第5話 軋み音
「お前さ」
急に声をかけられ、驚いて奏斗を見た。
「そんな恰好してたら、ほんと、小学校の先生みたいだな」
くすり、と笑うから拍子抜けする。
そういえば、Tシャツは学校のクラスTシャツだ。運動会の時に学年団の教員同士で金を出し合って揃いのTシャツを購入した。
ハーフパンツにTシャツ。日焼け防止の長手袋にキャップをかぶり、ムカデ競争の練習を児童たちと何日も行った。
『なんだか、まだ学生みたいだなぁ。小学校の先生、っていうより、小学生みたいだ』
ふたたび蘇る村上の声が背中を撫でる。振り払うように首を横に振り、ぎこちなく笑った。
「小学校の先生、じゃなくて、小学生みたい、でしょ」
だから自分はなめられたのだ。村上に『いいようにあしらえる娘』と思われたのだ。
「そんなことねぇよ」
きょとんとした顔を奏斗は向ける。
「ちゃんと二十代前半の女だ。分別も容姿も。会った時、見違えた」
はっきりと言われ、肩から力が抜けた。
「……そ、そう?」
ほ、とした瞳を向けると、片腕を枕にした姿勢で、奏斗がにやりと笑う。
「ま。おれの好みとはちょっと違うがな。おれはもっとこう、胸のでかい女がいい」
「はいはい」
笑っていなすと、志摩は腰を屈め、丸盆を持ち上げた。ついでに、残っていた三缶目のビールを飲み干す。
「片付けてくる。ついでに歯磨きしてくるから」
「おう。おれはもう寝るから」
奏斗は言うと、タオルケットを手繰り寄せる。もう、だいぶんはだけてしまっている自分の身体を隠すように腹にかけた。
「なんかあったら起こせ」
いう間に目を閉じている。
「おやすみ」
志摩は声をかけ、空の缶ビールを載せた丸盆を持って廊下に出た。
途端にまとわりつくのは、不快な湿気だ。
障子と障子に挟まれた薄暗い廊下は、黒くつややかな光を帯びている。
その色合いが、あの厨子を思い出させた。
(……どうしようかなぁ……)
口からはため息しか出ない。
四年ごとに厨子は回さなければならない。
それなのに。
今、まだ、この七塚家にある。
約束事は破られた。
知らずに、志摩は薄墨に染まった障子を見ていた。
祝宴をしていた座敷の床の間へ、厨子は現在安置している。
この家に来た時から厨子はそこにあり、来訪者たちもその厨子に拝謁していた。
祝宴が終わり、羽村家に渡すために、床の間からおろしたに過ぎなかったのだ。
『……とりあえず、同じように飾っとくか』
羽村夫婦が帰った後、奏斗が言い、床の間に再び設置したのだった。
(明日、もう一度、羽村家に行って……)
再度交渉するしかない。
いや、その前に婦人会会長の家に行き、熨斗を巻いた酒を渡すんだったか。
羽村の家は七塚の家から見て村の南端。
婦人会長の安室家は、北側だ。
反対に位置するから、奏斗が帰る前に軽トラで送迎を頼もう。
志摩は明日の予定を考えながら廊下を抜け、式台に降りる。
置きっぱなしのクロックスに足をひっかけ、間接照明の灯る土間を炊事場に向かった。
ひたひた、と、固められた土が足音を響かせる。
現在、どこも土間はコンクリートに変えられているようだが、七塚家ではそのまま、踏みしめられた固い土だ。
じわりと立ち上る冷えが、むき出しのすねやふくらはぎにまとわりつき、志摩は足早に炊事場に入ると、白壁に手を這わせる。
昔ながらの片切スイッチを押す。じぃ、と音を立てて蛍光灯が明滅した。
一瞬。
炊事場の中央に、縦に長い黒い影が見えて、丸盆を取り落としかける。
だが。
すぐにそれが自分の影だと気づき、志摩は身体から力を抜いた。
(さっさと部屋に戻ろう)
この家は。
夜になると、いたるところから闇が屋内に侵食してくる。
こんなのは志摩のいる家ではわからなかったことだ。
手早くシンクに近づいた。
いや、シンク、などというしゃれた物じゃない。蛇口と簡易流しがついた、よく庭の隅に置かれているようなものだ。
これでも、この家では近代的な方だ。なにしろ背後には竈もまだあるのだから。
志摩は蛇口をひねって缶を水洗いして、洗い籠に伏せる。
じ、じ、じ、じ、と。
間断なく蛍光灯が低い音を立てる。
そういえば、今日は本当に蛙が鳴かない。
(風が強いからかな……)
しかし、蛙は雨が降る前に鳴くイメージがある。なぜ蛙はその口をとじているのか。
風呂の帰り道に見上げた夜空は曇天で、今にも降ってきそうな感じだったが。
志摩は、蛇口を締め、手を振って適当に水気を飛ばす。次は、洗面に向かう。
片切スイッチを押すと、途端に、煩わしい音が消えた。
同時に。
きし、きし、きし、きし、きし。
「……え?」
闇に慣れない目を何度もまばたきさせ、志摩は周囲をうかがう。
きし、きし、きし、きし、きし。
(なんの音?)
それは、軋み音に似ている。
板間を踏んだような。
木片同士がこすりあうような。
そんな音だ。
(風のせい……?)
強風でまた家のどこかが音を立てているのだろうか。
志摩は音を探りながらも、慎重に土間を歩く。
きし、きし、きし、きし、きし。
式台に足をかけた頃には、その音の出元に気づいた。
「……座敷……?」
ごくり、と空気ごと唾を飲み込む。
目の前には、閉じられた障子がある。
さっきまで祝宴を開いていた座敷。
厨子を安置した、座敷。
そこから。
きし、きし、きし、きし、きし。
音がする。
じっとりと。
内包した闇が染み出し、灰色に染まる障子。
その奥から。
音は聞こえる。
きし、きし、きし、きし、きし、と。
「……風、が入ってきているの、かな」
わざと声に出して言ってみた。
羽村美津子が縁側につながるいくつもの大戸を閉めてくれたが、ひょっとしたら少しだけどこかが開いていて、風が吹き込んでいるのかも。
それが、板間を抜けるたび。
きし、きし、きし、きし、きし。
音を立てているのだ。
きっとそうに違いない。
「……」
志摩は障子の桟に指をかけ、そっと開く。
確かめようと思った。
この不安を消すにはそれしかない。
目で見て確認するのだ。
音の出所を。
志摩は、わずか十センチほどの隙間からとろけだす闇に眼を凝らす。
室内は漆黒に沈んでいた。
襖は取り外したままだ。
もう祝宴の匂いは消えていた。
料理も、煙草も、酒の香りもない。
闇に沈み、沈黙のおりた三間向こうの床の前に飾る厨子など見えようがない。
だが。
きし、きし、きし、きし、きし、きし、きし、きし。
音は、確実にこの座敷から聞こえて来た。
きし、きし、きし、
きぃ。
志摩は、障子を開けたまま、廊下を駆ける。
きぃ、と。
何かが開く音がした。
いや。
開こうとしていた。
志摩は、ぼやり、と明るい奏斗のいる部屋に飛び込んだ。
同時に開いた障子をすぐに閉める。
ぴしゃん、と甲高い音をたてて障子を閉めたが、奏斗は起きるそぶりはない。
息を殺す。
せわしなく口から飛び出しそうになる呼気を、必死に制した。
相反して。
電気も冷房もつけっぱなしで、彼は、穏やかな顔のまま、くうくう、と寝息を立てている。
「……は……っ」
彼の寝顔を見て、なんだか脱力した。
四つ這いで畳をずりずりと進み、衝立を超えて、また身体が竦む。
ばさり、と。
窓際で大きな鴉が羽ばたいた。
羽根を広げた。
いや。
黒留袖が、大きく揺れたのだ。
闇が舞う。残滓が宙に墨のようなヴェールを広げた。
志摩は立ち上がり、鷲掴む。
そのまま衣文かけごと床に叩きつけた。
荒い息で肩が上下するまま、ぐるぐると黒留袖を巻き取り、部屋の隅に押しやる。視界から消した。
そのまま。
志摩は布団に潜り込んだ。
タオルケットを頭からかぶり、ぎゅ、と目を閉じる。
一瞬、室内照明を消していないことを思いだしたが、むしろ闇が怖い。
それは。
たやすく家に入り込み、志摩の心に忍び込む。
つけっぱなしでも差し支えあるまい。現に、奏斗は寝ているのだから。
志摩は頭の中で羊の数を数えながら、早く眠気が来るように、と祈った。
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