第23話 かごめ紋

□□□□


 その日の晩のことだ。

 炊事場の流しで頭を洗った志摩が、寝室に戻ろうと土間に移動すると、勝手口の方から奏斗が歩いてきた。


「どうしたの?」


 バスタオルで頭を拭きながら、志摩は首を傾げる。


 彼が持っているのは古びた竹かごだ。耕運機置き場の隅にあったものを引っ張り出してきたらしい。


「頭洗い終わったか? ちょっと、これ綺麗にしたいんだ」


 手に持ってはいるが、顔は近づけたくないらしい。奏斗は軽く持ち上げただけで示して見せた。


「終わったけど……」


 昨日、散々怖い目をみた志摩としては、ひとりで風呂に入る勇気はない。

 そこで、奏斗に提案をした。


『一緒にお風呂に入らない? 水着はないけど……。互いに下着つけてたら裸じゃないしさ。奏斗くん、目隠しするんだったら、私が背中、洗ってあげるよ』


 いろいろ考えあぐねた挙句、そう誘ったところ、正座をさせられ、大声で説教をされた。


『お前はバカなのか、あほの子なのかっ!』『どこのフーゾクだ!』『全然反省してないじゃないかっ。自己分析とやらはどこにいった』『おれ以外にこんなこと言うなよ! とんでもない目に遭うぞ!』


 と、一方的に叱られ、最後には、『これはおれに対するいやがらせかなにかなのか』となぜか半泣きになっていた。


 仕方がないので、身体は汗拭きシートでふき取り、髪は炊事場の流しで洗うことにしたのだ。洗面所も屋内にあるのだが、水受けのボールが手水鉢程度で、とても洗髪するだけの水を受け止められるように見えない。


 四苦八苦して髪を洗っている間に、奏斗はというと、さっさと風呂に行くのだから、志摩はずるいと思う。今も、こざっぱりとした風情でTシャツとチノパンを履いていた。


「それ、なにするの? 野菜でも洗うの?」

 大型トラックのハンドルぐらいはありそうな竹かごだ。


「魔除けに使おうと思って」


 式台を降り、クロックスをひっかけて炊事場に行く奏斗の後ろをついて行くと、彼はあっさりとそう答えた。


「魔除け? 竹かごが?」

 きょとんと繰り返すと、奏斗は頷く。


 炊事場に戻ると、さっき使った志摩のシャンプーの香りがまだ残っている。奏斗は気にする風でもなく、流しの蛇口をひねり、ざあざあと音を立てて竹かごを洗い始めた。


「おれの大学時代のゼミの先生がさ。結構迷信深い、というか……。いろんな縁起を担ぐ人だったんだよ。靴は朝おろせ、とか。夜みたクモは殺せ、とか。彼岸花は摘むな、とか」


「へえ」


 志摩は目をぱちぱちとさせた。いずれも『してはいけない』ことは知っているが、いまだに守っている人がいるとは。


「年配の先生なの?」

「まだ若かったなぁ。三十半ばぐらい?」


「すごい。それで教授?」

「准教授。で、その先生が、そういえば部屋にいっつも、竹かごをひっかけていたのを思い出してさ」


「そんな迷信あるの?」


 あらかた埃を流し終わったのだろう。奏斗は蛇口をしめ、一気に竹かごを振った。大小の様々な雫が炊事場に散り、土間に吸い込まれる。


「ほら、このかごめ紋が、魔除けになるんだ」


 奏斗はまだ水のしたたる竹かごを顔まで持ち上げた。網目のむこうから彼の顔がのぞく。竹ひごによってかたどられたそれは、三角形がふたつ重なったような模様をしていた。


「六芒星ともいわれる」

「魔法陣みたいなやつ」


 志摩が言うと、奏斗は笑って頷いた。


「日本じゃ、かごめ紋って言ってな。家紋にもなってる。有名な魔除けだ」

「へえ」


 感嘆の声を上げる志摩の隣を抜け、奏斗はまた、玄関に向かった。


「お前、ちゃんと頭拭けよ」

「自然に乾くし。それより、どこに持っていくの?」


 奏斗と並び、一応わしわしとバスタオルで髪の水分を拭きとる。


「玄関扉の外に置いておこうかな、と。悪いものは、外から来るからな」


 悪いものは、外から。

 ふと、記憶をなぞるのは。


 きし、きし、きし、きし、と。


 板をひっかくような音。押し開けようとするような音。あれは、厨子の中から聞こえた。まるで、中の何かが外に出ようとしているように。


(悪いものは外)


 では。

 中にあるものは、どうなのだ。


 いいものなのか。わるいものなのか。


「志摩?」

 名前を呼ばれ、まばたきをする。


 どうやら、ぼんやりと立ち尽くしていたらしい。玄関の横引き戸の側で奏斗が心配げに自分を見ていた。


「なんでもない」


 志摩は笑って首を横に振る。奏斗の傍まで大きく一歩で近づくと、からり、と玄関扉を開けた。


 外はすでに夜の闇に染まっていた。


 隣の家との距離が都会のそれとは比較にならないほど離れているので、灯りといえば月あかりぐらいなものだ。


 見上げた月は満月。かなりの光量があるせいで、志摩と奏斗には影が出来ている。


 じいじい、と鳴くのはなんの虫なのだろう。コオロギも鈴虫ともちがう。吹く風も秋というより、夏のようにじっとりと熱を孕んでいた。


「この辺でいいか」


 奏斗が門柱に近づき、周囲を見回している。そこに立てかけるのだろう。


「風で飛んじゃわない?」

「石かなにかで重しをするか」


 志摩も周囲を見回し、空になって伏せられた植木鉢を見つける。


「これどう?」


 片手で持ち上げて奏斗に声をかけると、「おお。いいじゃん」と手を伸ばしてくる。奏斗に植木鉢を差し出したとき。


 足音が、近づいてきた。


 奏斗は志摩の手首を掴み、強引に自分に引き寄せる。その拍子に植木鉢が地面に落ち、鈍い音を立ててた。視界の端で、素焼きの鉢が欠けるのが見える。奏斗が持っていた竹かごが放り出され、地面を跳ねて転がった。


「……田淵のおっさん?」


 左腕に志摩を抱えた奏斗が呟く。


 顔を上げて彼の視線を追った。門の前を東西に延びる道だ。その西から、こちらに走って来る人影が見える。


「誠也さん、だよね」


 荒い息とともに近づいてくるのは、確かに田淵誠也だ。

 麻のパジャマを着た彼は、一心不乱に駆けている。近づいてきてぎょっとした。裸足だ。


「おい、お前ら!」


 志摩と奏斗を見つけ、誠也は声を張った。昼間のような怒声ではない。明らかに怯え、戸惑った声だった。


「おっさん、どうした」


 奏斗が警戒心をあらわに尋ねる。誠也はもう数メートル先まで近づいていた。


「助けてくれ! 追ってくるんだ!」


 誠也は奏斗に向かって手を振る。ちらり、と背後を窺い、それからほっとしたように目元を緩めた。一気に速度を上げて志摩たちの傍まで来ると、ようやく足を止めた。


「追ってくる、って?」


 奏斗は誠也とは逆に、注意深く周囲に視線を走らせた。声が固い。志摩の腰に回した手にも、しっかりと力を込めている。


「女だよ!」


 両膝に手をついて、息を整えていた誠也は、がばりと顔を上げる。月光に照らされた肌が青白い。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る