテと二塁と三塁の間に転がる。打った僕は一塁へと走る。エラーでもしてくれればいいものの、流石にここまで勝ち上がったチームの守備はうまい。相手チームのショートは難なく一塁にボールを投げてアウトをもぎ取った。一秒遅れて僕は一塁ベースを踏む。


 後から思い起こすと、ありがちな最後だった。


『『『ありがとうございました!』』』


 全員でマウンドに並んで、互いに頭を下げた。その声は無理に声を張り上げているようだった。仲間たちのちくしょう、もう少しだったのに、という心の声が聞こえてくる気がする。


 僕はただ無言でベンチに帰った。タオルで顔を拭いていると、俺のすぐそばに人が立った。


『なんで最後思いっきり振らなかったの?』


 マネージャーだ。黒い野球帽をかぶった制服姿の女子マネージャー。


『最後、いつもみたいに思いっきり振っていたらヒットになっていた』


『いつもみたいって何だよ。お前に分かるのかよ!』


 僕は反論する。いつもみたいに振っていたら、ただの空振りだった。


『仁太は思いっきり振っていたさ!』


『誰が振っていても結果はこうだった!』


 仲間たちが僕の事をかばう。でもかばわないで欲しかった。かえって情けなくなる。


『傷のなめ合いなんてバカみたい。最後の、大会だったのに……』


 ああ、嫌だ。こんな場面を何度も見るのは。マネージャーはボロボロと涙を流し始めたのだ。みんな、それを見て黙ってしまう。マネージャーだってこれまでの僕たちの練習をずっと見てきていた。


『ん』


 過去の僕はタオルを差し出す。マネージャーはタオルで顔を覆った。


『汗臭い。……ごめんなさい。無神経なことを言って』


『別にいい』


 いいといったのは、マネージャーのためじゃなくて図星だったからだ。情けない僕は速球を投げるピッチャーに最初から最後までビビっていた。そして誰にもそれを悟られたくなかった。せめて最後はかっこよくありたかった。だから焦ってボール球に手を出してしまった。


 でも、未来から来た僕が見るとみんな、僕がビビっていることを分かっていたんじゃないかって思う。マネージャーが気づいたくらいだ。一緒に練習していたみんなが分からないはずがない。分かっていて仕方ないとどこか諦めていたんだ。たぶん、自分だったらに置き換えて。


 その日を最後に僕は野球をやめた。それも、なんか――。





「……かっこ悪いんだよな」


 ぽつりとつぶやいた言葉は僕の口から零れ落ちた。


「あ、あれ?」


 目の前にある指が僕の意思通りに動き、体の自由が利くことが分かる。硬く握りしめていた手を開いて、手のひらを見つめるとじっとり汗をかいていた。身体はテーブルに突っ伏している。くらくらしながらも、僕は上半身を起こした。


「ああ、よかった」


 萩野さんの安堵した声が聞こえる。声がした方を見ると、杉本麦音もエモンもテーブルに突っ伏していた。倒れたジュースが白いテーブルクロスをオレンジ色に染めている。


「三人ともいきなり倒れてびっくりしたよ。いったい何があったんだい?」


 杉本麦音の背中に手を置いている萩野さんはこの状況に当惑している。当たり前だ。三人がいきなり同時に倒れたものだから、周りのお客さんもざわついている。僕はドキドキしている心臓を静めながら、できるだけゆっくり話した。


「大丈夫です。僕がすぐに戻ってきたんだから、二人もすぐに戻ってくるはずです。その、タイムリープしていたから」


 せっかく良くしてもらったのに、タイムリープしていたなんて悪い印象を持たれたかもしれない。だけど、萩野さんはなおも心配したように言う。


「でも、かれこれ十分以上も、こうしているんだよ」


「十分も?」


 普通のタイムリープは一分ほどだ。それとも十年も、いや、実際僕には一年ぐらい前の過去だったけれど、多くの時間を超えるためには現実の時間もかかるのだろうか。


 杉本麦音はテーブルに突っ伏していて表情は分からない。だが、エモンは椅子の背もたれに背を預けて、苦悶の表情を浮かべていた。


「麦音ちゃん、起きて」


 萩野さんが杉本麦音の背をゆすり始める。僕も立ち上がってエモンに近づいた。


「おい、エモン。どうなっているんだ? なあ? 起きてくれよ」


 肩を掴んで揺さぶってみる。


「……るさい」


「エモン!」


 歯を食いしばりながら反応を見せるエモンに、僕は耳元で叫んだ。


「違う。違法、じゃな」


 違法じゃない? うわごとを言うエモン。もしかしなくても過去に戻っている。


「エモン!」


 もう一度揺さぶると、エモンは跳ねるように起き上がった。


「うるさい、うるさい、うるさい! ……あ」


 エモンは首を振って何度も叫んだ。僕と目が合うと動きを止める。


「よお、目が覚めたな。何かうわ言を言っていたぞ」


「……そう」


 バツが悪そうにエモンは目を伏せた。よかったとホッとしたように萩野さんが言う。


「あとは、麦音ちゃんだけだね。場所を移そうか」


 お客さんは少ないものの僕らは好奇の目で見られている。萩野さんは杉本麦音を抱えてお店のバックヤードに連れて行ってくれた。


「ったく、早く起きろよ。相変わらずトロいんだから」


 杉本麦音も、僕やエモンのように、しばらくしたら目が覚めると思っていた。

しかし、十分、二十分、――一時間。


 どれだけ待っても、杉本麦音が目を覚ます気配はなかった。



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