第29話 煙草、酒、厨子
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志摩は、玄関の引き戸に手をかけ、ためらいがちに横に引く。
案の定、開いた。この辺りでは、家人が在宅していると夜間でもほとんど施錠しない。
「こんばんは。遅くにすいません」
大きめの声で呼びかける。
羽村家の玄関は、広い作りになっていた。
三和土部分には、椅子が二脚置かれており、来客者が座れるようになっている。その傍には大きな投げ入れが置かれ、甘い芳香を放つ百合を中心に、野趣あふれた花が活けられていた。
「七塚の志摩です」
背後で扉が閉まる音がすると思ったら、奏斗だ。用心深く周囲を窺っている。
「はい。ちょっと待ってくださいね」
しわがれた女性の声が廊下の奥から聞こえる。奏斗を見上げると、腰を屈めて耳打ちしてきた。
「羽村のおっさんのお母さんだ。もう、百歳近いんじゃねえかな」
その言葉通り、随分と
玄関に置かれている椅子は、ひょっとしたら来客のためではなく、この老女が靴の履き替えに使うのかもしれない。
「こんな時間にすみません」
志摩は声をかけるが、どうやら耳が遠いらしい。
「嫁は病院に付き添っておりまして……。今は、この、ばば しかおりません」
手すりにすがり、一歩一歩確かめながら老女は歩みを進める。
「あの……。厨子の件でお伺いしたんですが」
上がり框にゆっくりと正座をする老女に、志摩は再び声をかけた。
「このたびは、愚息がとんだ迷惑を……」
床に手を突き、深々と頭を下げるので志摩は恐縮する。
「いえ、あの……」
「ばあちゃん。田淵のおっさんが厨子を持ってきた?」
奏斗は膝を曲げて座ると、老女と目の高さを合わせ、大きな声で尋ねる。老女は、白く濁る目で奏斗を見、大きく頷いた。
「持ってきた。今も、手を合わせてお祀りをしておったところだ」
「それ、貸して。おれらで、六家を回してくるわ。それで、も一回持ってくるから、祀ってくれるか?」
奏斗の声は大きく、発音は明瞭だ。
なるほど、こうやって話しかければよかったのか、と志摩は感心した。皺の中で埋もれそうな目で老女は奏斗を見上げている。
「それで、大丈夫なのかい?」
「わからん。でも、大徳寺の坊主が、そうしろって」
「そうかい」
老女はまた手すりを掴んで立ち上がると、おぼつかない足取りで家の奥に戻っていく。
「やっぱ、忠司は田淵の家に行ったんだな。かわせてよかった」
奏斗は三和土に片膝ついて座ったまま、志摩を見上げる。
「この後、安室さん家に行って、加賀さん家に行って……」
志摩は当番家の順番を指で追っていく。六芒星の頂点は安室家であり、羽村家は最底辺の点だ。
点と点を結ぶように村の道を歩かねば、六芒星にはならない。道順については奏斗に任せていた。
ただ、佐々木がどう動くかが気になる。
最初に田淵家に行って厨子がないことを知ったら、彼はどうするのだろうか。
「ほら、これ」
かたかたと、小さな物音を立てながら、老女は両手で厨子を持って家の奥から出て来た。
厨子だけではない。お供え物なのか、カップ酒のようなものも持っている。
「ばあちゃん。おれが持つわ」
危なっかしいと冷や冷やしていたら、奏斗があっさりと廊下に上がり、老女の手から厨子を受け取る。
「本当に、申し訳ないことをした。さぞかし、みんな、怒っておろうな」
右手を引かれて上がり框まで連れてこられた老女は、また背をさらに丸めて小さくなる。おぼつかない手で、膝のそばにカップ酒を置いて、ため息をついた。
「六家でお祀りをする、と言っておきながらこの始末……。悲しい思いをした娘さんたちが怒るのも仕方のないことだ」
てっきり、村のみんなや六家に迷惑をかけた、と言っているのかと思ったが、この老女が詫びているのは、報われない女たちのことだった。
「申し訳ない、申し訳ない」
皺だらけの掌をすり合わせ、老女は奏斗が持つ厨子に対して経文を唱えた。
「……あの、おばあちゃん」
志摩は奏斗がしたのと同じように膝を曲げ、老女に向かってゆっくりと大きな声で話しかける。
老女は口を閉じ、どろんと澱んた瞳を志摩に向けた。
「亡くなった女の人たちに、塚に入ってもらおうと思っています。ぜひ、その女の人たちに、言葉をかけてあげてください」
羽村家からは、すでに謝罪の言葉を受けた。次は、言祝ぎだ。
「塚に……。そうかね」
何度も何度も首を縦に振る。
厨子を抱えた奏斗が上がり框を降り、三和土に立つと、音で位置を把握したらしい。老女は強張った指を精一杯伸ばし、手を合わせた。
「来世でよいご縁を。幸せを。どうか、どうか」
しばらく瞑目したのち、老女は目を開いた。
「かな坊。お前、煙草は吸えるのかね」
「煙草?」
予想外の問いに目をまたたかせると、老女はもんぺのポケットから煙草とライターを取り出す。
「バカ息子のだ。ほれ」
「ほれ、って言われても……。これ、どうすんだよ」
戸惑っていると、老女はあきれたように息をついて、奏斗に煙草とライターを押し付けた。
「煙草の煙は、魔除けになる。夜道を歩くんなら、このお嬢さんとあんたに煙をふきかけていきな」
そういえば、祝宴でも皆、参加者は盛大に煙草を吸っていた。
もうもうと紫煙を上げ。
そして。
夜道を帰る。
「ちょっとこれ、持ってて」
奏斗が厨子を手渡すから、志摩はおっかなびっくりに受け取る。
意外にも彼は手慣れた仕草で煙草をくわえ、ライターで火をつけた。
「……奏斗くん、煙草吸うの?」
「大学卒業して辞めた。ここ、コンビニがないから買いに行くのがめんどくさい。志摩は?」
「吸わない」
「んじゃ、ちょっと息止めて。二三回、吹きかけるから」
言われて志摩は口を閉じ、ついでに厨子をぎゅっと抱きしめる。掌にも腕にも、ごつごつとした厨子の硬さと冷たさが伝わってくるが、不思議と重さは感じない。
(これ、中身は何なんだろう?)
改めて気になり始めたが、奏斗の呼気に目をまたたかせた。
ふわりと紫煙が志摩を包む。
いつもなら臭いが気になるのだが、今日はそこまで嫌ではなかった。自分にまとわりつき、緩く身体をなぞりながら消えていく煙は、姿を消しても皮膜のようにそこに存在感を保っていた。
「ほんで、ほれ。酒を飲んで」
言うなり、老女はカップ酒の蓋を開ける。ぱかん、と暢気な音を立てて開封した途端、酒の豊潤な香りが志摩の鼻まで届いた。
「浄めの酒だ。お嬢さん、飲めるかね。大丈夫かね」
心配そうに言う老女に、奏斗は煙草をくゆらせながら、けらけらと笑った。
「平気平気。眞砂ばあさんとこの孫だぜ?」
「なら、あれだ。かな坊の分も残しておやりよ」
老女にからかわれ、志摩は顔を赤くしてコップ酒を受け取る。
「厨子、持ってやるよ」
くわえ煙草で奏斗が手を伸ばすが、首を横に振って、片手で持つ。なんとなく、厨子は自分が持って回りたかった。
志摩は厨子を片腕で抱えるようにして持ち直すと、コップ酒を唇につけ、一気に喉に流し込む。
日本酒はほとんど飲まない上に、苦手なのだが、甘い水のような感じだ。つるり、と流れ込み、胃に灯のような温もりを宿した。
「はい」
コップ酒を奏斗に差し出す。携帯灰皿に煙草を捨てた奏斗が、その量を見て苦笑いした。
「お前すげえな。半分を一息かよ」
「美味しかった」
感想を伝えると、奏斗だけではなく、老女も愉快そうに笑った。
「それじゃ、いただきます」
奏斗は言うと、残りの酒を傾ける。
「今から、六家を巡るんだね?」
老女が志摩に尋ねる。
「はい。奏斗くんと一緒に」
「そうかえ。じゃあ、それぞれの婆たちに、わたしの方から連絡を入れておいてやろう。いきなり行くより、話が早いだろう」
「かあ。喉、あっつ! お前、よくこんな強いの、一気に飲んだなっ」
奏斗が顔をしかめ、軽く咳き込む。酒の匂いと煙草の香りが彼から強く放たれた。
「連絡って、電話かなんかか?」
「グループLINENで連絡しておいてやる」
もんぺからスマホを取り出し、よろよろと立ち上がった老女は、手すりを伝い、靴箱の上の小物入れから、眼鏡をつかみ取った。
「……ばあちゃん、そんなの組んでるのかよ」
「便利だからな」
眼鏡をかけたかと思うと、志摩と奏斗に笑いかけた。
「早う行け。厨子を回せ」
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