第11話 間延びした声

□□□□


 勝手口の開く、がらり、という音に、志摩は目をまたたかせた。


 随分とぼんやりしていたらしい。


 式台に座ったまま、顔を上げる。不機嫌な狼の唸り声に似た雷鳴のあと、すぐに光線が玄関扉の磨りガラスを通って土間を白く照らした。


 どおん、と空気を振るわせて雷が落ちる。近い。

 再び雷鳴が光線を伴って唸る。どおん、と鉄槌のような雷を山のどこかに落とした。


「雨が止んだと思ったら、今度は雷かよ」


 勝手口の方から奏斗がバスタオルを頭に被ってやって来た。どこから探り出してきたのか、今は藍色の単衣をまとって、適当に帯を結んでいる。昨日の寝間着よりは裾や袖丈が合っているが、着崩しているため、相変わらず鎖骨から胸辺りが結構見えている。


 不思議だと志摩はぼんやり思った。

 男性の肌がTⅤや投稿動画に映るだけでも嫌悪感を抱いていたのに。


 奏斗は違う。

 吐き気もしないし、心の中に憎悪や恐怖も生まれない。


(見慣れたから……かな)


 〝厨子の祝宴〟からこちら、奏斗は服を着崩すことが多く、こうやって肌を見ることも多い。自分の中で耐性ができたのだろうか。


 あるいは。

 村上とのことは、過去のことと忘れることができ始めているのか。


「次、風呂行けよ」


 顎でしゃくり、それから志摩の隣にどっかと座った。うん、と首を縦に振ると、まだ湿気たままの髪が頬に張り付いた。


「羽村のおじさんと、安室のおじいちゃん。大丈夫かな」

 奏斗に聞いても仕方が無いことを尋ねてしまう。


「さあな。ふたりとも、まあ。意識はあったんだし」


 だが、律儀に奏斗が口を開いた。

 わしわしと髪をタオルで拭き上げる。


 羽村昭については、救急車に乗せられるまで志摩も一緒にいたので、彼の明瞭な意識については自分自身確認している。強烈な痛みに呼吸は荒々しかったが、それでも救急隊員に自分で受け答えをしていた。


 安室善治については、人づてでしかないが、駆けつけた警察官によって心肺蘇生法が施され、その後、救急車によって緊急搬送されている。


 というのも、安室は羽村家に来るまでに、事故を起こしたらしい。


 路面に流れる雨にタイヤをとられ、ハンドルを切り損ねたようだ。大きな音で近所の人が駆けつけた頃には、軽トラは横転し、運転席側が側溝にはまっていた。警察と消防に連絡をし、大雨の中、村人が幾人もかけつけて軽トラを引き戻し、運転席から安室善治を引き出したときには心肺停止の状態だった。


 もう、だめなのでは、と誰もがあきらめたのだが、警官がすぐに始めた心肺蘇生法により、心音も呼吸も戻ったようだ。


「こんな小さな村で、立て続けに二台も救急車が来るなんてなぁ」


 奏斗の呟きが土間に染み入る。本当にそうだ。


「あ」


 続いて奏斗が声を上げ、袂を探る。どうやらバイブにしていたスマホが着信を告げたらしい。


「昇人からだ」

「しょーと?」


 首を傾げると、奏斗がスマホのパネルを見せる。そこには確かに、ひらがなで〝しょうと〟と表記されていた。


「覚えてねえ? 小さい頃、一緒に遊んだじゃん」


 言われても、どの子だろうと首を傾げる。奏斗以外親族ではなかったので、その後交流は途絶えている。顔も朧だ。


「もしもし。なに?」


 スワイプして耳に当てた奏斗が尋ねる。


「お前、今どこ!?」


 隣に居る志摩にもはっきりと聞き取れるぐらいの大声だ。だがなにより、焦りに満ちていて、奏斗も志摩も自然に表情が強ばる。


「え。村だけど。谷合地区の。ほら、言ったじゃん。今、〝厨子の祝宴〟で……」


「それ、昨日で終わったんだろ!? なんで村に残ってんだよ!」


 昇人の声に混じり、「マジか」「なにやってんだか、あいつ」「いるって、村に」と、いくつもの声が聞こえてくる。


「いろいろあって……。ってか、なんだよ。消防団、人たりねぇの?」

 不審げに奏斗が尋ねると、語尾にかぶせてくる。


「崖崩れが起ってんだよ! 村とこっちをつなぐ道が塞がれてる!」


 奏斗と志摩は、唖然と顔を見合わせる。

 その間も、昇人は興奮した声でまくしたてた。


「今、消防団の呼び出しがあって来てみたら……。お前、いねえし。とんでもねぇぞ、これ! 消防や警察なんかでどうにかなるもんじゃねえ」


 吐き捨てるような声に、「雨もすげえな」「いつ止むんだよ。誰かスマホ! 雨雲レーダーどうなってる⁉」と焦れたような声が幾重にも続く。


柴内重機しばうちじゅうきは?」


 尋ねた奏斗の声にかぶさるのは。


「お前ぇぇぇぇ。本当にぃぃぃぃぃぃぃ。なんでぇぇぇぇ。村にぃぃぃぃぃ?」


 音程が崩れ、間延びした昇人の声だった。


「村のぉぉぉぉぉぉぉぉぉ。中にぃぃぃぃぃぃ」


 昇人の、いや、昇人の声真似をしたような何かはまだ続けた。


「お前ぇぇぇぇはぁああああああ、なぜぇぇぇぇぇぇ」


 咄嗟に、奏斗が通話を切った。

 同時に。

 低い警報音が村中に響き渡る。


 防災無線だ。


 弾かれたように志摩は立ち上がり、クロックスをひっかけたまま、磨りガラスの玄関扉に向かう。その間も、うううううううううう、と不機嫌な狼の唸り声のような警報音が続いていた。


 視界の隅に、茫然と立ち尽くす奏斗の姿が映る。

 志摩は一気に玄関扉を開いた。


 がらり、と。

 磨りガラスを揺らしながら開いた玄関扉。


 湿気を伴って生ぬるい風が志摩を取り囲み、咄嗟に目を細めた。その視界の中に。


 女がいた。

 ふたり。


 びくり、と肩が震えたのは、女たちが黒い影のように見えたからだ。


 まだ汗が噴き出るほどの気温だというのに、真っ黒な着物を着ている。異常に背が高い女と、小柄な女。背の高い女は、まるで枯れ木のように細かった。


 たじろいだ志摩は、一歩後退する。

 女たちはそろって、項垂れたように俯いていた。


 そのせいで、腰まである長髪に顔を覆われ、表情は伺いしれない。


(……誰)


 鼓動を宥めるように、胸を上から押しつける。


 この悪天候の中。

 どうして立ち尽くしているのだ。


 うううううううううう、と再びサイレンが鳴る。


 背の高い女はその音に気づいたように顔を上げた。ぞろり、と長髪が左右に動く。雷光のように白い顔だ。落ちくぼんだ眼窩。ほぼ、黒目だけのような目。


 ううううううううううう、と鳴る。鳴り続けるサイレン。


 女はわずかに首を右に傾げ、頬をつり上げるように嗤った。


 たまらず、志摩はその場に尻餅をつく。


「志摩⁉」


 呼びかけられ、反射的に振り返る。式台から立ち上がり、奏斗が驚いて自分を見ている。


「……い、今……」

 志摩は慌てて立ち上がり、前を向く。


 そこには。

 もう、誰も居ない。


 サイレンさえ止まり、マイクが耳障りなハウリングを響かせた。


「役場より、大切なお知らせをお伝えします。午前十一時三十分現在、気象庁より、地区内に災害警戒レベル4が発出されました。避難に時間を要する方は、すみやかに移動を開始してください。また、谷合地区については、土砂崩れにより一部道路が寸断されています」


 奏斗に腕を掴まれて立たされ、防災無線に耳を澄ます。やはり、外部との唯一の道路が土砂により断たれているらしい。


「雨は小康状態になっていますが、今後も強く降ることが予想されます。二階への移動と、備蓄品の確認をお願いします。河川も一部氾濫している箇所があります。用水路や田畑には絶対に近づかないようにお願いします。繰り返します」


 防災無線を聞き終えた奏斗は小さく舌打ちし、ぴしゃりと玄関扉を閉める。


 志摩の手を引いて式台に座らせると、通話の切れたスマホを片手に、がりがりと首の後ろを掻いた。


「かなり大規模に土砂崩れが発生しているな……。柴内重機が入ったとしても、数日かかるだろ」


「そんなに大掛かりなの? 自衛隊とか手伝いに来てくれるかな」

 口から洩れた語尾が、不安で揺れた。


「知事からの申請が取れるかどうかじゃねぇかな。道は寸断されてるけど、人的被害はまだないからな。……どうかわからんぞ」


「だって、このままじゃ、食料とか……。それこそ、病人が出たらどうするの?」


「ヘリ飛ばすだろう。あれは、消防だろうし。民間機借り上げて、食料を上から放る手もあるしなぁ」


 奏斗は大ため息をつき、志摩の隣に再びどっかりと座った。風呂を使った後だからだろう。ふわり、とボディソープの香りが鼻腔をかすめる。


「幸か不幸か、電気がやられてないから、まあ、一安心だな。祝宴の料理だの食材だの、山ほどあるし」


 ああ、そうか、と志摩は黙ってうなずく。この家にいる限り、数日は食料と飲料の心配はない。


「周辺、畑ばっかりだから、食料に困っても、なんか貰おう。井戸水ひいてるところも多いから水が止まってもいけるだろ。ガスもプロパンだし。よく考えれば、道がふさがれただけだ」


 奏斗が、にっと笑うから、志摩もつられて笑う。

 笑ってから、慌てた。


「違う違う。奏斗くんが帰れないじゃない!」


「別におれは、道が開通するまでここにいればいいから。ってか、お前だよ。おばさんに連絡しておけよ。絶対心配してるから」


「奏斗くんもよ。おじさんたちに連絡して!」


 手を後ろに付き、ぶらぶらと足を揺すらせていた奏斗がきょとんと志摩を見た。


「おれ? んなもん、昇人たちが、尾ひれはひれつけて親父や兄貴たちに言ってるって」


 言った途端、また、奏斗のスマホが鳴った。


 一瞬、奏斗も志摩も身体が強張ったのは。

 さっきの昇人との通話があったからだ。


 あの、奇妙に間延びした声。意味の取れない言葉。


「……なに?」


 意を決して通話を取った途端、奏斗の口がへの字に曲がる。

 声が入らないように通話口を押さえ、志摩に向かって、『おやじ』と小さく伝えた。


 よかった、と志摩はうなずく。

 普通に通話がつなかがったこともそうだが、やはりご両親も奏斗が心配だったに違いない。

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