第10話 竹藪から現れたもの

「あら、志摩ちゃん。どうしたの。婦人会長さんにお礼した?」


 何か食べていたのか、美津子は口元をもぐもぐと動かせながら、小走りに近寄ってくる。


「安室のおじいちゃん、来てません?」


 随分とのんびりな様子に拍子抜けすると共に、先回りできたことにほっとする。


「やだもう、奏斗ちゃん。あんた、ずぶ濡れじゃない。タオルタオル」


 遅れて入ってきた奏斗を見て、美津子が顔をしかめ、再び奥に戻ろうとした。


「そんなのどうでもいいんだって。じじぃがこっちに向かってんだよ、厨子の件で」


 ぶっきらぼうに放った奏斗の言葉に、美津子は心底嫌そうな顔で動きを止める。


「ええぇ。もう……あんたたち、安室さんに何を言ったのよ」


「何もクソもねぇよ。言われたとおりのことを言ったんだよ。そしたら、じじぃが怒り狂って、おっさんに直談判する、って」


 したたり落ちる雨粒を肩口で奏斗は拭った。首元にかけたタオルもすでにべたべただ。用をなしていない。


「やだ。お父さんが裏の竹藪から帰ってこないのそのせい? こんな雨なのにいつまで作業してるんだろう、って思ってたのよ。えー……」


 美津子は志摩と奏斗の間を割ってたたきに降り、つっかけを引っかける。


 がらり、と横引き戸を開くと、細かい雨粒が風に乗って顔といわず身体中に吹き付けてきた。まるでミストだ。昼間だというのに、屋外は灰色で光がない。この地区だけ薄闇のヴェールが囲んだように感じた。


「おじさん、山に入っているんですか?」

 志摩が美津子に尋ねる。


 羽村家の南側は山肌が広がっていた。


 山に入って直ぐのところは竹藪が続き、春先には収穫したタケノコをJAに卸していた。竹藪の整備は冬場が多いと聞くが、昭は趣味で竹細工をしている。その素材を調達しに行ったのだろうか。


 志摩達は、美津子を先頭に、家を出て裏手にある倉庫に足早に向かった。それだけでもう、全身ずぶ濡れだ。


「ほら、あんたたち、これ使いなさい」


 美津子は、シャッターを上げたままの倉庫から傘を数本取りだし、押しつけるように志摩と奏斗に渡した。本人も素早く傘を開く。雨だけで風がないのが幸いだが、それでも音がすごい。ばちばちと猛烈な勢いで打ち付けて来る。志摩も傘を差すが、雨音に一気に囲まれ、思わず両手で柄を握りしめた。


「お父さん! おとーさーん!」

 美津子が倉庫を出て山に向かって歩いて行く。


 雨飛沫で白く煙る中、いつも作業のために入る整備された山道が志摩にも見えた。

なだからに、ゆるやかに山にむかっている。


 頂上に行くにつれ、雨雲が竹藪の上にも垂れ込め、灰色がかって見える。山の中に竹が浸食しはじめた山だ。


 だが、美津子が呼びかける辺りは、きれいに竹が整備されていた。


 時折、地面に広がる茶色い笹葉の下から、竹の切り株が覗いている。いずれの株も低く、横一直線に切られているが、地形のせいなのか、時折、斜めに切り捨てられ、尖った先端を葉の中から覗かせているものもあった。


「おお! 凄い雨だな!」


 呼び声に応じるように、竹藪から姿を現したのは、作業着姿の昭だ。


 汗拭き用の手ぬぐいを頭から被って、手ひさしを作りながら斜面からこちらを見下ろしている。そのあたりはまだ竹が葉を茂らせているから雨の勢いも弱いらしい。


「安室のおじいちゃん、そっちに来た?」

 見上げながら美津子が声を張る。


「見てないが……。こんな雨の中、どうした」


 語尾の問いかけは、美津子というより、志摩と奏斗に向けられている。


「あの厨子の……」


 奏斗が答えるが。


 ふ、と。

 竹が広げる枝と枝の間から。


 雨雫ではなく。

 闇が滑り落ちて来た。


「え?」

 思わず志摩は呟く。


「な……?」

 奏斗も唖然としていた。


 ずるり、と。

 本当にいきなりその闇は葉陰から伝い降りると、細長く幾度も伸びあがりながら昭の背後に立った。


「ん?」


 やにわに、昭が振り返った。


 雨で視界が悪かったが、志摩の目にはどう見ても、「背後から声をかけられ、驚いて振り返った」ように見えた。


 同時に。

 志摩の瞳は捉える。


 細く細く、陽炎のような黒い影。


 その腕が。

 いきなり昭を突き飛ばしたのを。


 続き。

 どん、と。

 昭の上半身がのけぞる。


 その後、昭は斜面を背中から勢いよく転がっていった。


「お父さん!」


 美津子が素っ頓狂な声を上げるが。

 それはすぐに昭の悲鳴にかき消される。


「おっさん!」


 一番に反応したのは、奏斗だ。


 傘を投げ捨て、山裾まで転がり落ちた昭に駆け寄る。ぬかるみを奏斗の放った傘が跳ねた。雨飛沫が視界を白く染める。


 白と黒と灰色と。

 色彩の乏しいその中で。

 昭の右肩部分が、深紅だ。


「お父さん!」


 美津子が口元を手で塞ぐ。だが、叫び声は喉を迸り、掌を通して豪雨の中、響き渡った。


 体勢を崩して転倒し、雨の中滑り落ちた昭。


 いま、仰向けに身体を横たえ、苦悶に顔を歪ませている彼は、右肩を竹株に貫かれていた。


 転倒した場所が悪かった。ちょうど斜めに切り落とした竹株があったようだ。


 奏斗が直ぐ側で救護を試みようとしているが、志摩の目からも、あの株は容易に抜けないであろうことは確かだ。ずっぷり、と先端が背中から右肩関節を貫き、切っ先を覗かせている。


 救助しようとする奏斗。痛みのために断続的にうめき声をあげる昭。


 それを。

 あの黒い影が見下ろしていた。


「志摩!」


 大声で呼びかけられ、悲鳴を上げた。瞬く間に、さっきまで見えていた黒い影は霧散している。


「しっかりしろ! 救急車呼べ!」


 奏斗に怒鳴られ、がくがくと首を縦に振った。急いでお尻のポケットからスマホを取り出したものの、即座に画面が雨で濡れる。指を這わすが、パネルが反応しない。


 よろよろと一旦、倉庫に戻り、服にこすりつけるようにして水滴を飛ばす。軒先で画面を再度タップした。今度は反応したようだ。


「か、奏斗くんっ! 119だっけ、110だっけ!?」

 震えながら、思わず叫んだ。


「119! おばちゃん! 泣いてねぇで、竹鋸、倉庫から持って来て! 竹株を切ってから、おっさんを運ぶ!」


 奏斗の指示の元、美津子はようやく、よろよろと動き始めた。


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