第4話 たゆたう女
志摩は若干の気味悪さを覚えながら、スマホを手に、そそくさと奏斗の側に戻った。
「家族のグループLINEN、めっちゃ動いてる」
LINENはスマホの無料アプリだ。登録すればユーザー同士で通話やメッセージの送信、写真のやり取りができる。
「さすが女子。家族でグループとか組むんだ」
ぽすん、と布団の端に座ると、奏斗が首をねじってそんなことを言ってくる。
「私はもう〝女子〟って年齢じゃないけど。義妹がほら。まだ、大学生だから……」
家族でLINENのグループを組もう、という話になったのは、義妹の泉水が中学生になり、スマホを持ってからだった気がする。
志摩とは違い、交友関係の派手な泉水はたびたび夜遅くに帰宅し、両親を心配させた。
小学校の高学年になった途端、スマホが欲しい欲しい、とねだる泉水に、両親は「中学生になったら持たせてあげる。そのかわり、絶対家族が送ったLINENに応答すること」と念押しした。
もし、無視したらスマホは即没収。
泉水は絶対に返信すると約束したが、それはあっさりと破られる。その後、二度ほど没収され、痛い目を見ているのだ。
夜中になっても帰宅せず、「今どこにいるのか」という父親の返事を無視して朝帰りしたからだ。
志摩はスマホをタップし、アプリを起動させる。
未読件数は十ちょっと。
ほとんどが母と泉水のやり取りだ。
母が、『志摩も泉水ちゃんも、予定通りに帰ってこれるよね?』と送り、それに対して泉水がスタンプで返している。デフォルメされた兎が目をつぶるようにして笑い、『もちろんですっ』と言っているスタンプだ。
その後に続く、いくつもの写真に、思わず志摩は顔をしかめた。
「おばさん、どうかしたのか」
布の擦れる音がして、志摩は顔を上げる。
寝転がっていた奏斗が起き上がり、胡坐をかいたまま心配そうにこちらを見ていた。
「ああ……。違うの。義妹の泉水が、今、彼氏と旅行に行ってるんだけどね」
「妹? おばさんの再婚相手の連れ子か?」
「そう。その妹が、写真をLINENに載せてるんだけど……」
志摩はぐい、とスマホの画面を奏斗に見せる。
「初カレなのか?」
思わず奏斗も苦笑いだ。
頬にキスをしている写真や、なんかポエムっぽい写真。頬を寄せて撮った写真に、少しきわどいんじゃないかと思う写真もある。
多分、志摩にみせつけたいのだ。
自分の幸せな姿を。
「初カレじゃあ……ないんだけどねぇ……。大学を卒業したら結婚するんだなんだ、ってもう、すごい大騒ぎでさ。なんだっけ……。有名な外資系の会社に勤めてるんだって、彼氏さん。だから舞い上がっちゃって……。だけどなぁ……」
言いながら、深く息を吐く。随分とアルコール臭い息だ。
「だけど、なに」
奏斗に促され、肩を竦めるにとどめる。
多分〝女子大生〟だから、妹はこの男の恋人におさまっているのだ。
義妹が大学を卒業し、一社会人になったとき。
あるいは、三十代になったとき。
果たして、この男は泉水を恋人として側に置いているだろうか。
体のいい〝飾り〟として扱われているように志摩には見える。
(そんなことを指摘したところで……)
志摩はひっそりと息を吐く。
忠告したところで、泉水が受け入れるわけがない。
こうやって恋人との写真をLINENに載せているのも、暗に志摩を馬鹿にしているのだろう。
自分はこうやって大学生らしい生活も満喫している。恋愛も順調だ。
あんたとは違う、と。
そのことに気づいているのは志摩だけじゃない。
義父も母もだろう。
だが義父は黙し、母も困惑したままなにも意思表示しない。LINENでの会話でさえ、だ。
結果的に志摩は、義妹からの攻撃に、ずっと耐えてきた。
「ま。賞味期限が切れて捨てられないように気をつけろよ、その女」
ごろん、と奏斗は再び布団に寝転がる。
「……どうしてそう思う?」
ふと、奏斗に尋ねる。
自分と同じ意見を持ってはいるが、志摩はあくまで勘だ。この男、なんか胡散臭い。それを論理的に伝えられないから、泉水に「やっかんでいる」と、また馬鹿にされるのだ。
そして、義妹は言うのだ。
あんた、私の幸せが妬ましいんでしょう、と。
「どうして、って。その女が男の肩書にしか惚れてねぇからだろ」
あきれたように奏斗は言う。
「その男が例えば、苦学生で奨学金返済に追われてて、毎日バイトを掛け持ちしているやつだったら、絶対惚れないだろ?」
「……言われてみたら……」
泉水の眼中にも入っていないだろう。
「その男も同じだろ。女子大生、二十代、ってだけで手元に置いてるんだって。類は友を呼ぶんだよ。お互い打算があって付き合ってんだろ」
納得はしたものの、とても妹に伝えられない、と志摩は苦笑いした。スマホを自分の膝に置き、三缶目のビールに手を伸ばす。
「随分と詳細にわかるのねぇ、奏斗くん」
くすり、と意地悪く笑って見せる。
「同じように女の子を弄んでたんでしょう」
小学生のころからモテていたのだ。交流は途絶えていたが、高校生、大学生時代は女の子が切れない状態だったに違いない。
「
苦々し気に奏斗は吐き捨てる。
「賞味期限? 奏斗くんに?」
なんとなく目をまたたかせて彼を見る。
男にもあるんだろうか、そういうものが。
「学生時代はそりゃあ、もう……。とっかえひっかえとまでは言わねぇけど、女には苦労しなかったんだけどさ」
「……ふうん」
やっぱりか、と半眼になってビールをすする。
「大学卒業した途端、全くダメだな」
「大学卒業? なんで?」
「農業継いだからなぁ。女は、なんか職業とか肩書にこだわるんだよ」
はは、と奏斗は笑う。
「ネクタイ巻いて、スーツ着て……。毎日同じ時間に家を出て、終電で帰ってくる男がいいんだろ。おれみたいに、繁忙期は旅行どころか村から出られず、消防団に入って親の敷地に同居しているやつは、対象外なんだよ」
「……でも、奏斗くん
黒宮家は、最近はやりの糖度が激高い品種のいちごを栽培している。
いちご狩りの時期には数日で予約がシーズンすべて埋まるぐらいだ。
「まさか……。おじさんやおばさんからお給料もらってないの?」
「おれは奴隷か。ちゃんともらってるよ。それこそ、そんじょそこらの同級生よりも稼いでる」
ならばなぜ、と思うが、目的が〝給料〟だけではない、ということだろう。
「敷地に住んでるっていっても……。都会の敷地と、田舎の敷地は違うんだけどなあ」
志摩は缶ビールを呷って呟く。
街に住んでいる人間には想像がつかないのかもしれない。
買い出しのついでに、奏斗が運転する軽トラに乗って黒宮の家に挨拶したが、奏斗がひとりで暮らしているという家は、実家とだいぶん離れている。どちらかと言えば、自転車で移動したい気分の距離だ。
「じゃあ、今は彼女さんとかいないの?」
「いねぇな。二年前にフラれてそのまんまだ」
陽気に笑っているが、なんとなく痛々しい。きっと別れた原因は、彼の職業や住まいによるところがあるのだろう。
「奏斗くんも苦労してたんだね」
「お前もなんか苦労したのか?」
切り返され、口をつぐむ。
再び、鼓膜を撫でるのは、義妹の嘲笑。
『本気で幸せになれると思ってんの? 馬鹿じゃない。あんたのお母さん、人の家庭壊しといてさ。よく自分だけ幸せになれると思ってんね』
母と継父の再婚を、泉水は喜んでいなかった。
母のことを、憎んでいた。いまもきっと憎んでいる。
自分の母を追い出し、父を奪った相手だと思っているのだろう。その鋭い感情は志摩にも向けられ、泉水はいつも、『人の家庭を壊した女の娘が、幸せになれるはずがない』と言い続けていた。
そしてそれは、本当だと志摩も思う。
なにしろいま、志摩は幸せではないのだから。
「おばさんに、返事しとけよ」
ぼんやりとしていたら、膝に乗せたスマホ画面を、とんとんと指で叩かれた。
「心配してるのは、その勘違い娘だけじゃなくて、お前のこともなんだから。返事してやれ」
言われて、おずおずと頷く。
「そうだね」
呟き、それから、ぽちぽちと文字盤をタップした。
この時間ならもう母は寝ているから、既読はつかないだろう。
だが、奏斗の言う通り、心配していて待っている可能性もある。
無事〝厨子の祝宴〟は終わった、ということ。羽村家に世話になったこと。婦人会のお礼は後日すること。そして、明日、ちょっと相談したいことがある、〝祝宴〟にまつわることだということを、志摩は打ち込んだ。
「そういえば、お前、仕事は?」
送信し、よし、と画面を閉じると、奏斗が欠伸交じりに尋ねる。
「現在、求職中。来年、公務員試験か、他県の教員採用試験を受けようかな、と」
「大学出てずっとか? お前、何歳だっけ」
「あと、一か月で二十五。大学出てすぐは、非常勤講師で小学校に勤めてたの。産休代理の職員」
「ああ。それで本腰入れて採用試験を受けようと思ったのか」
奏斗が納得したように言うので、志摩は曖昧に頷く。
違う、と心の中で呟いた。
真実は、あの小学校校区から逃れたかったのだ。
『頼む。ぼくには家庭がある。ここで仕事を失うわけにはいかないんだ。
土下座して志摩を見上げる村上の頬は、義父に殴られたせいで腫れあがっていた。
もごもごと活舌悪く詫びる彼には、職員室や小学校校内で見たような頼もしさはまるでなかった。
冷ややかに警官に見下ろされ、義父に怒鳴りつけられ、母になじられ。
村上は、ただ、しょぼくれた男だった。
ああ、こんな人のいるところでは仕事なんてできない。
いや、生活できない。呼吸さえできない。
志摩はそう思い、退職願を出して辞めた。
理由はわかっていたのだろう。クラス担任を持っていたというのに、学校長も教育委員会も何も言わず、志摩の願いは受理された。
「だから、ま、私はしばらく無職で……。おばあちゃん家に行って、こうやって〝厨子の祝宴〟の手伝いをしてても差し支えないってわけ」
志摩は肩を竦めて立ち上がる。
ハーフパンツのポケットにスマホを入れると、がたり、とまた窓が鳴った。
振り返る。
衝立の向こう。
自分の布団が敷いてある部屋。
そこで。
どろり、と。
濃い闇がのたうつ。
ぞくりと肩を震わせて目を凝らした。
(……黒留……)
ほ、と、肺にこごった息を吐きだす。
例の衣文かけに吊るした黒留袖が、窓の振動に合わせて揺れたにすぎない。
だが。
どうしても。
背の高い女が、ぶらりぶらり、と身体をたゆたわせているように見えてしかたない。
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