1-8
坂を下りきって、少し走らせた所に休憩所があった。海のすぐ近くにある庵のような屋根付きのベンチだ。
僕らは海辺の壁面に自転車を立てかけ、隣り合うベンチに座り込んだ。
「はー、何とかここまで来たな」
僕はヘルメットを外して汗まみれの髪を無造作にかき回した。
「あの坂、絶対登れないって思ったけど」
たったいま降りてきたばかりの坂を見上げる杉本麦音。こちら側からだといくらかは緩やかに見える。僕は自然と笑みがこぼれた。
「登れたな。あとは海岸線の平地をいくだけだし、小田原までそんなに遠くない。よし、昼飯にしよう」
昼飯は母さんが弁当を二人分用意してくれていた。それぞれの荷物の中に入っている。
「さすがにお腹空いたね。――あっ」
疲労で腕に力が入らなかったのか、杉本麦音はリュックの中身を地面にぶちまけた。
「あー、何やってんだよ」
しょうがなく僕は立ち上がって拾う。黄色い布に包まれた弁当箱に白いポーチ、デカく痴漢撃退と文字が書かれた催涙スプレーに……。
「これ」
「あ、ああ、それは仁太くんのお母さんが念のためにって」
「そっちじゃなくて、これ」
銀色の人差し指大のスティック。動揺していた杉本麦音の目がさらにさ迷う。
「あ、それは、マスカラ……」
「ポーチに入れとけよ、って、そうじゃなくて」
どうしようかと僕は頭をかく。マスカラは苦しい言い訳だ。だいたい、出会った時から杉本麦音は化粧っ気のない顔をしている。
それ以前に僕はこれの正体を知っていた。この中にはタイムリープをする薬が中に入っている。高校生なら一度は興味本位で使ったことがあるはずだ。そんなの杉本麦音だって分かっているだろうに。
「ごめんね。拾ってくれてありがとう」
何事もなかったかのように杉本麦音が手を差し出してくるが、僕はとてもいいことを思い付いた。杉本麦音のすぐ隣に腰を下ろして、顔を覗き込む。口元がにやけていることは自覚していた。
「なぁ、弁当食べる前にタイムリープしないか?」
「え」
「いいよな。行くぞ」
僕は問答無用で、顔を近づけスマホで自撮りをするように目の前にそれをかざす。左右に引っ張り、中の緑色の液体が入った透明の筒を露出させた。
パキン
右手を捻ると小気味いい音が鳴る。
筒から緑色のミストが噴き出てきて、僕らは三十分前にタイムリープした。
一回瞬きすると、白くフラッシュする。すると映像が切り替わったように道路と杉本麦音の姿が脳に映し出された。僕は自転車のハンドルを握っている。口が勝手にしゃべりだした。
『ダメだ』
しまった。ここからか。どうせならきつい場面はスキップしたかった。
タイムリープしたのは、ちょうど三十分前。僕は立ち止まって坂の下にいる杉本麦音に声をかけていた。勝手に三十分前と違う動きをすることは出来ないが、意識は違う。
『え、なんで?』
そう言って見上げてくる杉本麦音の顔は何とも情けなく、笑いがこみあげてくる。実際にはもう決まっている過去の行動通りにしか動けないので、口角を上げることもできない。
杉本麦音の傍に咲いている黄色い花は、来た時には気づかなかった。そんな些細なことにも気づく心の余裕がある。とはいえ、使い込まれた太ももはずしりと重い。良いことも悪いことも、過去のまま再現されていた。
夢の中とは違う。自転車のハンドルのグリップを握っている感覚もしっかりする。木々の青臭い匂いも風に漂っている。五感が現実と同じくはっきりとしているのだ。タイムリープで来た過去は、夢というよりデジャヴに近いかもしれない。
『いいから。立ちこぎ無理なら、座ったまま漕いでいいから。じゃないと置いていくぞ』
『お、置いていかないで』
いくつか言葉を交わして、僕らはまたあの今日一番の難所である激坂を登り始める。
僕は後ろから声をかけながら、杉本麦音の背中しか見つめていなかった。前を行く杉本麦音の背中は一度目と同じくいっぱいいっぱいだと言っている。限界だとも言っているような気もした。
これでよく登り切ったなと改めて思う。二人激坂の頂上に着くと、あの瞬間はまたやってきた。
『やっと、頂、上』
何度見ても杉本麦音はヘロヘロだ。僕も肌にまとわりつく汗が気持ち悪い。こんなことまで再現しなくていいのにとも思うが、そんなものすぐに吹き飛ぶ。僕の足は急くようにペダルを踏む。
『よし、行くぞ。また坂だ』
『えっ、まだ坂があるの?』
一度目と同じようにはやる気持ちで僕はまた杉本麦音を追い抜いた。景色が再び開ける。
『あるぞ。下り坂だ!』
下り坂を中々のスピードで下っていく。さっきは杉本麦音を少しは気にしていたけど、今度は全く気にしない。過去は決まっていて、無事についてきていることが分かりきっているからだ。
僕はただひたすら全身で風を感じた。下から風が吹いている訳じゃないのに空気が顔に向かってくる。僕自身が風を作っているからだ。
一言二言、杉本麦音に声をかけた。ただ、それもすぐに意識の外に外れる。二度目に感じる疾走感は一度目の比じゃない気がした。
単純かもしれないけれど、下り坂を降りる時が自転車をこいでいて一番好きな瞬間だ。
ライバルを追い抜いたときの爽快感やゴールした時の感動が好きだって訳じゃないから、僕に自転車競技は向かない。ただ漕いで風を感じるのが好きで、ただただ自転車で走るのが好き。子供の時からしみついている。
自転車屋の息子に生まれてよかったと思うのはこういう時だ。
そんなことも身体を操る必要もない分考えてしまうのが、タイムリープだ。
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