第13話 掴む手

 む、と。

 皮膚を取り巻くのは湿気と草木が雨を含んだ独特の臭いだ。


 空を見上げる。

 相変わらずの曇天。いや。また強烈な雨粒を地面に落とすのは時間の問題に見える。


 山にかかる雲はすでに木々を取り巻き、待ちきれずに雨を滴らせているせいで山全体が白く煙っていた。


 志摩は足早に風呂が入っている小屋に近づいた。


 手前に引くと、きい、と軋み音が鳴り、心臓がどきり、と跳ねる。

 昨日執拗に聞いた音に似ていた。


 志摩は、後ろ手にドアを閉め、内カギをかける。横にバーをスライドさせる簡単なものだ。


 パネル型のスイッチを押すと、天井付近に設置されている照明がつく。


 ふと、そういえば、パネルスイッチは、屋内にはないな、と志摩は思った。ひもが垂れていて引っ張るタイプの電灯や照明ばかりだ。


 脱衣所は、一段高くなっており、志摩はクロックスを脱いで上がる。心なしか湿気を含んで床がじっとりとしていた。


 洗濯機と、簡単な洗面所が並ぶ脱衣所は、意外に広い。脱衣籠には、昨日、乾燥機で乾かしたバスタオルとタオルが積んである。


 食事や力仕事を奏斗がしてくれるので、志摩は洗濯や掃除を担当していた。


 志摩と違い、一人暮らしをしている奏斗は、多分掃除や洗濯もそれなりにこなすのだろうが、〝異性の服〟に触れることに気を遣ってくれているらしい。


 ランドリーバックを、銭湯にあるようなプラスチックの籠に入れ、ふう、と息を吐く。


 木材が湿気た匂いが肺に満ちる。二枚折り戸の向こうからは、湯の温度が伝わってきた。


 志摩は手早く衣服を脱ぎ、風呂場に入る。


 昔は五右衛門風呂の釜が、どん、とあったのだが、今は至って普通の湯船が設置され、洗い場だけが記憶にある通り、丸い浴室タイル敷だった。昔はこれが、ラムネのように見えたものだ。


 風呂ふたをくるくると巻き取り、浴室の端に立てかける。もわっ、と、一気に白い湯気が上がるが、屋外のような不快さはない。


 シャワーチェアーに座り、桶で湯を浴びる。

 熱めの湯が、さらりと肌を流れた。ざあ、と浴室タイルに湯が広がり、排水溝に向かって流れていく。


 幾度か身体に湯をかけ、きょろきょろと視線を彷徨わせる。薄く湯気の上がった浴室の端に、家から持参したシャンプーやボディソープが目に入った。


 昨日、奏斗に『使って』と言ったが、どうも減ったようには見えない。ここでも気を遣っているらしい。その代わり、祖母が使っている「高齢になっても輝けるあなた」という謳い文句で有名な基礎化粧品シリーズのボディソープやシャンプーが使われている気配があり、くすり、と笑ってしまった。


 やはり家から持参したスポンジに適量ボディソープを取り、泡立たせていると、ごぼり、と排水溝が音を立てたことに気づく。


「ん?」


 詰まっているのだろうか、と目をやるが、タイルに水は溜まっていない。排水溝にも異常は見えなかった。


 志摩は首を傾げ、身体を洗いあげていく。


 湯気にボディーソープの香りが乗り、この数日の心労でカチカチに固まっていた心が次第にほどけていくようだ。いつも通りのルーティーンで洗い、カランに手を伸ばした。お湯を出し、桶で受けて身体の泡を流していく。


『今時シャワーがないなんて』と奏斗はぼやいていたが、志摩も、どうせ改築するならシャワーをつければよかったのに、とは思う。まあ、予算の関係もあったのかもしれない。祖母は年金暮らしだ。


 さて、次は頭を洗おう、と桶に湯を溜めていると。


 ごぼり、と。

 やはり重く湿気た音がした。


 自然に目が排水溝に向かう。


 するする、と。

 志摩が流した泡や湯が排水溝に向かって流れ落ちていく。溜まることはない。


 だが。

 ごぼごぼ、と。


 どうにも奇妙な音を鳴らすのだ。


 排水溝は、トラップカバーと呼ばれる蓋がついているものだ。


 その蓋を開けると、ヘアキャッチャーと言うあみかごのようなものが出てくる。それを外すと、排水筒があるタイプだった。


 厨子の祝宴をするためにこの家に来た時、志摩は一応トラップカバーを外して掃除をしたから覚えている。


(おかしいな……)


 首を傾げながらも、シャワーチェアーごとカランに近づき、桶に湯を溜めて髪にかけた。


 ざばり、と湯は髪を濡らし、首を伝って背に流れる。

 二回、三回、と続けて髪をゆすぎ、目を閉じたまま、桶を床に置く。


(シャンプー)


 記憶を頼りに手を伸ばす。確か、カランの左端に置いていたはずだ。


 シャンプーの容器は丸くずんぐりとしており、トリートメントの容器は、細くて長い。見なくても手で触ればわかるようになっていた。


 いつもと勝手が違い、なかなか指がシャンプーの容器に触れない。


(……あれ。どこだっけ)


 目を閉じたまま、手が宙を泳ぐ。


 不意に。 

 がっしりとその手を握られた。


 冷たさに。

 力の強さに。

 志摩は悲鳴を上げる。


 咄嗟に目を開こうとした。


 だが。

 瞼の裏を。


 いや、目を閉じたままの視界に。


 いくつもの写真のようなものが映りこんでくる。


 一枚、一枚のそれは、短く切り替わった。スライド映写に似ている。

 脈絡も、音も、なにもない。映っている人物も、すべて違う。


(これは、なに……?)


 古びた木綿の着物を着た男たちに組み伏せられ、泣いている女性。

 破れた障子の枠に必死に取りすがっているのに、下卑た笑みを浮かべた男たちに引きはがされそうになっている女性。

 雨の中、半裸で飛び出した女性を追いかける数人の男たち。

 うつろな目で天井を眺める女性に覆いかぶさってうごめく男性。


 そのどれもが、時代錯誤な着物と、お世辞にも衛生的だとは思えない場所だった。


 そして。

 直接的描写はないが。


 いずれの女性も、自分の意志とは関係なく、男性に性的関係を迫られている。


「………ぐ……っ……」


 突如、村上との記憶がフラッシュバックした。


 押し倒された時の衝撃や、身体中をまさぐられた指の感覚。塞がれた唇の感触に、胃の内容物が一気にせりあがる。そのまま吐き出しそうで、桶を放り出して口を押えた。


 反射的に目を開く。


 だが。

 当然、そこには何もない。


 目の前には、湯気に煙る横長の鏡があった。


 おぼろな鏡の奥で。

 口元を覆って身を竦ませ、毛先から湯のしずくを落としている志摩の姿が映っているだけだった。


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