第3話 夜が来る
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風呂を出た志摩は、吹き付けて来る生ぬるい風に首をすくめた。
頭からバスタオルをかぶったまま、空を見上げる。
雲に覆われ、月さえ見えない。
垂れこめる灰色の雲は、のろり、と夜空をうねり、そして山と山の間を流れていく。
(……これは、本格的に降りそう)
湿気を多分に含んだ風が頬を撫で、うなじに落ちる。
志摩は振り返り、風呂の電気が消えていることを確認した。
いまだに、この祖母の家は屋外に風呂がある。ついでに言えば、昔はトイレもそうだった。風呂と同じ並びにあったはずだ。
子どものころは、この風呂とトイレが入った建物が〝小屋〟に見えたが、今でも立派な〝小屋〟だ。強めの風に吹かれ、がたがたと小刻みに揺れている。
さすがにトイレは屋内に移設され、風呂もガス式になっていたが、昔は五右衛門風呂だった。
さくさくと、草を踏み、志摩はクロックスで勝手口に向かう。
正面玄関は奏斗が差し込み式の鍵で施錠してしまった。外側からはもう開かない。
右手に着替えを入れたランドリーバッグを下げ、真っ暗な庭を歩く。
土蔵の前を通り、建物の外灯だけを頼りに、進む。
じぃ、じぃ、と鳴くのはなんの虫なのだろう。昨日の晩は声の大きさにうんざりした蛙の声が、今日は一切聞こえない。
志摩は板を張り付けただけのような勝手口のノブを握る。
霧吹きで水を吹き付けたように不快な手触りた。顔をしかめ、開く。
目の前に広がるのは土間だ。
式台の下に取り付けた間接照明のおかげで、視界は悪くない。土間の表面が濡れた様につやめいている。
左手側に物置にしている部屋が一室あり、その並びに置いてある耕運機が、鈍色の光を放っていた。
もともとは使用人部屋と、農耕牛がいたところだと祖母から聞いたことがある。
祖母が幼いころは、雨の日や冬場、この土間で草鞋を編んだり、縄をなったりしたらしい。
志摩はクロックスを脱いで式台に上がり、廊下に進む。
両脇に並ぶのは、障子と襖だ。
襖は祝宴をした座敷であり、障子の方は志摩と奏斗が今晩寝室として使用する和室だった。
ぽわり、と。
室内の明かりを内包して光る障子がある。
志摩はその前で足を止め、声をかけた。
「奏斗くん?」
「おう。風呂、使えたか?」
ぶっきらぼうな声に、「うん」と頷きながら障子を開ける。
途端に志摩を包んだのは、心地よい冷気だ。
耳を澄ますと、ぶぅん、と機械音がする。
奏斗がクーラーを動かしたらしい。
その彼は、というと、敷いた布団の上に胡座をかき、片手でスマホをいじりながら、ちらりと視線だけこちらに向けてきた。
「いまどき、シャワーがないって……。ありえねえよな」
ぶつぶつと言うが、それよりなにより、奏斗の浴衣が乱れすぎだ。
前合わせは大きく開いて胸元がはだけているし、胡坐しているせいで、ふくらはぎまで見えている。
ただ、シャツとアンダーを履いているせいで、着物よりも男性らしさは感じなくて内心ほっとする。
「それ、もう着てるって言えなくない?」
気まずさを隠し、わざと乱暴な物言いをしてみる。
「浴衣なんてどうやって着んだよ。お前みたいにパジャマ持ってくりゃ良かった」
言われて自分の姿を見下ろす。
数泊する予定だったので、ハーフパンツのジャージとTシャツを寝間着代わりに持参していたのだ。
『寝間着かなんか、ある?』
さっき奏斗に尋ねられ、『おじいちゃんのパジャマがあるよ』と答えたのは志摩だ。
実際、未使用のものがあったのだが。
いざ着せてみたら、足も腕も寸足らずだった。
仕方なく、祖父が昔使っていた寝間着の方を引っ張り出してみた。旅館で使用するような浴衣で、これならサイズは関係ないだろう、と奏斗に手渡したのだ。
結果的に。
これはこれでやっぱり寸足らずで、バカボンのように見え、ひとしきり志摩は笑い、奏斗は不貞腐れていた。
「飲むだろ?」
後ろ手に障子を閉めると、缶ビールを投げてよこされた。
左手で受け取ると、ひんやりと掌が冷たい。さっき冷蔵庫から出したばかりなのだろう。
「奏斗くんは?」
「おれはもういい」
ちらりと見ると、枕元にミネラルウォーターのペットボトルが置かれていた。
奏斗は祝宴で大分飲まされている。いまは酔い覚ましの気分なのだろう。
志摩は部屋の中央を見る。
こちらも続き間の襖を外して、二間を一緒にしている。そうしないと冷房が効かないのだろう。
部屋と部屋を遮るのは木製の衝立だ。
精巧な透かしが入れられた衝立の向こうは、薄闇に沈んでいるが、天井付近に黄緑色の光が灯っている。クーラーだ。
この七塚家でクーラーが設置されているのが、この部屋しかない。
なので、二間を衝立で区切り、一間を志摩が。もう一間を奏斗が使うことにしたのだ。
「あ。お布団。ありがとう」
衝立越しに見やると、ちゃんと布団が敷いてあった。
「おう」
奏斗の生返事を聞きながら、志摩はランドリーバッグを部屋の隅に置いた。片付けはまた明日、奏斗が帰ってからでいいだろう。
プルタブを上げると、ぷしゅり、と音が弾けた。
「なんか食べたの?」
ビールを喉に流し込み、志摩は奏斗の側に近づく。
「食った。お前もなんかいるんなら、炊事場行け。結構残ってたぞ、飯。タッパーに入ってる」
「どうしようかな。……ねぇ、奏斗くんはもう飲まないのなら、そのビール、全部飲んでいい?」
畳の上に置かれた丸盆には、缶ビールがあと三缶ある。指をさして尋ねると、ようやく奏斗が顔を上げた。
「お前、本当に酒でカロリー取るやつなんだな」
顔が完全にあきれている。
「おっちゃんも、おばちゃんもそこまで呑ん兵衛じゃなかったぞ。お前、隔世遺伝だな」
「隔世遺伝?」
「七塚のばあちゃん、酒豪なんだよ」
あはは、と志摩は笑い、奏斗の近くに座った。
「おばあちゃん、私に優しかったのは同じ血が流れてることに気づいてたからかな」
缶に唇をつけ、呷る。一気に半分近くを胃に流し込むと、じわり、と身体の中が熱を持つ。
ふう、と息を吐いた時、がたん、と雨戸が揺れる音が響いた。
「雨雲レーダー見てるんだけど、やべえな。天気予報じゃ、明日から雨だったのに、もうすぐ降り出すぞ。雲の流れが速い」
奏斗がスマホを放り出し、後ろ手をついて足を投げ出す。
「お仕事は大丈夫なの? 雨とか、風とか」
一缶を空け、次に手を伸ばすついでに尋ねる。
奏斗は農家だ。天候に左右されるのではなかろうか。
「まさかハウスまでやられねぇだろ。台風じゃあるまいし」
ごろり、と奏斗は布団に仰向けに転がる。
「ハウス?」
首を傾げ、プルタブを上げた。空気の抜ける音と同時に、ホップのいい香りがする。志摩は香りを楽しむと同時に、喉に黄金色の液体を流し込んだ。細かな炭酸がはじけながら喉を通過するのが心地よい。
「黒宮の家はいちご農家だから」
ああ、ビニールハウスか。
「この時期、暇なんだ。だから〝厨子の祝宴〟の手伝いも、こっちに回ってきてさあ」
奏斗が言うには、黒宮家以外の他の分家は米農家なのだそうだ。夏から秋にかけてのこの時期は一年で一番忙しい。そこで、冬から春に忙しく、現在結構暇ないちご農家の黒宮家に声がかかったらしい。
「七塚の家からは、てっきり千夏おばさんが来ると思ってたから、おれが来たんだけど……。悪かったな」
「ん?」
いきなり謝られて、目をまたたかせる。奏斗は片肘をついて志摩を見上げ、顔をしかめてみせた。
「羽村のおっさんみたいに、お前との関係を勘ぐるやつもいるから……。迷惑だったろ」
「私は別に……」
首を振ると、妙に酔いが回ったのか。
ずるり、と脳の奥底の方から義妹の声が蘇る。
『あーあ、そうだと思った。血筋よ、それ血筋』『あんたは、幸せになんかなれないの。男のことで誰かを不幸にするんだわ』
嘲笑を含む声を押し流すように、志摩は缶ビールを呷った。
「めんどくさいよね、男とか女とか」
思わず漏れる。
泉水の声が発端となり、封をした記憶から、村上の荒い息づかいや呼気のにおいが蘇った。なにもそれは義妹のせいだけじゃない。自分自身がいま、あの時のようにアルコール臭いからだろう。
村上は、志摩が産休代理で入った小学校の学年団主任だった。
年は三十二歳。
放課後児童クラブで陸上を指導しているというのがうなずけるほど、真っ黒に日に焼けた男性だった。肩幅もがっしりしていて、そういえば、奏斗と背格好もよく似ている。
そんなこともあり、自分は親近感を抱いたのかもしれない。
男性に対して一線を引いていた志摩だが、彼に対しては違った。
初めての教員生活。初めてのクラス担任。
学級運営や学習指導について、村上はいつも親身に相談に乗ってくれていた。
いや、志摩は、『親身に』と思っていたが、向こうは違った。
違っていたと気づかされた。
彼は異性として志摩を見ており、結果的に、志摩を性的対象として扱った。
「ほんと、めんどくさい」
早口でそう言い、自分の手の中にある缶ビールを見つめる。
「……おばさん、元気か?」
強引に話題を換えられ、志摩はゆるゆると顔を上げた。
ごろり、と奏斗はうつぶせになり、放り出したスマホに手を伸ばしている。
「元気。相変わらず仕事の鬼」
「好きだよなあ、おばさん、働くの。考えられねぇわ。おれなんて隙あらばゴロゴロしたい」
奏斗は心底そう思っているらしい。志摩は吹き出し、立ち上がった。
「そうだ。お母さんからなんか連絡あったかも」
缶の内容物を一気に飲み干し、布団の方に向かう。
「お厨子の相談もしなきゃ、だし」
「そうだよ、厨子だよ。あれどうすんだよ」
うんざりした奏斗の声を聞きながら、衝立の向こうに移動する。
一瞬、ぎょっとした。
座敷の闇に。
ぶらり、と。
和服姿の女が浮いている。
(……ち、違う。留袖……)
だが、すぐに衣文かけにかけた留袖だと気づく。
明日、畳んで仕舞おうと、窓のカーテンレールにかけたのだ。
風が窓を揺らすからだろう。わずかに
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