第31話 信じる心、迷う心
「立てるか?」
奏斗に尋ねられ、志摩は頷く。
横転した厨子を両手に持ち、ゆっくりと立ち上がった。急に泣いたり怒鳴ったりしたからだろう。血圧の関係で、ぐらりと視界が揺らいだが、奏斗がしっかりと肘を捉えてくれる。
「墓場までもうすぐだ。頑張ろう」
奏斗は言うと、腰を屈めて地面に転がった懐中電灯に手を伸ばす。
その、姿勢のまま、ぴたりと動きを止めた。
志摩も身体をこわばらせ、前方を凝視する。
足音が近づいてきた。
たたたたたた、という音は、一瞬緩んだあと、怒涛のように近づいて来る。
「お前ら……。騙したな」
気づけば、肩で息をしながら佐々木忠司が、スパナを持って立っていた。
見覚えがある。奏斗の乗っている軽トラの助手席に乱雑に放り込まれていたものだ。
「なんのことだよ」
奏斗はゆっくりと立ち位置を変え、さりげなく背中に志摩を隠す。
志摩も厨子をしっかりと腕に抱えた。
重さはもう感じない。
ことり、と。
厨子の中で何かが鳴った。
「厨子だよっ! 田淵の家になかった!」
忠司が怒鳴る。奏斗はさらりとかわした。
「そうか。そりゃ悪かったな。おれらも知らなかったんだ」
「嘘つけ! そいつが今持っているだろ!」
スパナを突き付けて忠司が叫ぶ。
「大声を出すなよ。おれらもさっき、たまたま羽村の家で見つけたんだ」
奏斗は忠司に話しかけながらも、後ろ手に志摩の手首を握った。
志摩の小柄な身体は、すっぽりと奏斗の背中に隠されている。
「なあ、忠司。嫁さんとお母さんがお前のことを心配していたぞ。厨子のことは一旦置いておいて、家に帰ったらどうだ」
奏斗はゆっくりと忠司との距離を測っている。
「うるさい! 厨子がないと危ないんだ! 俺はあれを持って帰る!」
「厨子なんてなくても、お前の家は大丈夫だ。嫁さん、寝込んでいたぞ」
「俺のいない間に、茉奈に近づくなっ! お前、寝とるつもりかっ」
さすがに奏斗が顔をしかめる。
「嫁さん、お前を心配してるんだぞ? いい加減にしろよ」
「茉奈に近づくな! 俺の女だ! 俺が種を付けたんだっ!」
忠司は絶叫しながら、やたらめったらにスパナを振り回す。
その金属が空気を裂く音に混じって。
志摩は、背後から女たちの声を聞いた。
「あのおとこは、だめだ」
「あのおとこは、なかせた」
寒いほどの怒気を感じる。
女たちの感情が迸るのを感じる。
志摩は厨子を抱きしめて振り返った。
落ちくぼませた眼窩に闇を宿し、黒い髪を地面まで伸ばした女たちが、伸びあがって志摩の背後を見ている。
「ああああああああ!」
忠司が悲鳴を上げる。奏斗が反応して忠司の視線を追い、志摩の肩越しに女たちを見た。
「志摩! 行けっ」
どん、と奏斗が志摩の背を押した。よろめきながら志摩は厨子を抱えて走り出す。
「来て! だめよ! あいつを見ないで!」
志摩は首だけねじって女たちに声を張った。
「一緒に行こう! 大丈夫! 私を信じて!」
ゆらゆらと闇の中を左右に揺れる黒い女たちに願う。
私を信じて、と。
「それを渡せ!」
だが、突如右側に突き飛ばされ、志摩は厨子を抱えて横転した。
「志摩っ」
奏斗の声が歪んで聞こえる。
火花が散る痛みを堪えて目を見開いた。
すぐ間近に忠司の顔があり、悲鳴を上げる。仰向けに転がったところを、厨子を奪いに来たらしい。スパナが振り上げられ、息を呑んだ。
だが、忠司の背後に奏斗の姿が映る。
どん、と重い音を立て、奏斗が背後から忠司にタックルをかけた。ふたりはもつれ合って地面に転がる。
「立てっ! 志摩っ! 行けっ」
忠司を組み伏せ、奏斗が怒鳴る。反射的に立ち上がった志摩だが、抱えていた厨子が腕から転がり落ちた。
なにかがつぶれるような音がしたが、志摩は構わず両手で持ち上げた。
きぃきぃきぃきぃ、と。
軋み音を立てて。
厨子の扉が開く。
「………あ」
鱗粉のような。
金の粉をまぶしたようなまばゆい光が厨子からあふれ出した。
それらは奔流となり、闇を切り裂く。
志摩は呆気にとられてその様子を見つめる。
さらさらと流れ出る金の粒子は、夜闇の中で、まるく形作ると、ふわりと宙を飛んだ。
「行けっ。志摩っ」
奏斗に怒鳴られ、志摩はその球体を追うように、厨子を抱えて走る。
ずるり、と。
なにかを引きずるような音がした。
振り返らなくてもわかる。
黒い女たちだ。
彼女たちが、志摩のあとをついてきている。
(よかった……。このまま塚へ……)
そう思った矢先。
どす、と。
鈍い音が背後で聞こえた。
おもわず悲鳴を上げた。
呻いているのは奏斗の声。
「あのひと、なぐられた」
「あのひと、あいつにやられた」
右耳と、左耳から女たちが囁く。
志摩は歯を食いしばった。
目の前の球体が次第に涙でぼやける。
「そいつらを、塚まで連れて行けっ!」
「厨子を渡せっ!」
争っているのであろう音と罵声、金属音が夜の空気に混じって志摩のところにまで届いてきた。
もう少し。
墓場までもう少しだ。
志摩は厨子を抱きしめ、必死に足を前に前にと動かした。
カタカタカタカタ、と。
中に入っているものが鳴る。
「あのひと、どうして」
「あのひと、かばって、なぐられた」
「あのひと、しぬ?」
「あのひと、まもってくれた?」
大丈夫、大丈夫だ、と。志摩は歯を食いしばって自分に言い聞かせた。
奏斗ならきっと大丈夫。
大丈夫じゃなかったら、とにかく、この女達を塚に連れて行き、その後自分で助ける。
ぼわり、ぼわり、と白球は回転しながら墓場へと飛んでいく。
時折、風に吹かれたように回転し、そのたびに、金粉のような飛沫を飛ばすが、光量は減らない。
むしろ、内部に光をみなぎらせながら、飛んでいく。
「……見えた」
墓場と道路を遮るポールが目の前に現れた。
光球は志摩達を待つように、その上部で滞空している。
志摩は、一気に速度をつけ、ポールとポールに渡されたチェーンを飛び越えた。
がちゃり、と音を立てて後ろ足のつま先がひっかかる。志摩は厨子を抱えたまま無様に転倒した。
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