1-9
あれだけ苦しいこともあったのに、二度目の三十分はあっという間だった。現実時間では一分間。タイムリープしていた過去の時間が現在に追いつく。
僕は銀色のスティックを上げていた腕を下ろし、満足げに言った。
「あー、気持ちよかった」
「怖かったぁ」
終わって心底安心したような声。
「えっ!」
僕は隣にいる杉本麦音を振り向く。本当か聞こうとしたが、生白い顔がすぐ目の前にあった。頬に熱がたまるのを感じつつ、不自然に思われない程度に少し距離をとる。
「えーと、下り坂、怖かったのか?」
「あ、えと、最初は。最後の方は緩やかになって気持ちよかったよ」
明らかに遠慮して言っている。僕はまさか怖がっているとは思わなかった。最初は驚いているようだったけど黙って付いて来ていたし、海風は気持ちよかったし。
何となくあの感動を共有している気でいた。当然、杉本麦音も、もう一度味わいたいに違いないと思っていた。
だけど、よく考えたら最初の下り坂では予告もなく下り始めたし、二度目も拒否する間もなく杉本麦音も巻き込んでタイムリープしたのだ。
振り返ってみると自分勝手さを思い知らされた。
「ごめん。勝手に使って」
少し肩を落し僕は、銀のスティックを元に戻して杉本麦音に手渡した。
「……これでタイムリープが出来るって知っていたんだね」
手元のスティックを見つめながら杉本麦音は言う。
「そりゃ、有名だし。でも……」
「でも、今は違法」
僕が言おうかと迷ったことを杉本麦音はすんなり口にした。
「完全に違法って訳じゃないだろ」
自分も使ってしまった手前、そんなことが口から出る。正確にはタイムリープの薬は、法律で禁止されているわけじゃないから違法ではない。だが、世間ではそう言われていた。
販売された当初、あれだけもてはやされたタイムリープの薬は、ある時を境に販売中止になったのだ。
販売中止になった原因が、タイムリープの薬、『戻るくん』を生産していた製薬会社が襲撃された事件だ。夜中に工場に入り込まれ、金目の物にはいっさい手を付けられてなかった。狙いは大量の『戻るくん』だ。確かにこれらを転売すれば莫大な金になるはずだが、それが狙いでもなかった。
犯人グループは重度のタイムリープ依存症となっていたのだ。潜伏していた部屋を突き止めた時には半分以上が使用済みだったという。そのほとんどが何でもないような日常のことに使われていたらしい。
この事件をきっかけに健康に直接的被害はないものの、タバコやゲームと同じくタイムリープには依存症が認められるようになった。工場を襲撃するほど、ただ時を戻る感覚に病みつきになる。僕には理解できないと当時思った。
もう一つ問題になったのは、個人情報保護の問題だ。一瞬見ただけでは覚えられなかったことももう一度見れば、容易く記憶できる。一度目はぼんやりと見ていても、もう一度時を辿れば意識を集中することが出来る。
相手がタイムリープすれば、二度目の自分は隅々まで見られることになる。人の過去もプライベートの侵害ではないかと、訴訟を起こすケースも増えてきた。テレビのワイドショーでも、違法じゃないかと論争されるようになる。
様々な論争が沸き起こった結果、タイムリープできる薬、『戻るくん』は販売中止となったのだ。
――ただ、それは一般に限りという文言がつくのだけれど。
僕はついさっき戻った三十分間のことを振り返る。
思い付いて使ってしまったが、杉本麦音はタイムリープ依存症なのだろうか。それとも杉本麦音は上り坂で苦しんでいる姿をもう一度見られたくなかっただろうか。確かに人が苦しむ姿っていうのは、そんなに綺麗なものではない。
しばらく杉本麦音は黙ったまま、うつむき指で遊ぶようにスティックを触っていた。やがて思い付いたように口を開く。
「これ、ネットで仲良くなった人に貰ったの」
『戻るくん』は販売中止になったとはいえ、全く出回っていない訳ではない。販売中止以前に買いだめしていた人が、ネットで個人的にやり取りしている場合もある。
別に持っているだけで何か罪に問われるという訳ではない。持っていると知られると多少奇異の目で見られるわけだが。
僕はネットで買ったわけでなく貰ったという言葉に引っかかりを覚えつつも、なるべく興味ないように言う。
「ふーん。ちなみにあと何回使えるの?」
「あと五回だね」
「五回……」
スティックの中央にある5という数字を見せてきた。確か十回セットのはずだ。半分は何に使ったのだろう。気にはなるけれど。
「まあ、いいんじゃないの。それまでにしておけば。人体には影響ないみたいだしさ」
僕はなるべく明るい声で言った。タイムリープ依存症の人が高額のオークションに手を出して自己破産なんてニュースも聞かないわけじゃない。
だから、一応忠告だけはしておく。
「うん。……これで最後。お弁当、食べようか」
杉本麦音はベンチに置いていた弁当箱を手に取る。地面に転がしたせいか、おかずが片側に偏っていた。僕も弁当の蓋を開ける。
「なぁ、僕の一個上ってことは高二だよな」
「うん。そうだよ」
「学校で部活とかしてないの?」
僕は何でもいいから話題を探した。黙って食べるのもつまらない。それに一緒にタイムリープしてしまった以上、杉本麦音に関わりたくないという思いは、ほんの少しだけど薄れてきていた。
「部活はしてないよ。帰宅部」
「ふーん、一緒じゃん」
「そうなんだ。仁太くん、運動部とかに入っていそうなのにね」
「夏休みは? 何していた?」
僕は明らかに前の晩の残り物のから揚げにかじりつく。
「えっと、……夏期講習がほとんどで勉強したり、友達の家に行ったり」
「夏期講習なんて受けてんの? 赤点だった?」
「赤点じゃなくても、うちの学校はみんな受けているよ?」
「うげ、進学校じゃん」
僕の場合、勉強はしていなくて友達と遊んでばかりだったことは黙っておいた。
「夏休みも勉強漬けだったなら、エモンの家に行くの楽しみだな。東京の名所とか回るんだろ? どこ行くつもり?」
「え、あ、えーと秋葉原とか。あとは、その、いろいろ」
単純な質問なのに、どうにも杉本麦音の答えははっきりしない。ただ夏休みだから遊びに行くというより、他にも何か目的を隠しているように感じた。どうして一緒に行く僕にはぐらかす必要があるのだろうか。
「……東京の大学に下見に行くとか? 高三になったら勉強で行けないから、高二のうちに見に行くって先輩が言っていた」
僕の興味がなさそうなことだから、遠慮しているのだったらいいけど。
「ああ、そういえば進路指導の先生から言われているんだった。夏休み前に個人面談があって早めに決めろって言われているの。うん。遊びに行くついでに、大学を見に行ってみるのもいいかもしれないね。東京の大学に行くかは決めてないけど」
杉本麦音は話がそれたからか、少し饒舌になる。たぶん、頭はいいのだろう。
「文系? 理系?」
「文系だよ。一応、文学部に行くってだけ決めているの」
「ふーん。僕はどうしようかな」
「どんな教科が得意なの?」
「体育?」
その後も、とりとめのないことを話す。僕が完食しても杉本麦音の弁当の半分は残っていた。女の子だから食べるのが遅いのだろう。杉本麦音が時間をかけて口に運んでいる間、僕はぼんやりと海を眺める。
前の日の夜、過去三十分何もしていないはずなのに、なぜタイムリープしていたかは聞きづらくて結局聞けなかった。
まぁ、大したことじゃないだろう。そんなことを頭の隅で思っていた。
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