第6話 闇が入り込む

□□□□


 志摩が再び目を覚ましたのは、ぎぃ、ぎぃ、と響き続ける音のせいだった。


(……え。なに……)


 そっと目を開く。

 開いてから、自分が眠りこけていたことに気づいた。こんなに怖い思いをして眠れるだろうかと思ったが、心配はなかったらしい。一気に飲み干したアルコールのおかげかもしれない。


 ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ。


 音はまだ続く。

 首を右に向けた。


 ぼやけた視界には、衝立が見えた。それ越しに、灯りが漏れるのは、照明をつけっぱなしにしていたからだ。


 その灯りが。

 そして、耳を澄ませば聞こえてくる奏斗の寝息が、志摩に安堵を与えた。


 目を擦り、上半身を起こす。


 ぎぃ、ぎぃ、ぎぃ。


 音は窓から聞こえる。


 目を転じた。

 やはりそうだ。


 窓のところで、黒く長い影が左右に、ゆったりと、もったりと揺れている。


 身もだえしているように黒い影は窓の側で動き、そのたびに影の欠片を周囲に散らせていた。


 ゆるり、しゅるり、と。

 影は揺れる。


(黒留袖だ……)


 ため息交じりに、前髪をかき上げる。

 また、窓から吹き込む風に、衣文かけに吊るした黒留袖が揺れているのだ。


 朝になったら、さっさと片付けよう。

 再び横になりかけ、志摩は動きを止めた。


「違う」

 同時に声を漏らした。


 黒留袖は、衣文かけごと、部屋の隅に投げうったのではなかったか。


 丸めて捨てたはずだ。

 硬直させたまま、視線を移動させる。


 ある。

 じっとりと。

 そこだけ闇が澱んだように、部屋の隅には黒留袖がくしゃくしゃに捨て置かれている。


 志摩は、息を止めて視線をそっと動かした。


 ぎい、ぎい、ぎい。


 硝子を釘で搔くような音が、まだ志摩の鼓膜を震わせている。


 では。

 あれは、なんだ。


 ゆらり、ゆらり、と。

 影が揺れる。


 窓を覆うように。


 違う。

 窓を。

 押しているのだ。


 ぎい、ぎい、ぎい、ぎい、と。


 外側から、ガラスがたわむ。

 押している。

 覗き込んでいる。


 こちらを。


 黒い。

 長い、影が。


 志摩はタオルケットを跳ね上げ、飛び出した。


 突進する。


 右肩をしたたかに衝立にぶつけた。非難がましい音をたてたが、それよりなにより、自分の心音がうるさい。


「奏斗くんっ」

「うわおぉいっ!」


 布団に横たわる奏斗にぶつかるようにして抱き着くと、びくり、と彼が身体を震わせた。


「痛ぇ。肩甲骨……。けんこう……。え。なに。ちょ。え。は?」


 背中から抱き着くような形になっているせいで、奏斗はしばらく状況が把握できないらしい。


 ぐりぐりと彼の肩甲骨に額を押し付けると、うひゃあおう、と奏斗がくすぐったそうな声を上げた。


「肩甲骨! けんこ……。うひゃひゃひゃひゃ! くすぐってぇ!!」


 げらげらと笑い、身をよじらせる奏斗に必死に抱き着く。どくどくと聞こえるのは自分の鼓動なのか、奏斗の心臓の音なのか。


 そんなことはどうでもいい。


 ただ。

 あの奇妙な音を消してさえくれれば。


「どうした?」


 笑いの発作が収まったのか、奏斗が尋ねる。ついでに、彼の腰に回した手を、ぽんぽんと叩いてくれた。


「変な夢見たか? 怖い夢か? トイレに一緒に行ってほしいのか?」


 まるで子ども扱いだ。

 ぐい、と顔ごと奏斗の背中に押し付けていたら、彼の声が震えて聞こえた。


 その振動が。声が。体温が。

 次第に志摩を落ち着かせる。


「大丈夫か?」

「うん」


 ようやく返事をし、しがみついた指から力を抜く。

 奏斗もそのことに気づいたのだろう。よいしょ、と言いながら態勢をかえた。ぐるりと仰向けになった後、寝ころんだまま、志摩と向き合う。


「夜這いなら、もう少し情緒と色気を出せよ」

「夜這いじゃないから、情緒も色気もない」


 にやりと笑う奏斗を睨みつける。


「なんか……変な音がするの。奏斗くん、一緒に確認してくれない?」

「音?」


 はだけて、最早寝間着の意味をなさない奏斗は、おざなりに前を合わせて欠伸をかみ殺していたが、さすがに目を見開いた。


「泥棒か?」

「……え。こんな田舎の家に?」


 そっち方面は考えてもいなかった。狼狽える志摩をよそに、奏斗はそっと身体を起こす。


「多いんだよ。空き家だと思ってやって来る奴。まじかよ」

 言うなり、立ち上がった。


「ばあちゃんが入院してるのは村のみんなが知ってるからな。……どこから聞こえた」

「……その窓からなんか、覗いてて……」


 志摩が指さすと、ためらいなく奏斗は衝立を超えて窓際に歩み寄る。

 その大胆さに驚くとともに、頼もしくもあった。


 同時に。

 小さな物音で怯えた自分が恥ずかしい。


(……私もしっかりしなきゃ)


 こんなだから大人の男性に見下されるのだ。甘くみられるのだ。

 ゆるゆると立ち上がり、それでもへっぴり腰で奏斗に近づく。


 奏斗はクレセント錠を跳ね上げる。ぎちり、と緑青の浮いた把手は小さな悲鳴を上げたが、奏斗は気にもせずに窓を開けた。


 途端に室内に吹き込むのは生ぬるい風。

 しかも強い。


 ぶわり、と志摩の顔をなぶり、Tシャツを膨らませて消えた。


 目を細める。


 ぬるり、と。

 窓の桟越しに、濃い闇が這い出した。


 びくり、と志摩は顔を強張らせる。

 気持ち悪い。

 そう感じると同時に。


「……どうして……?」


 耳元で何かが囁く。


 その声は、蚊の羽音のように不快感しか残さず、志摩は身体を震わせて周囲を見回した。


 なにも。

 いない。


「……いなさそうだな」


 奏斗の声に、ごくりと息を呑み込む。

 彼は上半身を乗り出して周囲を窺っていた。ぐい、と身体を戻し、また窓を閉めて鍵をかける。


「音は? どこで聞こえた?」


 いつもはワックスで固めているらしい前髪が、さらりと奏斗の目元を隠した。煩わし気にかき上げながら、尋ねられ、志摩は障子を指さす。


「座敷の方。あの……、お厨子がある。あそこからなんか音が……」

 途端に、奏斗が舌打ちする。


「あのおばさん。ちゃんと施錠したんだろうな。開いてたんじゃねえの」


 どうやら奏斗も同じことを考えたらしい。

 のしのしと廊下に面する障子に向かう。志摩もそれに続く。


 再度、周囲を見回した。

 やはり、何もいない。


(……さっきの声は気のせい?)


 不意に。

 奏斗が足を止めた。


「かな……」

「し」


 声をかけようとしたら、人差し指を立てて、黒目勝ちの瞳を向けられた。


「聞こえる」


 短く言われ、耳をそばだてた。



 きし、きし、きし、きし、きし。



 息を詰めたふたりの耳に、確かにそれは聞こえている。


「……じっとしてろ」


 奏斗は言ったが、志摩は彼の左手首を掴む。ためらったような表情を奏斗は見せたが、志摩の怯えた瞳に何も言わず、障子の桟に手をかけた。


 一気に開く。


 しゅる、と敷居を桟が滑る音がし、廊下にこごる闇があふれ出た。


 ふわり、と。

 その闇に飲まれる気がして志摩は一瞬だけ目を閉じる。


 だが。


「……え」

「どうし……て」


 同時に奏斗と志摩は呟く。


 廊下に。

 障子を開けたすぐ側。


 そこに。

 闇よりも濃い黒をまとい。


 厨子があった。

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