第2話 残された厨子

「あらあら。雨は明日からだって、聞いたんだけど……」


 美津子が独り言ちて立ち上がる。

 縁台に行き、換気のために開け放っていた引き戸をすべて閉めていった。


「え。ちょっと待ってくれよ。七塚の次は、羽村だろ」


 ガラガラ、ぴしゃり、と美津子が乱暴に戸を閉める音に負けぬよう、奏斗が語気を強める。志摩も慌てて首を縦に振った。


「そうです。この集落を順番に厨子は回るんでしょう? 七塚で四年間おさめたんですから、次は羽村の家でお願いします」


「集落を回るって、言っても……六軒だけじゃないか」

 昭が顔をしかめ、懐を探る。


「お父さん」


 どうやら煙草を探そうとしたようだが、戻ってきた美津子にたしなめられ、不機嫌そうに鼻から息を抜いた。


「この集落の戸数は百五十軒弱。そのうちで、田淵たぶち七塚ななつか安室あむろ加賀かが佐々木ささき羽村はねむらの六軒だけが、こんな訳のわからんことさせられて……。おかしいというか、不公平だと思わんか?」


 吐き捨てられ、志摩は困惑する。

 ちらり、と斜め前に座る奏斗の顔を伺い見た。

 彼は形の良い眉を寄せ、年の離れた男性に臆することなく睨みつけている。


「そんなことを今言われても困る。言うんなら、村の総会で言えば良かっただろ。なんで今、おれらしかいないときに、そんなこと言うんだよ」


「この費用だって馬鹿にならんのは、お前だってわかるだろう、奏斗」


 ずい、と昭が前のめりになる。

 ふわり、と濃く煙草の香りが漂い、志摩はまた、奥歯を強く噛む。


 そして気づいた。


 そうだ。

 この煙草と酒の匂い。


 これ自体が、あの日の村上を思い出させるのだ。


 けほり、と小さく咳をし、意識を今に集中させる。

 そんな志摩を一瞥し、昭は話をつづけた。


「村中の人間がやってきて飲み食いして……。それの費用は全部、こっち持ちだ。村の奴ら、四年に一回、ただ飯が食えるぐらいにしか思っていない。総会にかけたところで、『しんどいだろうが続けてくれ』と言われるのが関の山だ」


「別におっさんの家だけで支払わなくてもいいだろう。村や隣村には親戚が山ほどいる。うちだってそうだ」


 奏斗はちらりと自分に視線を向けて来た。志摩は慌てて頷く。


「別に祖母にだけ支払いを任せているわけでは……」


 〝厨子の祝宴〟の仕切り方はわからなかったが、その代わり志摩の母もそれなりの金額を持たせてくれたし、奏斗も黒宮の家からそれなりの金額を持参している。


「本家には本家にしかわからん苦労があるんだよ」


 昭はどこか馬鹿にしたように言うから、奏斗はさらに眉根を寄せる。


 所詮、黒宮は分家、と暗に言われたのだ。


 実際、村の中に黒宮の家はない。山を越えた向こうに奏斗たちの家も畑もある。村に家さえ与えられなかったくせに、と言いたいのだろう。


 特に、黒宮の家は、村で軽く扱われていた。

 七塚の跡取りには女性が多いためだ。


 この村では珍しく、総領娘が婿を取って家を継ぐ。


 女に使われる男の分家。

 そう陰口をたたかれているのを、志摩も知っている。


 口の汚い男たちは、『種付け用』とまで言っているのを。


「お金のことだけじゃなくてさ、奏斗ちゃん」

 険悪な雰囲気をなんとか和らげようと、美津子が口を差し挟んだ。


「継ぎ手のこともあるじゃない。うちだって、今回は引き受けられたとしても……。次なんて何十年後になるの? そんなの誰もやってくれないわよ」


 美津子が上目遣いに奏斗と志摩を見る。


 厨子は、四年ごとに六軒の家を順番に回る。

 次に七塚の家に厨子が回ってくるのは二十四年後。


「息子も娘も都市部に出て、結婚してるわけでしょう? こんな田舎にわざわざ戻ってきて家を継ぐわけないじゃない」


 ふう、と美津子が重いため息をつく。


「七塚だってそうだろう。どうすんだ、このあと。もし入院しているばあさんが死んだら、誰かこの家、継ぐやつがいるのか?」


 尋ねられ、口ごもる。

 そこを、昭に真正面に見据えられた。


「志摩ちゃん、戻ってこないだろう? だいたい、千夏ちゃんは再婚したんだしさ。正確には苗字だって七塚じゃない」


 七塚の家は、志摩の母である千夏の生家だ。

 母は三人兄弟の長女で、二十歳になるかならないかのころ、家を出て結婚をした。


 その後、離婚。現在の夫と再婚をしたのは、志摩が高校生のころだ。


 母には弟がふたりいたのだが、村の習慣で長子が跡継ぎとされ、何かあれば七塚家の代表として、村の祭りや行事に参加していた。


 だが、それも再婚するまでの話だ。

 再婚をしてからは、現在の夫と、その連れ子である泉水いずみに遠慮をし、随分と足が遠ざかっていた。


 それに、祖母も高齢とはいえ達者にひとりで暮らしていたので、そう心配することはなかったのだ。


 あの日、入院するまでは。


「奏斗だって黒宮の家業を継いだんだろう? なら、この家は空き家になる」


 昭は座ったまま両手を広げ、ぐるりと周囲を見回してみせた。


 高い天井。傷みのない畳。シミ等見えない障子と襖。

 すべて、祖母が守り続けてきた結果だ。


 住む人がいなくなれば。

 風化するのは時間の問題だ。そんなことは志摩にだってわかる。


「だったらさ、この家にずっと厨子を置いてたらいいじゃないか?」

 それが最善の案だと言いたげに、昭は言う。


「それで四年ごとに、六軒の家で金を出し合って〝厨子の祝宴〟をすればいい。な? そしたらいろんな負担が減る」


 昭の隣でしきりに美津子が頷いている。

 その美津子の顔を見て、志摩はすっかり醒めた。


 あれだけ手伝ってくれたのは、好意でも善意でもなかったのだ。


 志摩と奏斗に持ち掛けたこの話は、ほぼ確定事項なのだろう。

 そしてこの案を了承させるために、恩を売ったに過ぎない。


「おれは反対だ」

 きっぱりと奏斗が告げる。


「今までずっと続いてきたことをやめるべきじゃない」


 むっとしたように昭が口をへの字に曲げるが、奏斗は無視して志摩を振り返った。


「だけど、本家筋に逆らうつもりはない。志摩、お前はどうする」

 問われて狼狽える。


「わ、私は……」


 ただ、母に頼まれてここに来たに過ぎないのだ。本家筋の生まれではあるが、すでに苗字も七塚ではない。


『本来は私が行くんだけど、プロジェクトが動き出したところで……』


 申し訳なさそうに言う母に、『いいの、いいの。どうせ私、手が空いてるから』とカラ元気で答えたにすぎない。


 口では、『次の仕事を探す』と言いながら、例の一件以来、一年近く志摩は家に閉じこもっていた。


 自分の中で焦りはあった。


 外は怖い。

 正直に言えば、男性が怖い。


 だがこのままずっと家の中に閉じこもっていられる状況ではないことはわかっている。


 家の中だって安全ではないからだ。

 この家には、義妹である泉水がいる。


 カノジョの手前、今は外で社会活動を行うことが出来なくても、せめてそのまねごとだけでもしなくては。


 だから、母親の申し出を志摩は受けた。


 母親も言っておきながら志摩が了承するとは想像していなかったのかもしれない。

『志摩に頼んだけど無理だって』

 そう言って祖母に断る口実にしようとしたのかもしれない。


 だから母は当初戸惑ったのだろう。自分で言いだしておきながら散々迷っていた。

 だがそこに舞い込んだのが、祖母が緊急入院したという一報だ。

 最早選択肢はない。

 母は七塚の総領娘という立場から志摩に命じたのだ。

 

 村に行き〝厨子の祝宴〟を執り行いなさい、と。


「そりゃそうだ。七塚といえば総領娘。代理とはいえ、いまは志摩ちゃんなんだから、志摩ちゃんが決めてくれ」


 昭にも鷹揚に頷かれ、志摩は複雑な思いだ。こんな重大な決断など、自分にはできない。


 自分はただ、外出の練習に来ただけなのだ。


「……明日、母に相談してみます」


 ちらり、と柱時計に目をやる。古びた振り子の時計は、十一時を示していた。


「そうだな。明日また、返事を聞かせてくれ」


 志摩の視線に気づき、昭は片膝立ちになる。ぐらり、と揺れたところを美津子に支えられ、飲みすぎよ、と目で訴えられていた。


「おっさん、まさか飲酒運転するんじゃねえよな」

 美津子が手を貸して立ち上がる昭を、奏斗が睨む。


「おばちゃんが運転するから大丈夫」

 苦笑いで美津子が答え、それから首を傾げた。


「奏斗ちゃんは? あんたこそ、誰か迎えに来るの? めちゃめちゃ飲んでるでしょう」

「おれは今日、ここに泊まって、明日帰るから大丈夫。軽トラ乗ってきてるし」


 ああ飲みすぎた。ほんとよ、もう。


 小声で応酬を繰り返していた美津子と昭は、奏斗の言葉にぴたりと口を閉じる。

 なんとなく、視線を宙に彷徨わせ、それから奏斗と志摩を凝視した。


「……ちげぇよ。志摩とは、なんでもねぇよ」

 察したのか、奏斗が低く唸る。


「び、びっくりしたあ……。ふたりでお厨子様の祝宴を取り仕切るから、まさかなぁ、っておばちゃん、思ってたのよ。そしたら、奏斗ちゃんが、泊まる、とか言うから……」


「なんだよ、おい。そりゃ、年齢的には釣り合うし、都会の変な女に引っかかるより、おっちゃんは、断然志摩ちゃんの方がいいとはそりゃ思っているけど」


 美津子と昭の早口に、志摩は次第に顔が赤くなる。

 奏斗と自分が、関係だと思われたらしい。


「部屋なんて腐るほどあるんだし。別に泊まったって構わねぇだろ。なあ」


 促され、志摩はのぼせた頭で、何度も首肯する。まるで赤べこだ。


「……やだ、もう。可愛い、志摩ちゃん。なにこの子。本当に都会の子?」

「おい。奏斗よ。手を出すなよ。これ、手を出したら責任とるやつだぞ」


「どうする? 志摩ちゃん。奏斗ちゃんが襲いそうだから、おばちゃん家に泊まる? 一緒に車に乗っていいのよ?」


「襲うかっ」


「いや、ほんと、男女の仲なんて、なにがどうなるかわからんしなぁ。なあ、美津子」

 にやりと意味ありげに昭が笑う。美津子は眉根を寄せた。


「本当よ。よく考えたら、なんであんたと……。あーあ。あの日、なんであんなに酔っちゃったんだろうなあ、私。お酒強いほうなのに」


「なんだよ、わしと夫婦になったのが迷惑なのか」

「迷惑っていうか……」


 やはり美津子は納得いかない顔でこぼす。


「あそこで酔っぱらってあんたとあんなことにならなかったら、私、違う人生歩んでたんだろうなとは思う」

「責任取ったんだからいいだろう!」

「責任ねぇ」


「うっせえよ! 早く帰れっ。こっちは腹減って、気ぃ立ってんだっ!」


 夫婦喧嘩へ発展しかけたところで、奏斗が一喝する。


「はいはい。もう、帰るわよ。奏斗ちゃん、小さな村なんだから、変な事したら筒抜けよ」


 美津子は奏斗に念を押すと、昭の手を引いて玄関に向かう。


「じゃあ、また明日。返事を聞かせてくれ」

 足元がおぼつかない昭は振り返り、志摩にそう言って玄関を出る。


 ぴしゃり、と。

 玄関扉が閉まる音がした。


 奏斗が舌打ちして立ち上がり、施錠に向かう。


 座敷でひとり。

 志摩は厨子を見つめた。


 黒く艶やかに光るその小箱は。


 まるで夜の闇を内部に宿しているかのように、どろり、とした影を畳に広げていた。

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