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 服を通気性のいいTシャツに着替えて、適当な着替えをリュックに押し込んで階段を駆け下りた。そしていざ出発! しようとしたが、すぐに問題は起きた。


「ママチャリしか乗れない? いや、乗ったことがない?」


 場所はまだワタベサイクルの店内だ。多すぎた荷物を家に置いて、いくらか身軽になったように見える杉本麦音。父さんに心許なげに尋ねる。


「ママチャリじゃ、行けないんですか?」


「もちろん充分行けるよ。行けるんだけど、それだと東京まで行くのに時間がかかるからさ。それに長時間漕ぐようには作られていないから、身体に負担も大きいし」


 思った通り父さんもママチャリには反対だ。対して僕はスポーツ用のロードバイクだって乗れる。とてもじゃないが、ママチャリのスピードに合わせる気にはならない。


「東京に行くならこっち」


 僕は整列した自転車の合間の通路を歩いていく。


「こんなところじゃない?」


 女性向けの水色のクロスバイクの前で止まった。父さんはうんと頷いたが、あからさまに戸惑った表情をしたのは杉本麦音だ。


「これ……、すごく前傾姿勢になるんじゃ」


「まあ、ママチャリよりはね」


 クロスバイクの真っ直ぐなハンドルに、腰の高さより上にあるサドルは自然と乗る人をそうさせる。


「ほら、ヘルメット」


 僕は後ろの棚に置いてあった白いヘルメットを投げる。


「わっ、とっと」


 杉本麦音は取り落としそうになりながら受け取った。なんか、トロそうなんだよな。


 僕も用意してあるのはクロスバイク。赤いフレームに黒いハンドルのカッコいい奴だ。僕は黒のヘルメットを被り、顎の下にベルトを通した。こっちの準備はいい。

杉本麦音は父さんにサドルの高さを調整してもらっている。自転車から降りると言いにくそうに父さんに尋ねた。


「あの、お金は……」


 ママチャリよりも、クロスバイクは当然高価だ。


「いいよ。レンタルってことで、元気で戻ってきて返してくれればいいから」


 僕はそんなことで店が成り立つのかと思ったが、店主が決めたことに口を挟む気にはならない。整備し終わった父さんは手を払いながら言う。


「さて、麦音ちゃん。スマホを自転車にかざしてくれるかな」


「は、はい」


 杉本麦音はハンドルの中央にスマホをかざした。登録完了という画面が出たはずだ。


「これで防犯登録できたよ。スマホをここ。ハンドルの中央につけていれば、こいだ距離とか心拍数、地図とか出るから、無理せずに頑張ってね」


「何から何まで、ありがとうございます。この御恩は必ずいつか返します」


 律儀な言い回しをして、杉本麦音はぺこぺこと頭を下げる。


「そんなぁ、親戚なんだから当然だよ」


 なんというか。自分の父親がデレデレしているのを見るのはいたたまれない。僕は自転車を押しながら杉本麦音を振り返った。


「ほら、そろそろ行くよ」


 行くのには渋ったが、行くと決めたら行く。そういえば夏休みはどこにも目ぼしい所には行っていないと準備中に自分に言い聞かせていた。


「は、はい」


 ガチャガチャと音を立てて杉本麦音はついてきて、僕を先頭に店のドアを出た。





「え!? 十六歳!?」


「はい。仁太くんは十五歳ですよね。確か私の一個下だったから」


「まあ、そうだけど」


 年下と知っていて、その敬語か。僕はなんとなく居心地が悪くなる。それを誤魔化すように声を出した。


「それはそうと、またへっぴり腰になってる!」


 僕は杉本麦音の後ろを走っていた。いや、自転車を降りて歩いていた。目の前の丸まった背中がびくりと委縮する。


「だ、だって」


 クロスバイクに乗っている杉本麦音。ゆらゆらと揺れながら、なんとか前に進んでいた。転ばないのが不思議なぐらいだ。ママチャリは漕げるというので大丈夫だと思ったが、これならママチャリの方が早い。実際に僕たちの横を何台も自転車が追い越していく。


 家からしばらくは自転車専用道路があるが、そのうち車道に出ないといけない。車はほとんどが自動運転だから大丈夫だとは思うが、倒れてひかれてしまう可能性もなくはない。


 はー……、と思わず深くて長い息が出た。


「いまから、ママチャリに変えるかな」


 まだ店に戻るのにも、そんなに時間はかからないと僕は後ろを振り返る。


「い、いえ。こっちの方が早く着くならその方がいい、です」


 杉本麦音の声には思いのほか力がこもっていた。


 何だ。ただの弱気な困ったちゃんではないか。朝、親に東京に行くと言い張ったことといい、決めたら揺るがないタイプなのかもしれない。


 ――というのは、願望に近い観察だ。


 途中で引き返すと言われても困るしな。そう思うと自然と僕の声にも力がこもる。


「早く着きたいなら、もっとスピード出して。スピード出した方がバランス掴みやすいから。それと敬語やめて、僕より年上なんだからさ」


 自分は年下だからと敬語を使う気にはならないけれど。


「スピード出そうとしている、けどうまく出なくて」


 僕の喝にヘロヘロとした声が返ってくる。


「ペダルの踏み方がおかしいんだよ。円を描くように、こう」


 僕は自転車に乗り込み、並走しながらレクチャーする。その甲斐あって、だいぶスピードも出るようになってきた。へっぴり腰は相変わらずだし、信号で止まる度によたよたしているけど。


 それでもちゃんと前に進んでいる。そんなの当たり前か。


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