第28話 混乱の夜へ

 そっと受話器を受け口に戻す。


「よし」

 奏斗が、ばん、と背中を叩いてきた。


「いったあああ!」

「気合入れていくぞっ」


「もうっ。気合なら、自分自身に入れてよっ」

 怒って見せるのに、奏斗は笑って式台に上がる。


「とりあえず、羽村の家に行って、厨子を受け取ろう。田淵のおっさんが持っていったはずだ」


 まだ土間にいる志摩の腕を取って式台にあげると、奏斗は廊下を歩き始める。


「そう、だよね……」


 そうだ。昨日、田淵が『厨子を回す』と言って、羽村に持参したはずだ。

 彼について式台から廊下へと移動したとき。


 ガタガタガタガタ、と。

 玄関扉が揺すられる音が響いてきた。


 顔を見合わせると、志摩は目で制される。だが、きっぱりと首を横に振った。奏斗にすべてを背負わせるのは嫌だ。この家の総領娘は自分なのだ。


 その覚悟は奏斗に通じたのだろう。手首をとって玄関まで連れて行ってくれた。


「誰?」


 廊下を歩き、式台を降りた奏斗がぶっきらぼうに尋ねる。


 式台の下に仕込まれた間接照明だけでは暗すぎてわからない。志摩は漆喰の壁に埋め込まれた片切りスイッチを押した。じじ、と小さな音を立てて蛍光灯が数度明滅する。


 そのたびに、玄関扉のすりガラスが、闇の向こうに人影を浮かび上がらせる。

 ガタガタガタガタ、と執拗に揺する、影を。


「なに。誰?」


 再度奏斗がきつい声を放つ。ふたりともクロックスを履き、土間に降りていた。じっとりと湿気を帯びた冷気が地面から這い上り、足首だけが奇妙に冷たい。


「七塚の総領娘じゃないのか? 男……? 誰だ?」


 奏斗の声に反応したのは、掠れた、だが、まだ若い男の声に聞こえた。少なくとも高齢者ではないだろう。


「あんたこそ、誰」

 奏斗が撥ねつける。


「佐々木だ。佐々木、忠司」


 思わず声を漏らしたのは志摩だった。

 行方不明になった、という佐々木家の当主がなぜここにいるのだ。


「お前……。どこにいたんだ」


 奏斗は志摩から手を離し、ねじ込み式の棒を引き抜き、横開きの玄関扉を開く。


 夜闇と共に吹き込んできたのは、昼間の熱気を孕んだ風だった。ぶわり、と吹き付けられ、志摩は顔を背けてやり過ごす。


「厨子は、ここにあるんだろう」

「ちょ……っ」


 切羽詰まった忠司の声と、困惑する奏斗の声に、志摩は咄嗟に視線を上げた。


 敷居を挟み、忠司が奏斗の胸倉をつかんでいる。


 身長的に奏斗の方が十センチ以上大きいせいで、『つかむ』というより、『ぶら下がる』という表現の方が正しいのだが、忠司の顔は切迫しており、Tシャツの襟を引きちぎらんばかりに握っていた。


「佐々木さんっ。やめてっ」


 志摩が割って入ろうとするが、左手で突き飛ばされてあっけなく土間に尻餅をついた。


「おいっ」

 顔をしかめて痛みを堪えていると、奏斗が忠司を片腕一本でねじり上げる。


「厨子を出せっ」


 忠司はつま先立ちにされながらも、怒声を放った。志摩は呆気にとられて彼の顔を見上げる。


 年齢は、二十代後半といったところか。奏斗と年はそう変わらなそうに見えた。細身で小柄な男性だ。


 だが、蛍光灯に照らされた忠司の目は、異様なほどの光をみなぎらせていた。服にはいたるところ泥がこびりつき、スラックスにはいくつも破れが見える。一体、今までどこで何をしていたのか。


「厨子なんて無ぇよっ」


 奏斗が怒鳴り返すと、彼の胸を両手で突き放して忠司は逃れた。


「嘘をつけ! 厨子を持っているから、七塚の家だけ無事なんだろうっ!」

「……無事……?」


 志摩はゆっくりと立ち上がる。気づいた奏斗が手を伸ばし、自分の方に引き寄せた。


「大丈夫か」


 問われて小さく頷く。ぎゅ、と奏斗のTシャツの裾を握りしめ、志摩は敷居の外にいる忠司を見た。


「女が来る! 俺を殺しにっ」


 ヒステリックに忠司は叫び、髪を掻きむしった。よく見れば、片方靴を履いていない。真っ黒になった靴下のまま、忠司は地団太を踏んだ。


「お前らだけ無事なのは、厨子があるからだろう! くそっ! 羽村のおっさんの言うことなんて聞くんじゃなかった! 厨子を止めるんじゃなかった! あんな女にまとわりつかれるなんて……っ!」


「女……」


 志摩は奏斗を見上げる。奏斗は顔を歪ませ、ため息を漏らしているところだった。


 やはり。

 あの女たちは六家を許すつもりはないらしい。


「冗談じゃない……。ようやく嫁をもらったんだ。このまま死ねるもんか……っ」


 上半身を小刻みに揺らしてぶつぶつと繰り返した忠司は、また喚き始めた。


「厨子を出せっ。俺に寄こせっ」

「厨子は、ここにない」


 奏斗がきっぱりと答えた。


「嘘だ!」

 大声で騒ぎ立てる忠司を見下ろし、奏斗は睨みつける。


「田淵のおっさんが持っていった。どこにあるのか、おれらも知らない」

「田淵……っ。あいつめ、厨子を抱え込むつもりだなっ!」


 語尾は微妙に音程を外し、唾を飛ばしで怒る忠司に、志摩は戸惑う。


 違う。

 厨子は、田淵の家にない。


 確かに田淵は厨子をこの家から持ち去ったが、彼は順番を回すために羽村の家に届けたはずだ。


 そもそも、彼は。


 田淵家の当主は、現在意識不明のままドクターヘリを待っている身なのだ。

 視線を感じ、志摩は顔を上げた。奏斗だ。目が合うと、黙っていろ、と目で訴えられる。


(……そうだ。田淵さんのところの事件がある前に、佐々木さんは失踪してて……)


 事情を知らないのだ、あの女から逃げ惑っていて。


「おい、奏斗」


 騒ぎすぎたからだろう、ぜいぜいと肩で息をしながら、忠司は無造作に奏斗に腕を伸ばした。


「表の軽トラ、お前のだろ。鍵を出せ」

「はあ?」


 奏斗が顔を歪ませると、突き出した腕で、どん、と胸を殴る。


「出せってんだよっ! 田淵の家に行って厨子を取って来る! あいつだけに独占させるもんかっ」


「落ち着けって。心配なら、おれらと一緒にいればいい。まずはお前……。家族に連絡しろよ。みんな心配してるぞ」


 意識的にゆっくりと話しかけるが、忠司は一方的に怒りを募らせていく。


「どうすんだ! こんなことで嫁が逃げて行ったらどうすんだっ! せっかく、手に入れたのにっ! せっかく、皆に協力してもらって……飲ませて、落としたのにっ!」


 目が血走っている。志摩はその瞳に既視感を覚えた。

 村上の、目に似ている。


「お前はいいよな。とっかえひっかえ……。分家の次男のくせに……っ。今もあれか。総領娘とやってたんだろ」


 ひひ、と歪に笑われる。

 奏斗が志摩の姿を隠すように身を乗り出した。


「いい加減にしろよ、忠司。女に言う言葉じゃねえだろ」

「うるせえええええ!」


 忠司が絶叫する。


「分家の種馬のくせに、ごちゃごちゃ言うな!」


 かっとなった奏斗が忠司に一歩踏み出す前に。

 志摩は握りしめた拳で、力いっぱい忠司の頬を殴りつけた。


 ごつり、という鈍い音と同時に、中指と人差し指の付け根に強烈な痛みが走る。普通なら悲鳴を上げるような痛みなのだろうが、脳から放出されたアドレナリンが何もかもを消した。


「汚い言葉を使って人を傷つけるんじゃありませんっ」


 尻から崩れ落ち、茫然と自分を見上げる忠司に、ぐ、と拳を握りしめると、じんわりと痛みが肘まで伝わってくる。だが、眩暈がするほどの怒りの前にそれは霧散した。


「小学校からやり直してきなさいっ」


 睨みつけたまま断じる。

 しん、と静まり返る空気の中を、じいじい、と何かの虫が鳴いた。

 そして、不意に背後で奏斗が笑い始める。


「やっぱお前、おれの惚れた女だわ」


 振り返ると、陽気に笑う奏斗に、ぽんぽん、と頭を撫でられた。


「ほらよ。傷つけたら弁償してもらうからな」


 まだ地面に座り込んだままの忠司に奏斗は鍵を放る。きらり、と室内灯の光を受けて輝いた鍵を、忠司は慌てて両手で受け止めた。


「これで、志摩が殴ったのはチャラだ」

 奏斗が吐き捨てる。


 忠司はよろめきながら立ち上がり、なにか志摩に言ってやろうとしたようだが、見る間に腫れあがる左頬が痛むのか、結局睨みつけただけで立ち去った。


「お前、手ぇ見せてみろ」


 奏斗が、ぐいと右手を引っ張る。途端に、痛みを感じて声を上げた。


「素手で殴りゃあ、こうなるって。あーあ、もう」


 恐る恐る自分でも奏斗に握られた手を見る。

 手の甲の中央部が丸く腫れあがっていた。今になってひどい痛みが響いてきて、肘の辺りまで疼く。思わず右手を抱え込み、うう、と唸った。


「妙な音がしたから、やべ、と思ったけど……。これぐらいの腫れなら、骨に異常はないだろ。ってことは、忠司のやつ、歯ぁ、折れたな」


 奏斗は志摩の肩を抱いて炊事場に向かう。

 その時、開けたままの玄関から、咳ばらいをするようなエンジン音が聞こえて来た。


「ど、どうする? あの人、お厨子を……」

 玄関と奏斗の顔を交互に志摩は見た。


 今から六家を回らなくてはならないというのに、このままだと、厨子を抱え込むのではないだろうか。


「多分、田淵の家に行く気だろうから。その前に羽村ん家に行って、厨子を回収しよう」


 奏斗は冷蔵庫から保冷剤を取り出した。ついでに水屋の引き出しをいくつか開いて何かを探している。


「それに、軽トラ。オートマじゃないんだけど、あいつ乗れんのかな」


 奏斗が言った途端、ぶおん、と大きな音の後、エンジンが止まる。ぽかんと玄関の方を見ている間に、奏斗は大笑いしながら、手拭いを引っ張り出した。


「ま。エンスト何回か起こしてる間に、先に羽村の家に行こうぜ」


 志摩の手に保冷剤を当て、手拭いで縛った奏斗が、顎で廊下を指示した。どうやら勝手口から家を出るつもりらしい。


 志摩は大きく頷いた。

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