1-7


 近くのコンビニでトイレ休憩をとり、僕らは順調に道のりを走破していった。いくつか上り坂もあったものの、僕が前を引いて、杉本麦音もそれに付いてきていた。


 止まりきれずに僕にぶつかってきたり、ボトルを落としたりと多少のトラブルはあったものの、概ね順調だ。


 快調にペダルを踏んでいると、僕の横に自転車がついた。


「ちょっと。僕を追い抜いてもいいけど、……」


 僕は当然、横に来たのは杉本麦音だと思った。


「Hi」


「……はい」


 しかし、右側を見ると青いヘルメットを付けた青い瞳と金髪の外国人が笑っていた。その上、僕と目が合うや否や、ペラペラとしゃべりだす。


「え、なに!? ちょ、ちょっとウェ、ウェイト」


 僕は自転車につけているスマホを手に取った。僕は英語を話せないけれど、スマホの翻訳機能を使えば会話は出来る。だけど、僕が手間取っている間に外国人はスピードを緩めて、後ろにいる杉本麦音の元に下がった。


「Hi、Pretty girl」


「は、Hi」


 大丈夫かなと思いつつも、助けになんて行けない。僕は後ろに聞き耳を立てた。すると最初はしどろもどろだった杉本麦音は、外国人並みにペラペラと会話を始める。僕といるときよりも会話が弾んでいるようだ。


「Bye!」


 外国人は分かれ道で、手を振って走っていく。今度は僕が杉本麦音に自転車を寄せる番だった。


「なぁ、何話していたんだ」


「え? 普通にどこから来たかとか、どこに行くとか。あの人デンマークから来たんだって」


「へぇ、すごいな」


 素直な感想が口をつく。


「すごいよね。外国に来てサイクリングしているなんて。世界各地を回っているって」


「そうじゃなくて、お前だよ!」


「私?」


 杉本麦音は自覚がないようで、目をぱちくりさせている。


「そう。外人に臆する風でもなくてさ。スマホの翻訳も使わないで、ペラペラしゃべってたじゃん」


「ふ、普通だよ」


「それに顔見て話していたし。俺とはあんまり目を合わせないのにさ」


「それは、口元を見ていないと聞き取れなかったから」


「とにかく、すごいじゃん。それだけ!」


 僕はスピードを少し上げて、再び杉本麦音の前に着く。後ろではそうかなとかまだボケたことを言っているけれど、僕には出来ないことをしたんだから、すごいものはすごい。




 

 そして、僕らは小田原に行くのに一番の激坂に差し掛かった。


「……反り返って見えるね」


 それまでの行程で息を切らしている杉本麦音が後ろでつぶやく。確かに黒いアスファルトと白いガードレールはわずかにその身をくねらせ、青い空に浮かぶ白い雲に届いているようにさえ見える。


「これまで通りギアを軽くして、ゆっくり確実に行くぞ」


 僕は後ろを振り返ってこれまでの登り坂と同じ指示をした。同時にハンドルについているギアを調整する。踏み込みの抵抗は軽くなるが、ジリジリと少しずつしか進まない。


「立ちこぎ出来るか?」


 中腹辺りに来ると僕は振り返って聞いた。杉本麦音はすぐ後ろにいる。


「う、うん」


 声にはまだ余裕がある。それを確認して、僕はサドルから身体を起こした。左右に自転車を振りながら、顎を少し上げ僕は自転車を運ぶ。ぐっぐっとひと踏みするごとに進んでいるはずだが、見上げる頂上は遠く、少しも進んでいない気がした。


「仁太くん」


 微かな声が耳に触れる。振り向くと杉本麦音は立ちこぎが出来ずに、自転車からも降りて立ち止まっていた。肩で息をしながらふらふらしていると、生まれたての仔馬のようだ。仔馬は僕を見上げながら懇願するように言った。


「押して、登っても、いいよね?」


 僕も止まって足を付く。


「ダメだ」


「え? なんで?」


 汗だくの杉本麦音は信じられないといった顔で僕を見上げている。


「いいから。立ちこぎ無理なら、座ったまま漕いでいいから。じゃないと置いていくぞ」


「お、置いていかないで」


 再びペダルに足を置いて回しだす杉本麦音。ゆっくり、本当にゆっくりだけど僕の元まで登ってきた。


「いいぞ。その調子で、前を向いて」


「う、うん」


 杉本麦音は下を向いていた顔を上げる。追い越されると僕も地面から足を離した。


「がんばれ! 平らな所と同じように回すんだ」


 同じようになんて回せるはずないけど、後ろから檄を飛ばす。


「回していれば、たどりないってことはないから」


「うん!」


 杉本麦音にかけている言葉は自分にも言っていた。傾斜度のきつい坂の上にわざとゆっくり漕いで、叫ぶのは多少走り慣れている僕でもつらい。


 だけど、何も言わないでいると杉本麦音のスピードは落ちてきて、声をかけると復活するものだから言わない訳にはいかなかった。


 苦闘する僕らの横を何台もの自動車が追い抜く中、少しずつ、本当に少しずつ登っていく。


「やっと、頂、上……」


 頂上にたどり着いた杉本麦音は、へとへとでヘルメットがハンドルに付きそうだ。いや、実際にカツカツと音が鳴っている。


「よし、いくぞ。また坂だ」


「えっ、まだ坂があるの?」


「あるぞ」


 僕は立ちこぎで一気に杉本麦音を横から追い抜く。


「下り坂だ!」


 長くきつい登り坂の後は、下り坂と決まっている。いや決まっている訳じゃないけれど、向こう側が見えなかったのがその証拠。景色が一気に開ける。頂上からの道は真っ直ぐ海へと延び、海沿いに沿って続いていた。


「うわぁっ」


 後ろで杉本麦音の歓声も聞こえる。押して登ったんじゃ、この快感は半減していただろう。


「止まらないで行くぞ!」


 持ち上がっているように感じていた前輪が二漕ぎした途端に身体より下に滑りだす。車輪が一気に回りだした。車輪とアスファルトが擦れる音が気持ちいい。それまでの三倍や四倍、いやそれ以上に速く僕を運ぶ。


「ひゃ、ひゃーっ」


 か細い悲鳴が聞こえてきた。見ないまでも分かる。きっといきなり上がったスピードにふらついているのだろう。


「背を反らさないで、重心を真っ直ぐにして、僕の背中を追っていればいいから」


 返事はないけど、すぐ後ろで車輪の音がするのでしっかり付いてきているようだ。下り坂はなるべくなら振り返りたくない。向かってくる風を身体全体で感じるんだ。


 登るのには何十分と時間をかけた僕らは、ものの数分で坂を下りきった。




  ◇ ◇ ◇




 もっと簡単に東京に行けると思っていた。


 だけど、ママチャリじゃない自転車は慣れるのにも大変だし、緩やかな上り坂だって仁太くんは言っていたけれど私には全然緩やかじゃない。どれだけペダルを踏んでも前に進まない気がした。


 それでも、毎回頂上について、下って、走って、登って。その繰り返し。


 本当に東京に行けるのだろうか。景色を見ている余裕もない。


 途中デンマークの人と話して、仁太くんにすごいって言われたけれど、仁太くんの方がずっとすごい。ぐずぐずしている私に合わせて走ってくれる。


 反り返っているように見えるほどの上り坂は、自転車に乗らなければよかったと何度も本気で後悔した。クーラーの効いている部屋にいればよかったと何度思ったことか。


 それでも、私は部屋を出ることを選んだ。自転車で行くことを選んだ。東京へ会いに行かないといけないから。会えば絶対何かが変わる。


 仁太くんががんばれって言ってくれる。そう言われるたびに力が戻った。


 登り坂の頂上に着いたとき、この日、はじめて景色を見た気がする。海が見えた。


 心が震えるってこんな感じなのかな。でもスピードが出て少し怖かった。



  ◇ ◇ ◇

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