第14話 異変の原因

「な、なんなの……?」


 鏡の中で自分の唇が震えている。


 ぽつり、ぽつり、と毛先からしたたる湯が、肩を流れて落ちた。

 そっと自分の右手首を見る。


 確かに。

 確かに、今、誰かが掴んだ。


 ごぼり、ごぼり。


 目を転じる。

 トラップカバーが浮き上がり。


 ごぼり、と。

 不快な音と、臭いを吐く。


 もう、湯はない。

 浴室タイルに、流れるべき液体はない。


 だが。

 ごぼり、と。


 音が鳴り、トラップカバーが浮く。


 床と、カバーの合間。

 そのわずかな隙間から。


 どうしても。

 視線を感じる。


「だ、大丈夫」


 気のせい。

 気のせいだ。


 だいたい、何があるというのだ。幽霊見たり、枯れ尾花、というではないか。きっと、この不穏な天気のせいで自分は今、混乱しているにすぎない。


 だがちらりと頭をよぎるのは、あの黒い影の女。


 気づけば、大声で『おばけなんてないさ』の歌を歌い、ひっつかんだシャンプーを髪に擦り付ける。


 二番目を歌う頃には、桶で頭に湯をかけた。


 目を開けたまま洗い流すかどうか迷ったが、目を開けていて、何かを見ても嫌だ。

 ぎゅ、と目をつむり、だけど口は大きく開けて、無心に歌を歌い続ける。二度、三度。髪に湯をかけるのに、今日に限ってまだ泡が残っている気がする。


 もう、どのパートを歌っているのかわからないまま、適当にトリートメントを髪に撫でつける。その傍から、湯をかぶった。


 その間も。

 視線を感じる。

 


 背後から。



 何か。

 いる気がする。


 ごぼり、と音がする。

 かつり、とトラップカバーが開いた気がする。


 志摩は数度湯をかぶった後、一気に目を開いた。


 目の前の鏡。


 そこには、「ねーぼけーた人が」の「ぼ」の口をした自分と。



 背後に。

 髪の長い女が映っていた。



 女が、ぱくりと口を開く。

 白い空間が、そこにあった。


 その真白な空間がわずかに揺れる。


「どうして、あのおとこは……」


 女の口から声がこぼれ出る。


 だが、志摩は悲鳴を上げて立ち上がった。


 床タイルに滑って転倒。

 したたかにお尻を打ち付けた。そのまま、タイルに爪を立て、振り返る。


 そこには。

 何もいない。


 ただ。

 湯気にかすむ浴室扉があるだけだ。


 志摩はがちがちと顎を鳴らしてしばらく座り込んでいたが、ごぼり、という例の音に、弾かれたように立ち上がった。


 振り返りもせず、飛び出すように脱衣所に移動する。


 バスタオルをひっつかみ、ただ、身体を撫でただけで、下着を身に着けた。Tシャツを頭からひっかぶり、ハーフパンツを履いて、下足場に飛び降りる。まろびながらクロックスに足をひっかけ、バスタオルだけ持って小屋を飛び出した。


 どおん、と。


 ドアを開けた瞬間、雷が鳴り、志摩は悲鳴を上げて走る。


 細めた目に、稲光が刺しこんだ。

 音を立てて雨が地面に降り注ぐ。また、降りだした。


 志摩は勝手口に駆け込み、式台に飛び乗った。前のめりになって廊下に入る。


「うお。なんだ、お前」


 そこには、お膳を持った奏斗がいた。

 志摩は、嗚咽なのか唸り声なのかわからない声を発しながら、バスタオルを握りしめたまま、奏斗に抱き着いた。


「ぎゃっ! ちょっと待てぃ!」


 奏斗は両手に持っていた膳を持ち上げ、万歳の姿勢を取ることで、最悪の事態を免れた。


 志摩は彼の腰に抱き着き、憚らずに大声を出した。


「なんかいる! なんかいる! なんかいる! なんかいる、ってここ!!」

「なんかいる、ってなに。ゴキブリかなんかでも見つけたか」


「違う! 幽霊みたいなやつ!」


 子どものように地団駄を踏み、抱き着いたまま顔だけあげる。ぐすり、と鼻を鳴らし、涙で滲む視界の先で、奏斗が困惑した目を向けていた。


「奏斗くんも聞いたでしょう!? ラジオとかスマホから変な女の人の声が聞こえてくるし! 昨日から、背の高い女の人が……。真っ黒な人が、ウロウロしてるし!」


「あー……。あれなあ……」

「もうっ! なんで冷静なのよっ!」


「冷静じゃない、というか、揺らすなっ!」


 叱られ、志摩はようやく奏斗から離れた。握っていたバスタオルを顔に押し付けて涙や洟をすする。


「あれなに。もうやだ!」

「なんだろうな。おれもわからん」


 奏斗は言うなり、膳を両手で持ったまま、足で障子を開いた。行儀が悪い、という前に、志摩は身体を竦ませる。


 そこは。

 厨子のある座敷だ。


「……ねぇ。祝宴が終わってから変なこと続かない?」


 縁側の雨戸を閉めていないからだろう。室内は電気をつけていないとはいえ、暗くはない。奏斗はそこを、床の間に向かって歩いている。


「雨が降り続いたり、安室のおじいちゃんや、羽村のおじさんが怪我したり……。この厨子が……」


 この家にとどまり続けてから、異変が起きているのではないか。

 そう言いたかったのだが、落雷の音に、志摩は口を閉ざした。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る