第十六話、或いは病人の行列
一行は朝焼けの最初の一筋に起き出すと出立の支度を整えた。
衣服には土の香りが染み付いて、朝靄の湿気た空気の匂いと混ざり合うと、不思議な故郷への慕情を催して夢の残り香のようだった。馬に馬車を結び付けると、威勢の良い嘶きが出立を告げる警笛になる。リュートは荷台に立って酒樽に身を持たせかけると、焚火に残った微かな熾火で沸かした茶をちびりちびりとやって、身体を温めている。椀からあふれた湯気が忘れ物でも思い出したのか、景色の後ろへ遠ざかって消える。
行商を筆頭として、門を出入りしたい者たちは開門の機会を目指すものだ。特に【
まだ薄まった夜が青く視界を塗り、朝の露を戴いて雲間の黄金へと頭を垂れる雑草たちを荷馬車の車輪が驚かす。リュートは寝ぼけ眼を細め、路上にぽつりぽつりと現れた人影を見た。
かなりの数の人間がよたよたと歩いているのが目に入る。熱病に侵されてでもいるようなあやしい足取りに、リュートたちはすぐに追いついた。
「おい、どういう状況――」
問いかけようとしたウィルの声が不自然に途切れる。不審に思ってリュートもまた人々の隊列をまじまじと見つめる。すると人々の肌に黒い痣、それものたうつ蛇のような不可思議な紋様が浮き出しているのが見えた。その症状は老若男女に一様で、呼吸が煩わしいのか荒く息をする者が多い。人数から推測して、村人総出の可能性もある。
「すまない。重症の奴らだけでいい。【
先頭に立つ男がウィルを見上げる。彼の顔にも痣が見えた。ウィリングがリュートを振り返るので、首を横に振った。アステラに暴発魔法の兆候はなかった。かなり有能な聖職者でもない限り、アステラが魔導師だとばれることはないはずだ。ウィリングはほっとした様子で、すでに遅れ始めていた列の後方の者たちから荷馬車に誘導していく。リュートもただ見ているというわけにもいかず、馬車を降りてウィルを手伝った。
結局、積荷の隙間や樽の上に押し込んでようやく三名だけを乗せることができた。それでも男は頭を下げた。
「ありがたい。我々はリオラの村の人間だ。ここいらで流行りの病に罹っちまってな」
流行り病と聞いて、水を配っていたダレンの眼の色が変わる。ウィリングも険しい表情だ。リュートもまた、背骨を伝った冷たさに相応しい貌をしているだろう。荷馬車で酒樽に背を預けた老人の汗を拭っていたアステラだけは、知らぬ顔だった。
「ああ、大丈夫だ。人から人には伝染らない。夜から人に伝染るんだ。『夜の病』。俺たちはそう呼んでいる」
「夜が病気になるのか?」
「さあな。だが、一昨日の夜だ。俺たち全員が、その一夜の内にこの有様になっちまった」
「見たことも聞いたこともありませんね。まあ、医学に関しては門外漢ですので何とは言い難いですが」ダレンが唸る。
「噂には聞いてたんだがな。夜の病気が河を下ってくるってな。まあ、鼻で笑い飛ばしちまったんだが」
ウィリングは半信半疑の面持ちだったが、すでに病人は馬車の上だ。
「んじゃあ、とにかく【
ウィリングは【
夥しい人の群れ。左右に伸びていく壁に纏わるようにそれが蠢いている。突き立てた杭に帳を張って簡単な小屋が作られて、その下に横たわる者やその看護に忙しく歩き回る者、その人たちに商いの品々を開陳する商魂たくましい者たちまで、かろうじて機能しているという程度の不安気な秩序が外壁にこびり付く。【
さらに近付いていくと、伏せる多くの「夜の病」。誰も彼もが憚るように口にするのをリュートは聞いた。
「おい、どうなってんだ」
スラムの外縁、正体不明の疾病にどこか荒んだ風のある群衆からは少しの距離を置き、自身の飼い馬の首筋を撫でて煙草を燻らせる旅人にウィリングが声をかける。問われた方もさあな、と首を竦めた。
「俺も詳しいことは分からねえ。何でも、くたばってんのはここいらの村の連中らしいんだが、その日の朝までぴんぴんしてた奴らが、夜が明けると黒い痣浮かべてうんうん唸ってた、って話だ」
「なんてこった」
「ここんところ神殿には薬がないとかでな。神官どもは頭を抱えてやがったぜ」
その時、平生ならば開門の時刻を告げる銅鑼が響いた。礼を言ってその場を辞すと、一行はスラムに開かれた道を行く。両脇の光景の異様な様子は、道を行く者たちに無言を強いた。群れる病人たちには中に入ろうという素振りがない。その訳を、リュートたち一行は門前にて窺い知ることになった。
「【
「そんな!」
「悪いが、門は開かない。何か伝達の用向きなら、手紙をしたためてくれ。扉を潜れるのは言葉だけだ。言葉は病気にならんだろう?」
固く閉ざされた門扉を司る守衛にぴしゃりと告げられ、一行はあえなく馬車の頭を翻すことになった。
「まいりましたね。このままでは――」
ダレンは言葉を最後まで続けなかったが、言わんとすることは全員の知る所である。もしも、囚われの魔導士が断頭台へと直行するようなことになれば、場外で待ちぼうけを食っているリュートたちは手も足も出せない。先回りするために、わざわざあの霧の地を越えてきたのだ。こうなってしまえば、商人の装いも役には立たない。
スラムの端、膨張した人の群れの外殻にあたる場所に一先ず陣取って、ダレンたちは沈鬱な雰囲気でこれからのことについて思案していた。リュートは【
あの高い壁を越える術を自分たちは持たない。いや、アステラならば或いは。しかし、この衆目に魔法を晒すとなれば、混乱は避けられない。目的は侵入それ自体ではないのだ。現実的とは言い難い。では、どうすれば――。リュートは救いを求めるかのように、ダレンの方を盗み見た。こんなとき、答えを導くのは彼だった。それが彼に課せられた役割なのだから。リュートには、ウィリングも同様にダレンの言葉を待っているのが分かった。
不意に、ダレンが顔を上げた。「何の音でしょう?」
「音?」
その問いには、大地が答えた。さざめき。野生馬の群れが大挙して押し寄せてくるかのような、くぐもった律動が近づいてくる。
魔導士の椅子 深空 一縷 @Itiru
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