第8話 六家の判断
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婦人会長の安室の家を訪れたのは、次の日の朝、十時ちょうどだった。
奏斗の運転する軽トラを降りた時、我慢しきれなかったように、空からとうとう雨が降り出した。
ぽつり、と肩口に雨粒が落ち、シミを作る。
天を見上げると、低く垂れこめた灰色の雲から滴り落ちる大粒の雨に、頬を打たれた。
「走ろう」
背を奏斗に押され、志摩は頷いて熨斗の巻かれた酒瓶を持って駆けた。
奏斗とふたり、まるで寺院のような門をくぐる。
そこから飛び石を伝って、開けっ放しの玄関に一目散に向かった。
「ごめんください」
網戸になっている扉の前で訪いを告げる。隣にいる奏斗が、肩口で汗とも雨ともつかぬものを拭っていた。
「はあい。あら、志摩ちゃん」
ぱたぱたとスリッパの音を立てて出てきたのは、婦人会長の安室まち子だ。
「雨降ってきたでしょう。その網戸、押したら開くから。入って、入って」
言う傍から奏斗は網戸をおし開き、さっさと中に足を踏み入れる。慌てて志摩も後に続いた。
「昨日はお疲れさまでした」
上がり框に膝をつき、まち子が頭を下げるから、急いで志摩も礼を述べる。
「こちらこそ、お世話になりました。こちらをどうぞ、お納めください」
熨斗の巻かれた清酒を差し出すと、「あらあら」と大げさに声を上げる。ちらりと奏斗に視線を向けると、ぶっきらぼうに袱紗を突き出してきた。
志摩はそれを受け取り、お礼を包んだのし袋をそっと置く。
「本当にありがとうございました。母からもよろしく、と」
「まあ、気にしなくてもいいのよ」
眉をひそめてまち子は言うが、清酒と共に受け取るからほっとする。やはり、羽村の言う通りにして正解だった。
「おう、来とったのか」
突如背後からしわがれた声が聞こえて、ふたりして振り返る。
濡れた帽子を払いながら入ってきたのは、高齢の男性だ。作業着に地下足袋姿。農作業中に雨に降られた、というところだろう。
安室まち子の舅、
「志摩ちゃん、昨日はお疲れさん」
顔をしわだらけにして笑うので、ぺこりと志摩は頭を下げた。
「こちらこそ。至らぬ点が多々あったと思いますが……」
「おいおい。随分と大人になったなぁ、そんなこと言うようになったか。おい、見習えよ、かな坊」
「その呼び方よせ」
じろりと奏斗は睨むが、ばちり、と善治に肩を叩かれる。その仕草に遠慮がない。
「いってえ!」
「いつまで経ってもガキ臭ぇから、名前で呼ばれねえんだよ! ったく、なりばっかりでかくなりやがって。お前、昨日 七塚に泊まったんだって?」
身長差など二十センチはあるだろうに、善治はじろりと奏斗を睨み上げる。
「なんで知ってんだよっ。あ。羽村のおっさんだろ」
「てめぇ、変なことをしてねえだろうな、志摩ちゃんに」
「してねえよ。ってか、なんでおれが、手を出す前提なんだよっ」
「お前、見境ないからな」
「猿か、おれは!」
「猿の方がまだ分別あるわ。お前、学生時代は、とっかえひっかえ……」
「……まあ、女が切れなかったのは認める」
「来るもの拒まずだったからな、お前。おい、志摩ちゃん」
奏斗には吐き捨てたものの、打って変わって善治は好々爺の風情で志摩に笑みかけた。
「なんか困ったことがあれば、いつでも相談においでよ。かな坊が悪さした時もな。こいつには責任取らせるから」
思わず吹き出すと、まち子まであきれて笑った。
「あの……。相談、というわけではないのですが」
ふと思い立って、志摩は口を開く。
「お厨子のことなんです」
切り出した後、ちらりと奏斗を見る。
大きく頷いてくれたところをみると、彼も相談した方がいい、というところなのだろう。
今朝、朝食の準備を奏斗としていると、母親の千夏から電話がかかってきたのだ。
『お厨子を止めた、ってどういうこと?』
開口一番そう尋ねてくる。
そこで、志摩は羽村の戸主である昭が提案した、『七塚の家にお厨子を安置し、四年に一度、六軒の家が金を出して祝宴をする』という案を説明したのだが。
『……そんなの、うちと羽村だけで決められないし……』
母の声は明らかに戸惑っていた。それはそうだと志摩も思う。
『それに、他の家はなんて言っているのかしら。おばあちゃんから何も聞いてないんだけど、うち以外はそれで納得しているの?』
七塚家の当主は眞砂だ。
志摩の祖母であり、千夏の母である彼女は、現在脳梗塞で入院している。
庭で草むしりをしている最中に倒れたらしく、近所の人が救急車を呼び、街中の総合病院に入院した。
それが一か月前だ。
その後、祖母の意識は回復していない。
『とりあえず、他の家の意見を聞いてみて』
母に言われ、手始めに婦人会長であり、厨子の当番家でもある安室家に尋ねようと志摩は考えていた。
「……ひょっとして、羽村さん、なんか言ってた?」
ため息交じりにまち子が言葉を吐き出す。
背後で、勢いよく降り出した雨が屋根を打つ音が騒がしい。
「なんでぇ、まち子さん。なんか知ってるのか」
真っ白な眉を寄せて善治が訝かしむ。
「なんかねぇ、お厨子を七塚の家に止めておいて、回すのはもうやめよう、って。安置する形にしたいらしくて」
ふくよかな頬を両手で包み、まち子は眉を下げる。
「それで、四年に一度、六軒でお金を出し合って祝宴をしたらどうだろう、って。うちにも来たんですよ、お
困惑しているところを見ると、安室家は羽村の提案を断ったのだろう。
「佐々木家も、加賀家も納得しているらしくて……」
言われて驚く。
では、同意していないのは、安室と七塚、田淵ということだ。
「なにをバカなことを……っ!」
善治が怒声を上げ、その語尾に雷の不穏な音が飾る。どおおおん、と。不穏な音が響いた。
「志摩ちゃん、それで、お厨子さまは、今どこだっ」
血相を変えて善治が詰め寄る。
「じじぃ、落ち着けよ」
慌てて奏斗が割って入る。
「落ち着けるかっ! 七塚の家にあるのか!?」
「え、ええ……。羽村のおじさんが、とりあえず置いておいてくれ、と」
「あの、クソガキがっ」
善治は帽子をかぶりなおすと、玄関を飛び出す。
「じじぃ!」
奏斗が呼びかけるが、彼は雨しぶきで白く煙る中を門に向かって走っている。
「やだ、もう。お舅さん! ひょっとして羽村の家に怒鳴りこみに行くんじゃないでしょうね!」
まち子がオロオロと家の奥に向かって声を放つ。
「あなた! お舅さんを止めて! あなたっ」
家の奥に行きかけたまち子だが、はたと気づいて振り返る。
「奏斗ちゃん、志摩ちゃん。悪いけど羽村の家に行って、お舅さんを止めて!」
その語尾に、車のエンジン音が重なった。どうやら本気で羽村の家に向かうつもりらしい。
「ったくもう、あのじじぃめ。イノシシかよ」
舌打ちしながらも外へと足を向ける奏斗に志摩が続く。
「お前はここにいろ」
奏斗はそう言ったが、志摩が驚いたように首を横に振るのを見て逡巡したようだ。
確かに、あまりよく知らない家にひとりでいるのは心細いうえに気まずいだろう。おまけに、家を飛び出した理由は志摩の発言だ。そう判断したらしい。
「……来い。軽トラまで走るぞ」
言うなり、奏斗は志摩の腕を掴んで走り出す。志摩も必死に足を動かし、雨の中、飛び出した。
礫のような水滴が首と言わず腕と言わず、全身を打った。最早、痛みさえ感じる。一気に身体が冷えた。
視界は悪く、目を開けているのも困難で、志摩は奏斗に引かれるまま、門を抜けて路肩に止めたままの軽トラに近づいた。
奏斗が志摩の腕を引っ張って助手席側に移動する。
扉を開けるや否や、どんと背中を押して中に突っ込まれた。
「うわっ!」
上半身から転げ込むように中に入ると、奏斗が運転席側に回り、勢いよくシートに座る。わずかに傾いだ軽トラに、志摩も必死に座り込み、シートベルトを左手で探りながら、右手で張り付く前髪をかき上げた。
「拭け」
奏斗がタオルを投げてよこす。なんとなく戸惑っていると、舌打ちされた。
「きれいだって。ちゃんと洗ったやつを入れてるんだ、軽トラに」
「だったら、奏斗くんが先に使ってよ。奏斗くんのだし」
申し訳なく思って突き返したのに、じろりと睨まれた。
「透けてんだよ。雨に濡れて、Tシャツ」
「さ、さいてー……」
慌ててTシャツの上から、ばしばしとタオルを押し付け、水気を拭きとる。
「別にまじまじ見てねぇだろ。正直に言って、『こうしたらどうだ』と提案したのに、その言い方」
ぶつぶつと奏斗は言い、シートベルトを閉めてエンジンをかける。一気にエアコンから冷気が噴き出した。どこかガソリン臭いにおいがするからひやりとしたが、草刈り機を先日助手席に乗せたかららしい。
足元をみやると、スパナや、なんの工具かわからないものも転がっている。
(まあ、……確かに。指摘されただけだし……。なんなら奏斗くんのタイプじゃないみたいだし、私)
耳まで熱くしながら、志摩は思う。
今だって、奏斗はこちらを見ようともしない。
タオルであらかた水気をふき取り、後はTシャツを指でつまんで、ばおばおと、風を送り込んで乾かすことにした。
「ん。……ありがと」
タオルを突き出すと、奏斗は手だけ伸ばして受け取り、自分の首にかける。彼の髪の毛も、シャワーを浴びたようにずぶ濡れだ。
「んじゃ、動かすぞ。シートベルトしめろ」
「了解」
志摩がシートベルトを装着するのを確認し、奏斗は軽トラのアクセルを踏む。
じゃり、とタイヤが何かを踏んだ音がして若干持ち上がるが、その後はなんなく動き始めた。
「すげえ雨だな。視界悪ぃ……」
呻く奏斗の視線を追い、志摩も頷く。
まるで軽トラの屋根からホースで水を流されているようだ。ワイパーが必死に水気を飛ばしている。
「じじぃ、大丈夫かな」
ワイパー越しに視界を確保しながら、奏斗は慎重に軽トラを運転させた。ぽつり、呟く奏斗の声は、ともすれば雨音に消えそうだ。
フロントガラスを打つ雨粒は白い飛沫になっているが、それは地面も同じだ。舗装されていない道路は雨を吸収することも出来ず、ただただ、側溝に向かって流れている。あっという間に浅瀬にいるような気配だ。
ぴこん、とスマホが通知音を鳴らす。志摩は奏斗に断りを入れ、デニムパンツの尻ポケットに入れていたスマホを引き出し、画面をタップした。
「あ」
「どうした?」
慎重にアクセルを踏む奏斗が声だけ投げつける。
「警報発令したみたい」
「だろうなぁ」
奏斗は溜息をつく。
「消防団の招集、かかってんだろうなあ……。
独りごちる奏斗は、速度を調整しながら、村の南端へと軽トラを走らせる。
途中見た田んぼは、どこが畦で、どこが田なのかわからないほど水没している。後は刈り取るだけの金色の稲が大量の雨に一斉に項垂れていた。
「田んぼ、水が溢れてるよ」
窓ガラスに張り付き、思わず志摩が声を上げる。
「大丈夫。ここらの田んぼは、貯水にもなってんだ。一気に水が流れて側溝が溢れないように、田んぼから田んぼに水が流れるようになってる」
言われてみれば、畦や農道を越えて水が田んぼから田んぼへゆっくりと移動していた。簡易的なため池のように見えた。
なるほどと妙に感心した。
これも昔ながらの知恵なのだろう。ため池や排水溝を整備するよりは断然安く上がる。
「ただ、米がこれ……。ダメだな。辛ぇよな。あとは刈り取るだけなのに」
ぎゅ、と。ハンドルを握る手に奏斗が力を込めたような気がした。種類は違えど農家としての思いは一緒なのだろう。どうしても自然災害に左右される。農家の宿命だ。
「なあ」
呼びかけられ、顔を向ける。
「なに?」
「嫌なこと言うけどさ」
「……なに?」
警戒して肩を強張らせる。またTシャツが透けているとかなにか言うのだろうか。
だが、奏斗はフロントガラスに視線を固定したまま硬い声で尋ねた。
「じじぃの車、見たか?」
「……ううん」
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