第20話 嫌悪感の底にあるもの

「結婚、ねえ」


 志摩の手首を握り、半歩前を歩く奏斗の背中を眺め、思わず呟いた。


 Tシャツ越しにもわかるはっきりとした背筋。日に焼けた肌。短く切りそろえた髪は、茶色にカラーリングされている。


 無駄のない体躯。相変わらずの長身。


 多分、志摩が勤務していた小学校に連れて行けば、クラスの児童たちが騒ぎ出すような容姿を、奏斗は持っている。あの年代の子どもたちは年上の異性よりも同性に憧れたりするから、奏斗はきっと男子たちに大人気だろう。


「悪かったなぁ」


 急にくるりと振り返り、奏斗は志摩から手を離した。ついでに、がりがりと頭を掻く。


「おばちゃん、変なこと言って。あんま、気にすんなよ」


 なんのことか、ときょとんと奏斗を見ていたが、『あんたたち、結婚すれば』と静江が言ったことだと気が付いた。


「なんか、村の人ってすぐに奏斗くんに責任を取らせたがるね」

 笑いながら言うと、ようやく奏斗も表情を緩め、隣を歩き始める。


「この村の住人世代じゃ、おれの年齢で独身ってのが信じられないんじゃないのか?」


 奏斗は眉を下げ、済まなそうに肩を落とす。


「志摩に彼氏とかいたら、気が悪かっただろうな、とおもって……」


 ああ、そんなことを気にしてくれていたのか、と志摩は頬が緩む。相変わらず、口は悪いが気の優しいお兄ちゃんだ。


「残念ながら、年齢イコール彼氏いない歴だから」

 志摩の言葉に、奏斗は驚いたように顔を上げた。


「なんだ、そうなのか。気を遣って損した」

「いや、気は遣って」


 そう返し、顔を見合わせてふたりで笑う。

 じりじりと照り付ける太陽を見上げる。空には雲一つない。子どもの時に見た村の景色そのままだ。


「気になる男とかいないのか?」


 問われて隣を見る。奏斗が自分を見下ろしていた。その足元から伸びる影はくっきりと濃く、そして長い。


「いいなあ、と思う人もいたけど……」


 そう、例えば高校時代。


 同じクラスのサッカー部男子に、自分は多分、好意を抱いたと思う。席替えで隣になればどきどきしたし、たわいない話を振られただけで、パニックになりそうだった。顔が熱くなって言葉に詰まり、周囲の女子たちからいじられたり、仲をとりもとうか、とからかわれた。


「なんかこう、『つきあう』っていうイメージがわかない、というか。わいた瞬間、醒める、というか……」


「どういう意味」


 奏斗を見上げる姿勢は、子どもの頃のままだけど。

 その背の高さや、声の低さは、あの日のままじゃない。


 なんだか、それがやけに志摩には寂しかった。


「つきあったらさ、いろいろあるじゃない」

「いろいろ? 結婚とか親戚づきあいとかか?」


「うーん……。むしろ、そういうのは、私、意外に問題ないとおもってて……」

 口ごもるが、奏斗は先を促すように何も言わない。


「ほら、中学生とかじゃないんだからさ。高校生とか大学生とか。ましてや、この年になると、お付き合いした人と、手しかつなぎません、とか、ありえないわけでしょ?」


「……まあ、なあ」

 たじろいだように奏斗は頷いた。


「なんかね、気持ち悪いのよ。ちゅーとか、えっちとか」

 はっきりそう言うと、奏斗は今度こそ鼻白んだ。志摩は続ける。


「どっちかっていうと、汚くない?」

「え。お前、潔癖症じゃねえよな?」


「違う。むしろ、生活全般で言えば、割とずぼら」

「だよな。ここ数日、暮らしててそう思うわ」


 断言され、ちょっとへこんだ。男性から指摘されると辛いものがある。


「汚い、というか……。愛情表現だろうよ」

 奏斗がためらいながら口にする。


「愛情表現って……」


 ぞわり、と一気に鳥肌だった。

 押し付けられた唇。漏れる呼気。身体に這わされたじっとりとした掌と指。


「気持ち悪い」

 志摩は断言した。


「そういうことをしなくていいんなら、私、結婚して親戚づきあいとかするけど」

「いや、それどうだろうな」


 明らかにドン引きな奏斗を見て、志摩は、いったい自分がいつからこんな風に考え始めたのだろう、と振り返る。


 村上とのことで加速したのは確かだが、その前から傾向はあった。


 現に、高校時代がそうだったのだから。

 結局好意を寄せていたサッカー部の男子とは交際しなかった。いや、自分自身交際など望んでいなかったというほうが正しい。


 大学時代には、バイト先の先輩や、ゼミの同級生から交際を匂わせるようなことを言われたこともあったが、やっぱり、〝気持ち悪く〟て、断っている。


 その背後にある彼らの目的が透けて見えた気がしたのだ。


「ちゅーとか、えっちとかして、楽しい? それとも単純に気持ちいだけ?」

 なんだか純粋に奏斗に尋ねてしまう。


「お前、それ男に聞くか」


 言いながらも、奏斗は腕を組んで頭をひねってくれるのだから、やっぱりこの男は気がいい。


「ってか、そりゃ、気持ちいい……。いや、その……。まあ、そういう行為を相手から許されて、嬉しい、のかな……」


 しばらく無言で考え込んでいた奏斗が、ぽつりとそう言った。


「誰に対してもするわけじゃねえだろ? 特に日本人なんてさ。だから、そういう行為をしてもこう……。怒られない、というか、嫌われない、というか。それって、やっぱり、おれのこと特別だって思ってくれてるのかなって感じて……ますます好きになる、というか……」


「でもそれって、言葉にしてちゃんと伝えればいいわけでしょう? あなたのことが特別に好き、とか。愛してます、とか」


「ま、まあ……。そうだけど。言葉だけじゃ足りない、というか」


「家族とか友達の間では、逆にそんなことしなくても、愛情が感じられるのに、なんで恋人同士になったら、そんな行為をしなきゃいけないんだろ。そうじゃないと感じられない、って思うんだろう」


「いや、しなきゃいけないわけじゃないんだろうけど……」

 困惑しきりの奏斗を見ていると、急速に申し訳なさが立ち始めた。


「ごめん。別に言いくるめたいわけじゃないの」

 志摩は足を止め、項垂れる。


「自分でも、変なんだろうなぁ、とは思ってる。いろいろ自己分析だってしてみたのよ? 多分、お母さんの再婚のこととかが関係してるんだろうなぁ、とか」


 確実に、義妹の発言は志摩の思考をゆがめているとは感じている。


『人の家庭を壊しておいて』『あんたも同じよ』『他人の不幸の上で、のうのうと暮らしてて』


 泉水は、両親のいないところで、いつも志摩を責めた。


 志摩の母と、泉水の父が出会ったのは、互いに離婚してからだ。

 少なくとも両親は志摩にそう説明をしたし、志摩はそれを信じている。実際、そうなのだから。


 だが、泉水にとっては信じがたく、そして許しがたいことなのだろう。


 事実を自分の都合の良いように捻じ曲げないと、実父さえ嫌いになりそうなほどの衝撃を受けたのだろう。


 年長者として、義理とはいえ姉として、彼女の気持ちを受け止めよう。

 そう思ってきたのだが。


 両親は、志摩を責める泉水を表立って叱ってくれるでもなく、ただ、傍観していた。


 傍観というより、戸惑っている、というのが正しいのかもしれない。

 結果的に、志摩の心は泉水によってえぐられ続けた。


 いびつに歪まされた思考回路は、母とて、ひとりの女性なのだ、という当たり前のことさえ、時折、気味悪く思えることもあった。


 この母が、志摩にとっての実の父以外の男性と婚姻関係を持ち、そして性的関係を築いているということが。


 そして、その血が自分にも脈々と受け継がれているのだ、ということも。


 そこに来て、村上の事件だ。

 彼が既婚者でなければ、まだ救いがあったのかもしれない。独身男性に言い寄られ、暴行されかけた。


 それで納得ができたかもしれない。

 だが、彼は既婚者だった。子もいた。


 危うく自分は「誰かの家庭を壊す」ところだった。

 加害者になるところだった、と。


 歪んだ認知で志摩はそう考えてしまう。


 だ、というのに。


 だから、警察に訴えることも事件を公にすることも志摩はやめたのだ。

 それが「誰かの家庭を壊す」ことだと知っているから。


「志摩と最後に会ったのが、小学生のころだからさ」


 ふわりと頭の上に奏斗の声が降ってくる。

 顔を起こすと、彼の真っ直ぐな瞳に捕らえられた。


「そのあとから志摩になにがあって、どんなことが起こったのかはわからないし……。あれだけど。でもな」


 腰をわずかに屈め、奏斗は志摩の顔を覗き込んだ。


「お前の心を傷つけたやつの事情を考えるな。お前が悪いんじゃない。全部、相手が悪いんだ」


「世の中に、一方的に悪いことなんてないよ」

 力ない言葉が口の端から、ぽろぽろこぼれる。


「どっちもが悪いんだよ」

「だったら、相手も悪いんだ。お前だけが悪いんじゃない」


「なんかね、時々、自分が歪みながら成長してるなあ、って思うときはあるの」


 奏斗を見上げて話していると、あの日のまま、精神年齢が止まってしまっているんじゃないだろうか、と感じる。素直になるというのだろうか。ありのままの言葉が口から紡がれる。


「小学生ぐらいで止まってしまっているところがあって……。だから、人との距離感が分からなくて、心の距離が、身体的距離になっちゃってるのよね。

 尊敬してたり大好きだったりしたら、ものっすごく身体的距離も近くなってて……。逆に、嫌いな人にはまったく近づかなかったり」


「あるな。お前、それ気をつけろよ」


 はっきりと首を縦に振られて、志摩はおもわず吹き出した。


 そうだ。よく考えたら、奏斗だって男性なのだ。

 それなのに、自分は二日前、彼に寄り添って寝ていた。


「だから、私も悪いの」

「お前を傷つけたやつは、そんなこと考えてないとおもうぞ」


 奏斗は眉間にしわを寄せ、言い切った。


「そいつらは、一方的に『お前が悪い』って絶対思っている。だから、そんなやつに、お前が優しさを示してやる必要はない。言葉のわからない怪物に同情を示したって、食われるだけだ」


 腕が自分に伸びてくるから、反射的に首を縮めたが、奏斗は、優しく自分の頭を撫でた。


「普通は、愛してるやつを傷つけたいなんて思わないし、嫌われるようなことは絶対しない。抱きしめるのも、ちゅーするのも、えっちなことをするのも、相手が自分と同じ気持ちだと思うからやるんだよ。相手が嬉しいと思ったり、気持ちいいって思ってくれたらって。そうじゃないやつは、クズだ。人間じゃないから、関わる必要なし」


 急に奏斗が志摩の髪をくしゃくしゃにするから、志摩は笑って彼の手から逃れた。


「お前の情けや優しさは、その価値がわかるやつだけにやれ」

 命じる奏斗に、志摩は頷いて抱き着いた。


「こらっ。こういうことを言ってるんだっ」

「これは感謝の表現。奏斗くんはちゃんとわかってくれるからやってるの」


「……それが複雑なんだって……。おれだって、人畜無害ってわけじゃないからな」


 ぶつぶつと恨めし気な奏斗を見て吹き出し、志摩は彼から離れた。

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