第30話 消えない感情、救われたい思い
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後ろから足音が近づいてきていることに気づいたのは、田淵家を出た頃からだった。
羽村の
『本当に、可哀そうに』
事情を初めて知ったという加賀家では、嫁と姑が涙を流して出迎えてくれた。相変わらず
『同じ女として、なんとも言いようがない』
沈痛な表情でそう言ってくれた。
佐々木家では、忠司の妻は寝込んでいるということで、やはり姑が対応をしてくれた。
『まだ、忠司は戻ってこないっすか?』
奏斗が尋ねると、目の下に濃い隈を作った姑が首を横に振る。
奏斗と志摩は顔を見合わせた。
彼はまだ、村の中で厨子を探して回っているのだろうか。今のところ、ばったりと出くわしたということはない。
『お嫁さんもさぞかし心配なさっているでしょう。どうぞよろしくお伝えください』
志摩が声をかけると、姑は重苦しいため息を吐いた。
『あの子は……。忠司が帰ってこない方がいいと思っているんでしょうね』
志摩と奏斗はなんと返せばいいかわからず、頭だけ下げて辞した。
次に赴いた田淵の家では、誠也の妻がまず、ふたりに夫の非礼を詫びてくれた。
『あの人のことだから……。ひどい言葉を浴びせたんじゃないの?』
促されたが、志摩も奏斗も無言で首を横に振った。
『この村は、いまだに女が軽んじられてるでしょう? 当時は、どれほどのものだったか……。救われるのなら、救われてほしい』
厨子を撫で、誠也の妻はうなだれた。
それぞれの家で女たちは先祖の罪を詫び、来世の幸せを祈ってくれていた。
志摩は当初、純粋にそれが嬉しかった。
きっと、女たちもこれで浮かばれる。
塚に入り、きっと生まれ変わって幸せな人生を歩むことを願うだろう。
そう思っていた。
だが。
女たちに向かって放たれた言葉は。
次第に、自分に向けられているのでは、と思い始める。
未遂だったとはいえ、凌辱されかけたのは志摩も同じだ。
もちろん、事件は表沙汰になったわけではなく、そもそもこの村から志摩たちが住んでいる街までは百キロは離れている。
知らないはずだ。
それなのに。
憐れまれ、悲しまれ、慈悲の目を向けられると。
消化不良の感情が、胃の底から鎌首をもたげる。
それは、各家の女たちが『許せ』と言っているように聞こえるからだ。
すべて忘れろ、と慰めているような気になるからだ。
何もかも洗い流して、やり直せ。
そう強いられている気になってくる。
忘れられるわけがない。許せるわけがない。
志摩は叫び出したい気持ちを堪える。
代わりに、熾火のような怒りが志摩の胸に灯った。
するとなぜだが、厨子が、徐々に重くなっていく。
「志摩?」
数歩前を歩いていた奏斗が足を止め、振り返る。
安室家で借りた懐中電灯で志摩の足元を照らしてくれた。
「どうした? 墓場まで、もう少しだ」
促され、志摩は厨子を抱えなおす。
左手がだるい。忠司を殴った右手が痺れるほど痛む。
なにより、厨子が重い。
「厨子を持ってやろうか」
志摩の異変に気付いたのか、奏斗が近づいて来る。
どうしようか。
ためらった。
六家はすべて巡り終わり、今から墓場に向かうところだ。さっき、静江が経営する雑貨屋を過ぎたあたり。
墓場までは、五分というところだろう。
持ってもらおうか。それとも、自分が運ぶ方がいいのか。
思案顔で、正面の奏斗を見たとき。
彼は強張った顔で志摩の背後を見ていた。
「しんでしまえば、いいのに」
不意に耳の後ろから声が聞こえ、志摩は悲鳴を上げて厨子を抱きしめた。
ずしり、と。また重みを増し、志摩は地面に座り込んだ。
「そうおもうでしょう」
小声なのに、深みを帯びた声が右耳にささやきかけた。
「あのときのことをおもいだしてよ」
質量を持ってはっきりと認知する腕の痛み。
生暖かい呼気。荒い息遣い。身体をまさぐる乱暴な指。
ずっと好きだった、とたわごとを繰り返し、押し付けられる唇。
いや、と志摩は悲鳴を上げた。
目を閉じる。それなのに、消えてくれない。
血走ったような村上の目。それなのに、うっとりとした表情。
気持ち悪い、と志摩は叫んだ。
「あなたにきもちわるいことをした、あのおとこは、しんでとうぜんでしょう」
右耳にささやきかけられる。
「どうしてゆるさないといけないの。ぜったいにゆるさない」
左耳から聞こえる声は、熱を帯びる。
「こんなにきずついたのに」
右耳の声が震えた。
「こんなにかなしいのに」
左耳の声が嗚咽を漏らす。
「ゆるせない」
右耳が、低くうなる声を拾う。
「ふくしゅうしてやる」
左耳に流れ込む声が涙声になった。
そうだ。
許さない。
死んで当然だ。
こんなに傷つけられ、こんなに悲しみ、こんなに辛いのだ。
いつまでたっても忘れられない。
苦しくてしんどくて。
ずぶずぶと泥沼の中を掻いて進むように、あえぎながらようやく生きているのに。
なぜ、自分だけ苦しむのだ。
なぜ、自分だけ不幸なのだ。
こんなのはおかしい。
間違っている。
相応の思いをさせてやる。
苦しめてやる。
「復讐してや……」
身体中に力を籠め、志摩が唸りを発したのに。
「志摩っ!」
語尾は自分の名前を呼ぶ声で消された。
「志摩っ!」
まばたきをする。
酒の匂いがした。
煙草の煙が周囲を取り囲む。
その中で。
奏斗の声が、志摩の涙を散らした。
「おれを見ろ」
気づけば、両肩を掴まれ、奏斗は顔を近づけて来る。
「お前を幸せにするために、おれがいる。忘れるな。お前を幸せにするのは、おれだ」
肩を掴んでいる彼の指から熱が伝播してくる。
軽く揺すられ、志摩は涙を流した。
「悔しいの。腹が立つの。なんで、私だけが……」
なぜ、こうやって囚われなければならないのだ。
過去からも、記憶からも、悪感情からも。
あいつはいまも、のうのうとしているというのに。
自分の家庭を守り、仕事を続け、笑顔を浮かべて生きているというのに。
志摩だけ。
不幸なのに。
「忘れろとは言わない。相手を許す優しさを、そんな奴に渡す必要はない。憎いなら憎めばいい。辛いなら泣きわめけ。しんどいなら寝てろ。触られたくなかったら、手を離す。だけど、忘れるな」
鼻がくっつくほどの距離で、奏斗は志摩を見つめた。いつの間にか、彼が放り出した懐中電灯が地面に転がり、あらぬ方を照らしている。
「おれはお前の側にいる。いつまでだって待つ。幸せにする。おれを信じろ」
ううう、と自分の唇から意味のない音が漏れた。
ぺたりとお尻を地面につけたまま、両腕を奏斗に向かって伸ばす。
ごとり、と安定を失って厨子が転倒した。
奏斗は乱雑にそれを膝で蹴って志摩を抱きしめる。
「まったく、仕方ねぇ奴だな。おれが言ったことをなんですぐ忘れるんだ」
苦笑いが耳に滑り込んだ。
志摩は彼の胸に顔をうずめて、ぐずぐずと、ただ泣いた。
「そんなカッコいいこと言ってなかったぁ……。やりたくなったら言え、って言ったあ……」
「要約したらそうなるんだよ」
「嘘だあああ」
泣きながらなじると、奏斗が、ぽんぽんと背中を撫でてくれる。よしよし、と声をかけてくれた。
右耳からも、左耳からも。
もう、あの女たちの声は聞こえない。
ただ、気配はある。
ぴたり、と志摩の左右に張り付いている質感が肩に残る。
そして。
どうして、と女たちが戸惑っていることにも気づいていた。
どうして、この男は、今までの男と違うのだ、と。
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