第7話 音の出処

「おれ……。床の間に置いたよな?」


 奏斗は訝かし気に問う。


 その声音には、志摩のように恐怖や怯えは見当たらなかった。

 ただただ、不思議であり、怪訝であり、納得がいかない。


 彼はそんな顔をしている。

 自分のように。


 、と想像もしていない。


 ぎゅ、と。

 知らずに志摩は奏斗の腕にしがみつく。

 そのまま、厨子を見た。


 たわんでいる。


 扉だ。

 金の金具で閉じられた扉。


 そこが、たわんでいる。


 その事実に、一気に鳥肌だった。

 正面の観音扉が膨らんでいるのだ。

 まるで、内部から押したように。


 きし、きし、きし、きし、きし。


 あの音。

 今はもう聞こえないあの音。


 あれは。

 厨子の扉を内側から押した音なのではないか。


「……大丈夫だ」


 ぽんぽん、と頭を撫でられ、志摩は顔を上げる。

 気づけば、がちがちと歯を鳴らしていた。

 震えが止められない。


「おれが片付けて来る。待ってろ」


 そっと腕を解くと、奏斗はなんでもないように厨子を持ち上げる。


 一瞬、びくり、と志摩は身体を震わせたが、そのまま奏斗は向かいの障子を開いた。


 闇に、光が溢れ入る。

 白い筋が畳に広がり、奏斗は厨子を持って座敷に進んだ。


「か、奏斗くん」

 姿が見えなくなると不安で名を呼ぶ。


「おう。とりあえず、床の間に……、と。よし」


 こつり、と硬質な音が聞こえてくる。安置したのだろう。


 しゅる、と畳を裸足が滑る音がした。奏斗が歩いているのだろう。近づいたと思ったら、不意に遠ざかり、志摩の心臓が不安で高鳴った。


「窓は……、開いてないみたいだな。大丈夫だ。風で家が鳴ったんだろう」

 どうやら施錠を確認したらしい。後ろ手に障子を閉め、奏斗は戻ってきた。


「寝ようぜ。起きるにはまだ早いだろ」


 奏斗は志摩を促し、寝室に戻る。どすん、と布団に胡坐をかいた。ついでに、枕元に置いていたスマホに手を伸ばし、パネルをなぞる。志摩にも画面が見えた。時刻はまだ二時。眠ってから数時間しか経っていない。


 奏斗は転がしていたペットボトルを掴み、一気に全部飲み干すと、ごろりと布団に寝転がる。


「おやすみ」

 目を閉じるので、志摩は戸惑った。


「……おやすみ」


 応じながらも、今更また、あの衝立の向こうに戻るのは怖い。

 また、人影が見えそうなのだ。


 ゆらり、と。

 黒い影がたゆたう。


 その情景が瞼から離れない。


「……ったく、仕方ねぇなあ」


 唐突に奏斗は立ち上がり、志摩に背を向けて浴衣の帯を解くから、ぎょっとした。


 一瞬、脱ぎだすのかと思ったが、単純に衣服を整えただけらしい。前合わせや帯を締めなおすと、そのままごろんと布団に転がる。


「ほれ」

 自分に対して背を向けて横になった姿勢のまま、奏斗は言う。


「怖いんなら、おれの隣で寝ろ。その代わり、いびきがうるさいとか、寝相が悪いとか言うなよ」

「……うん」


 ほっとして頷き、おずおずと彼の隣で横になる。

 奏斗が丸めたタオルケットをバトンパスのように回してきた。


「ありがとう。奏斗くんもお腹にかける?」

「いらね」


「そう。お腹冷えない?」

「お前が隣にいるから暑いんだよ」


「ごめん。ちょっとだけ離れる」

 もぞもぞと布団の端まで移動しようとしたら、きつい声で制される。


「いや、別に構わねえんだけどさ」

「あ……。そう。じゃあ」


 急いでぴとり、と奏斗の背中に自分の背中を当てた。


「……あのなあ……。そうじゃなくて」

「あ。電気どうする?」


「消すな。つけてろ」

「だよね。怖いよね……」


 うんうん、と頷き、志摩は足を抱えるようにして丸まった。

 いや、そうじゃなくてさあ、と奏斗がもごもご言っている。


「昔、こうやって昼寝したよねぇ」

「……いつのころの話だよ、それ」


「いつだろ……。まだ、お父さんと暮らしてて……。私、しばらくこの家に預けられたのよね」


 今から思うに、離婚協議のためだったような気がする。

 ちょうど夏休みで、当時の志摩は何も思わず、田舎暮らしを満喫した。


「あの頃からよく奏斗くん、私の面倒見てくれてたよね」

「ばあちゃんがうるさかったんだよ。子ども同士遊べ、って」


 志摩は笑う。

 たぶん、そうなんだろうな、と、子ども心に思いながらも、志摩は奏斗とその友人たちが遊びに来るのが楽しみだった。


 ただ、生まれた時から野山を駆けまわっている奏斗たちと、町暮らしの志摩では体力に歴然とした差があり、気づけば志摩はいつも置いてけぼりを食らって、泣いていた。


『ったく、仕方ねぇなあ』

 変声期前の声が耳をくすぐる。


 そうだ。

 昔も奏斗はそう言って、毎回自分を迎えに来てくれた。


 川の浅瀬や、トウモロコシが延々と続く畑や、山の大岩の上などで置いてけぼりを食らい、ぴいぴいと泣く志摩を見つけては連れ戻してくれていた。


 奏斗の友人たちからは『とろくさい余所者』と嫌われていた気がするが、奏斗はそこをうまく調整もつけてくれていたのだろうと、今なら思う。


 自分の知らないところで、奏斗はいろいろと調整役を引き受けてくれていたのだ。

 そのことに再度気づき、心の奥がほわりと温かい。


「おやすみ」


 背中から伝わる体温が、次第に志摩を眠気に誘った。

 奏斗の返事があったかどうかわからないほど、とろん、と志摩は眠りに落ちて行った。

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