第29話 煙草、酒、厨子

□□□□


 志摩は、玄関の引き戸に手をかけ、ためらいがちに横に引く。

 案の定、開いた。この辺りでは、家人が在宅していると夜間でもほとんど施錠しない。


「こんばんは。遅くにすいません」

 大きめの声で呼びかける。


 羽村家の玄関は、広い作りになっていた。

 三和土部分には、椅子が二脚置かれており、来客者が座れるようになっている。その傍には大きな投げ入れが置かれ、甘い芳香を放つ百合を中心に、野趣あふれた花が活けられていた。


「七塚の志摩です」


 背後で扉が閉まる音がすると思ったら、奏斗だ。用心深く周囲を窺っている。


「はい。ちょっと待ってくださいね」


 しわがれた女性の声が廊下の奥から聞こえる。奏斗を見上げると、腰を屈めて耳打ちしてきた。


「羽村のおっさんのお母さんだ。もう、百歳近いんじゃねえかな」


 その言葉通り、随分と円背えんぱいの老女が手すりを頼りにゆっくりと近づいてきた。


 玄関に置かれている椅子は、ひょっとしたら来客のためではなく、この老女が靴の履き替えに使うのかもしれない。


「こんな時間にすみません」

 志摩は声をかけるが、どうやら耳が遠いらしい。


「嫁は病院に付き添っておりまして……。今は、この、ばば しかおりません」

 手すりにすがり、一歩一歩確かめながら老女は歩みを進める。


「あの……。厨子の件でお伺いしたんですが」


 上がり框にゆっくりと正座をする老女に、志摩は再び声をかけた。


「このたびは、愚息がとんだ迷惑を……」

 床に手を突き、深々と頭を下げるので志摩は恐縮する。


「いえ、あの……」

「ばあちゃん。田淵のおっさんが厨子を持ってきた?」


 奏斗は膝を曲げて座ると、老女と目の高さを合わせ、大きな声で尋ねる。老女は、白く濁る目で奏斗を見、大きく頷いた。


「持ってきた。今も、手を合わせてお祀りをしておったところだ」

「それ、貸して。おれらで、六家を回してくるわ。それで、も一回持ってくるから、祀ってくれるか?」


 奏斗の声は大きく、発音は明瞭だ。

 なるほど、こうやって話しかければよかったのか、と志摩は感心した。皺の中で埋もれそうな目で老女は奏斗を見上げている。


「それで、大丈夫なのかい?」

「わからん。でも、大徳寺の坊主が、そうしろって」


「そうかい」


 老女はまた手すりを掴んで立ち上がると、おぼつかない足取りで家の奥に戻っていく。


「やっぱ、忠司は田淵の家に行ったんだな。かわせてよかった」

 奏斗は三和土に片膝ついて座ったまま、志摩を見上げる。


「この後、安室さん家に行って、加賀さん家に行って……」


 志摩は当番家の順番を指で追っていく。六芒星の頂点は安室家であり、羽村家は最底辺の点だ。


 点と点を結ぶように村の道を歩かねば、六芒星にはならない。道順については奏斗に任せていた。


 ただ、佐々木がどう動くかが気になる。

 最初に田淵家に行って厨子がないことを知ったら、彼はどうするのだろうか。


「ほら、これ」


 かたかたと、小さな物音を立てながら、老女は両手で厨子を持って家の奥から出て来た。


 厨子だけではない。お供え物なのか、カップ酒のようなものも持っている。


「ばあちゃん。おれが持つわ」


 危なっかしいと冷や冷やしていたら、奏斗があっさりと廊下に上がり、老女の手から厨子を受け取る。


「本当に、申し訳ないことをした。さぞかし、みんな、怒っておろうな」


 右手を引かれて上がり框まで連れてこられた老女は、また背をさらに丸めて小さくなる。おぼつかない手で、膝のそばにカップ酒を置いて、ため息をついた。


「六家でお祀りをする、と言っておきながらこの始末……。悲しい思いをした娘さんたちが怒るのも仕方のないことだ」


 てっきり、村のみんなや六家に迷惑をかけた、と言っているのかと思ったが、この老女が詫びているのは、報われない女たちのことだった。


「申し訳ない、申し訳ない」


 皺だらけの掌をすり合わせ、老女は奏斗が持つ厨子に対して経文を唱えた。


「……あの、おばあちゃん」


 志摩は奏斗がしたのと同じように膝を曲げ、老女に向かってゆっくりと大きな声で話しかける。

 老女は口を閉じ、どろんと澱んた瞳を志摩に向けた。


「亡くなった女の人たちに、塚に入ってもらおうと思っています。ぜひ、その女の人たちに、言葉をかけてあげてください」


 羽村家からは、すでに謝罪の言葉を受けた。次は、言祝ぎだ。


「塚に……。そうかね」


 何度も何度も首を縦に振る。

 厨子を抱えた奏斗が上がり框を降り、三和土に立つと、音で位置を把握したらしい。老女は強張った指を精一杯伸ばし、手を合わせた。


「来世でよいご縁を。幸せを。どうか、どうか」

 しばらく瞑目したのち、老女は目を開いた。


「かな坊。お前、煙草は吸えるのかね」

「煙草?」


 予想外の問いに目をまたたかせると、老女はもんぺのポケットから煙草とライターを取り出す。


「バカ息子のだ。ほれ」

「ほれ、って言われても……。これ、どうすんだよ」


 戸惑っていると、老女はあきれたように息をついて、奏斗に煙草とライターを押し付けた。


「煙草の煙は、魔除けになる。夜道を歩くんなら、このお嬢さんとあんたに煙をふきかけていきな」


 そういえば、祝宴でも皆、参加者は盛大に煙草を吸っていた。

 もうもうと紫煙を上げ。


 そして。

 夜道を帰る。


「ちょっとこれ、持ってて」


 奏斗が厨子を手渡すから、志摩はおっかなびっくりに受け取る。

 意外にも彼は手慣れた仕草で煙草をくわえ、ライターで火をつけた。


「……奏斗くん、煙草吸うの?」

「大学卒業して辞めた。ここ、コンビニがないから買いに行くのがめんどくさい。志摩は?」


「吸わない」

「んじゃ、ちょっと息止めて。二三回、吹きかけるから」


 言われて志摩は口を閉じ、ついでに厨子をぎゅっと抱きしめる。掌にも腕にも、ごつごつとした厨子の硬さと冷たさが伝わってくるが、不思議と重さは感じない。


(これ、中身は何なんだろう?)


 改めて気になり始めたが、奏斗の呼気に目をまたたかせた。


 ふわりと紫煙が志摩を包む。

 いつもなら臭いが気になるのだが、今日はそこまで嫌ではなかった。自分にまとわりつき、緩く身体をなぞりながら消えていく煙は、姿を消しても皮膜のようにそこに存在感を保っていた。


「ほんで、ほれ。酒を飲んで」


 言うなり、老女はカップ酒の蓋を開ける。ぱかん、と暢気な音を立てて開封した途端、酒の豊潤な香りが志摩の鼻まで届いた。


「浄めの酒だ。お嬢さん、飲めるかね。大丈夫かね」

 心配そうに言う老女に、奏斗は煙草をくゆらせながら、けらけらと笑った。


「平気平気。眞砂ばあさんとこの孫だぜ?」

「なら、あれだ。かな坊の分も残しておやりよ」


 老女にからかわれ、志摩は顔を赤くしてコップ酒を受け取る。


「厨子、持ってやるよ」


 くわえ煙草で奏斗が手を伸ばすが、首を横に振って、片手で持つ。なんとなく、厨子は自分が持って回りたかった。


 志摩は厨子を片腕で抱えるようにして持ち直すと、コップ酒を唇につけ、一気に喉に流し込む。


 日本酒はほとんど飲まない上に、苦手なのだが、甘い水のような感じだ。つるり、と流れ込み、胃に灯のような温もりを宿した。


「はい」


 コップ酒を奏斗に差し出す。携帯灰皿に煙草を捨てた奏斗が、その量を見て苦笑いした。


「お前すげえな。半分を一息かよ」

「美味しかった」


 感想を伝えると、奏斗だけではなく、老女も愉快そうに笑った。


「それじゃ、いただきます」

 奏斗は言うと、残りの酒を傾ける。


「今から、六家を巡るんだね?」

 老女が志摩に尋ねる。


「はい。奏斗くんと一緒に」

「そうかえ。じゃあ、それぞれの婆たちに、わたしの方から連絡を入れておいてやろう。いきなり行くより、話が早いだろう」


「かあ。喉、あっつ! お前、よくこんな強いの、一気に飲んだなっ」


 奏斗が顔をしかめ、軽く咳き込む。酒の匂いと煙草の香りが彼から強く放たれた。


「連絡って、電話かなんかか?」

「グループLINENで連絡しておいてやる」


 もんぺからスマホを取り出し、よろよろと立ち上がった老女は、手すりを伝い、靴箱の上の小物入れから、眼鏡をつかみ取った。


「……ばあちゃん、そんなの組んでるのかよ」

「便利だからな」 


 眼鏡をかけたかと思うと、志摩と奏斗に笑いかけた。


「早う行け。厨子を回せ」


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