第32話 本来の場所へ

「おにいちゃん」

「おとうちゃん」


 膝と肘に走る強烈な痛みに顔をしかめていたら、女達の声が聞えた。


 呻きながら目を開く。すぐそばに気配を感じ、墓地の地面に仰向けに転がったまま、左を見た。


 最早、〝女〟の形は崩れ、ただ、ぐずぐずと黒い靄のようなものが地面に滞留している。


「お兄ちゃんに会いたい」


 声が聞こえたかと思うと、靄から姿を現したのは、艶やかな黒髪を後ろでひとつに束ねた、十代後半の女の子だった。


 まるい頬に残るのはあどけなさであり、下がり気味の肩には幼さしかない。つぎはぎの目立つ木綿の着物を着ているが、帯締めにくくりつけてあるのは、錦のお守りだ。親兄弟に大事にされていることがわかる。


「お兄ちゃん。お兄ちゃん」


 少女は志摩の直ぐ側に座り込んでいたのに、立ち上がり、奏斗がいるであろう方向を見て泣いている。


「お父ちゃん」


 別の声に、志摩は首を右にねじる。

 そこにいたのは、背の高い黒い女ではなかった。


 女を形作っていた靄は霧散し、首の後ろで髪を丸めた女の子が出現する。


 身長はあるようだが、よく観ると、こちらもまだ幼い。幼い上に、細かった。腕も足も、伸びる前の若木のようだ。身長のせいで大人びているが、ひょっとしたら、まだ小学校高学年ぐらいなのかもしれない。


 この子が着ている着物に破損やつぎはぎは見えないが、上等のものではない。だが、丁寧に洗濯され、大切に扱われていた品であることは、志摩にも分かった。腰には兵児帯が巻かれていて、そこに差し込まれていたのは、狐面だった。


「お父ちゃん。どこいったの? お祭り、一緒に来たのに……。お父ちゃん」

 女の子は手で顔を覆って泣いた。


(この子達……。この子達が、あの黒い女……)


 まだ、子どもではないか、と志摩は絶句する。


 少なくとも、現代では「未成年」「学齢期」として扱われそうな子どもたちだ。

 志摩は身体を反転させた。


「大丈夫。大丈夫よ」


 厨子を地面に置き、地面に膝を着く。

 右が激しく痛んだ。転倒した際に、擦るか、打つかしたのだろうが、確かめるのはあとだ。


 歯を食いしばって、立ち上がる。右足首も変だ。力を込めるとくずおれそうになる。


「私と一緒に行こうね。心配しなくて良いよ」


 お兄ちゃん、と道路に向かって必死に呼びかけている少女の手を握ると、彼女は不安そうな瞳で志摩を見上げた。


「お菓子もあるんだよ。バウムクーヘンとか、羊羹とか。好きなだけ食べて良いよ」


 お父ちゃん、と泣き続ける子どもの肩を撫でると、彼女は涙で濡れた顔のまま、志摩に向かって手を伸ばす。志摩は、その手を握って立たせてやった。


「お兄ちゃんとお父ちゃんに、会いに行こうね」


 志摩は腰を屈め、右手でつないだ少女と、左手でつないだ子どもに微笑みかける。


「うん」

「会いたい」


「連れて行ってくれる?」

「帰りたい」


 代わる代わるうなずく子ども達の手を引き、志摩は歩き出す。


 真っ暗なはずの墓地だが、光球のお陰で道に迷うことはない。ただ、身体中が痛い。片膝は伸ばせない上に、足首がおもうように動いてくれない。足を前に振り出すだけの行為がこんなに苦痛で困難だとは思いもしなかった。


 だが。


「お兄ちゃん」

「お父ちゃん」


 声を殺して泣く子どもを、このままにしておくことは出来なかった。


「大丈夫、大丈夫。みんな、待ってるよ。怖かったね。ごめんね。遅くなったね」

 志摩は必死に声をかけ、墓石と墓石の間を抜ける。


「お家に帰ろうね」


 痛みを堪えて腰を屈め、両方の手を握る女の子達の顔を見た。ふたりとも、泣いてはいるが、もう不安げではなさそうだ。素直にこっくりと頷き、志摩についてくる。


「もうすこしだよ」


 ささやき声が聞えて目を向けると、そこにあるのは、あの丸い石だ。


 老婆とひ孫がお参りしていたあの、丸い石。今もみずみずしい献花がなされ、香りの良い線香が煙を天に立ち上らせていた。


「こわくないからね」


 石が、女の子達にささやいた。

 うん、と女の子達が首を縦に振った。


 その頭上で、光球が旋回をし、ゆっくりと七塚の墓まで道を照らしてくれる。


「ほら、ここだよ」


 志摩はふたりの手を引き、七塚の墓の裏をのぞいた。

 途端に、まばゆさに目を細めた。咄嗟に顔を背けるが、子どもたちは歓声を上げている。


「お家だ! お家が見える!」

「ここ、あのお祭りの場所だ!」


 直接ライトを浴びせられているように志摩は思うのに、子ども達は違うらしい。ぱ、と手を振り払われた。


「あ……!」


 手を伸ばしたが、眩しくて何も見えない。仕方なく目を閉じたまま、周囲を手探るが、指先がなにかに触れることはなかった。


「お家に帰りたい! いい⁉」

「行っても良い⁉ お父ちゃんのところに!」


 焦れたように叫ぶ子ども達に、志摩は頷いた。


「遅くなってごめんね。行っておいで」


 ありがとう。


 女の子達が声を揃えて告げたあと。

 周囲は再び、闇に包まれた。


「……どう、なったの……」


 恐る恐る目を開く。

 まだ光に目をやられて視界が白くもやっているが、何度も瞬きを繰り返すと、ようやく周囲の様子が見えるようになってきた。


 そこにあるのは、土が盛られ、こぶし大の石が乗せられた塚。

 薄墨色に染まり、ただ、静かに闇と同化している。


「志摩!」

 奏斗の声が聞こえ、振り返る。


 ずきり、と足が痛み、庇おうとしたらバランスを崩してしりもちをついた。今になって、右拳だの、右足首だのが激しく痛み始めた。


 ワイドパンツの裾をたくし上げ、足を見る。

 そして、見たことを後悔した。


 膝からふくらはぎにかけては、擦り傷のせいで血がにじんでいる。おまけに、くるぶしが、ふくらはぎと同じ太さに腫れあがっていた。


「志摩! 返事しろ!」

 若干、気を失いかけていた志摩は、奏斗の声に我に返った。


「奏斗くん!」


 大声を上げると、草を踏みしだく音が徐々に近づき、懐中電灯を持った奏斗が姿を見せた。


「かな……。え」


 ほっとしたのもつかの間だ。墓石の間から顔を出したのは、こめかみから血を流した奏斗だった。


 かなり派手に血が飛んだらしい。Tシャツの襟ぐりから胸にかけても、ぽつぽつと血の跡を残していた。


「あ。これ、大丈夫。見た目ほどひどくないから」


 だが、本人はけろりとしたものだ。志摩の側に片膝をつき、懐中電灯で志摩の足を照らして眉根を寄せた。


「だいぶん腫れてんな。痛いだろう」

「痛いけど……。佐々木さんは? ……まさかそれ、返り血とかじゃないよね」


「人を殺人鬼にするな。ちゃんとおれの血だ」

 むっつりとしたまま、奏斗は肩口でこめかみの血を拭った。


「あいつ、スパナをおもいっきり振り回しやがって……。ま。結果的に、この血を見てびびってさ。腰抜かしたから、こうやってここに来れたんだけど」


 よかった、と志摩は大きく息を吐くが、その動きさえも傷を疼かせる。


「厨子は?」

 奏斗が周囲を見回した。


「あ……。入口のところにそういえば……」

 這って行こうとしたら、呆れて押しとどめられた。奏斗が再び立ち上がる。


「あの気味悪い女は?」

「女の子たちは、塚に入ったよ」


 首を巡らせる。


 奏斗がその視線を追うように懐中電灯の白い光を向けた。そこに浮かび上がるのは、ただ土を盛り、古びた石を載せただけのもの。なんら特別なものはなく、どんな特異なものもみあたらなかった。


「おれ、厨子を持ってくるわ。入り口辺りな」


 懐中電灯を転じ、奏斗は草を踏みしだいて歩き始めた。

 志摩は疼く足をそっと伸ばす。左手で撫でようと腕を伸ばすと、ワイドパンツのポケットに、ごろりとした感触があった。


(あ……)


 ポケットから覗き見えるのは、スマホだった。

 ふと、思い立ったのは、大徳寺の清澄のことだ。


 厨子を六家に回し、謝罪と言祝ぎを受けることを提案した彼に、女の子達が塚に入ったことを知らせる方が良いのではないか、と思い立った。


 右手は肘から痛みに痺れて動かないので、左手だけで引っ張り出し、太股の上に載せてパネルをスクロールする。


 暗闇の中、スマホの放つ光が、まるで蛍のようだ。

 大徳寺を検索し、電話番号を表示させた。ちらり、と画面下に表示されている時間を見て躊躇ったが、寺というのは葬式等のこともあり、夜遅くの電話にも対応すると聞いたことがあった。


 志摩は勢いのまま、電話をかける。


「はい、大徳寺でございます」

 五回目のコールで、落ち着いた女性が電話を取った。


「夜分にすいません。あの、私、谷合地区の、七塚と申します」

「あら、七塚さん。いつもお世話になっております」


 多少は警戒を含んでいた声が、途端に柔らぎ、志摩はほっと息をついた。


「そちらのお坊さんで……。清澄さんは今、お手すきでしょうか?」


 お手すき、というのも変だろうか、ご在宅、だろうか。いや、この時間は普通、家にいるだろうし、と、志摩はめまぐるしく考える。


「清澄、ですか?」

 だが、電話の向こうで女性は訝しんだ。


「うちには、そのような僧侶はおりませんが……」

 しばし、志摩は言葉を失った。

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