怒りに負けるな

増田朋美

怒りに負けるな

暑い日だった。でも、昨日ほどでもなさそうだ。明日は雨がふるというので、さほど暑くはならなさそうだ。雨が降ってくれると被害が出てしまうという地域もあるが、この静岡県では、さほど大きな被害はなく、普通に生活ができるのだった。

杉ちゃんたちは、その日、暑さをしのいで、弁蔵さんのいる、接阻峡温泉へ行くことにした。本来は、安静にさせてやりたいのだが、もう畳の張り替え代がたまらないので、水穂さんを別の場所へやってくれという、意見が続出したためである。

畳の張替えは、いつもそうなんだけど、千円とか二千円で済むものではない。1万とか、2万とか、平気でかかってしまう。それが、毎日毎日汚されるのではたまったものではないのは、みなさんもこれでおわかりいただいただろうか?それで杉ちゃんとブッチャーは、弁蔵さんに相談して、水穂さんをしばらく亀山旅館においてやることにしたのだ。

とはいっても、からだの弱ってしまった水穂さんを動かすのは、大変なことだった。そこで、金谷駅までは、タクシーに乗ってもらい、大井川線のみ、電車に乗車することにした。タクシーの手続きはジョチさんがした。その日、迎えに来たタクシーに、水穂さんは、ストレッチャーに乗って乗り込んだ。杉ちゃんも急いでタクシーに乗り込む。杉ちゃんたちが、じゃあ行ってくるよ、といって、製鉄所を出ていったが、皆暑いせいか、誰も見送りには来ないで、タクシーを契約したジョチさんだけが、見送りに来てくれた。

とりあえず、高速道路を走って、タクシーで金谷駅に向かった。金谷駅からは、SLで、千頭駅に向かうことにしていた。ちゃんと、ジョチさんが手配してくれたかかりの人が、水穂さんを待っていてくれた。係の人たちは、杉ちゃんと水穂さんを、展望車に連れて行ってくれた。二人は、展望車の一番奥の椅子に座った。係の人たちは、千頭駅で別の人が待っているからといった。杉ちゃんがわかったというと、なにかあったら、呼び出してくれといって、係の人たちは展望席を出ていった。それから数分後、展望席を牽引したSL列車は、高らかに汽笛を上げて、千頭駅に向かって走り出した。SLは特急列車なので、途中飛ばしていく駅も多い。杉ちゃんは、車内販売で販売されていた、SLもなかという菓子を食べながら、展望席に座っていた。

「もうちょっとで、千頭駅につくからな。もう少し我慢してくれよ。」

杉ちゃんがSLモナカをかじりながらそう言うと、隣の席に座っている水穂さんのほうは、なんだか苦しそうな顔をしている。

「おい、どうしたんだよ。もうちょっとだから、頑張って。」

と、杉ちゃんは水穂さんにいうが、水穂さんの方は、つらそうな顔をして、咳き込んでしまった。

「バカ、ここで咳き込んだら、あの人たちに迷惑がかかってしまうぞ。もうちょっとだけ我慢して。」

と、杉ちゃんは、前方の席に座っている人たちを顎で示した。確かに、そこには人がいた。それは、テレビのロケ隊だった。何かテレビドラマのワンシーンでも録画しているらしく、一生懸命撮影を続けている。

「ほら、そんな顔すんな。テレビのロケ隊の人が、きっと怒るから。」

杉ちゃんそう言うが、水穂さんは咳き込んで止まらなかった。そうしているうちにロケ隊の人が立ち上がった。

「はい、次は展望デッキで撮影します。展望デッキに移動して。」

ロケ隊の責任者と思われる男性がそう言うと、ロケ隊の人たちは、展望デッキに移動し始めた。杉ちゃんたちは、そうなるとは予測していなかったので、困った顔をしていると、

「あの、すみません。おふたりとも、席を変わっていただけないでしょうかね。」

と、ロケの責任者が杉ちゃんたちに話しかけてきた。

「はあ、どこへ変わったらいいんですか?」

と、杉ちゃんが言うと、

「この席にいますと、ちょっと邪魔になりますのでねえ。」

と、ロケのスタッフと思われる人が言った。

「そうかも知れないけど、僕も水穂さんも、動けないよ。しょうがないから、他の席でロケをしてもらえないかな?」

と、杉ちゃんが言うと、

「うーん、こっちも困るんだよ。大事なシーンを撮らなければならないのでねえ。」

と、別のスタッフが言った。

「テレビドラマか?でも、僕たちも、奥大井まで行かなきゃならないもんでさあ。それに、僕たちちゃんと、きっぷも買って、この席、予約してあるんだよね。それなのに席を変わらなきゃいけないって、それはちょっとおかしいんじゃないの?」

と杉ちゃんはいうと、

「それでは、我々がここで今日ロケをすることを、ご存じなかったんですか?」

ロケの責任者が言った。

「はい、全然知りませんでした。だって、席の移動を求められるなんて、何も知りませんよ。駅で車掌さんも教えてくれなかったよ。」

杉ちゃんは金谷駅で言われた通りのことを言うと、

「おかしいですね。車掌さんには我々がここでロケをすることを、お伝えしてくれと頼んだんだけどな。」

と間延びした顔をしてそう言うので、杉ちゃんたちは頭に来てしまって、

「もう!僕たちは、事情があって席はかわれない!そんなこと言うんだったら、他のところでロケしてくれ!」

といってしまった。そう言ったのと同時に、水穂さんの口元に、赤い液体が漏れたので、杉ちゃんはああほらほらと言いながら、口元の汚れを拭いた。

「仕方ないじゃないの。かわいそうだから、ロケは他の日にしましょう。」

と、俳優と思われる女性が、責任者に言った。

「でも、それではドラマの放送日に間に合いませんよ。今、ドラマの視聴率はうなぎのぼりだ。それを、続けていかないと、視聴率をここで落としたら、困るんじゃないですか?」

別のスタッフと思われる人がそういった。

「仕方ないじゃないの。汽車に乗っているシーンはまたあとにして、他のシーンに差し替えることはできませんか。私、別のやり方でも、全然大丈夫ですよ。」

なんだか、そう言うが、その女性は、漫画の顔をそのまま写したような感じの女性で、たしかに美しいのであるが、どうも人工的すぎるような気がした。それは、見かけだけだったらしい。

「しかしねえ、このシーンは、真奈さんの美しさを撮るための、大事なシーンなんだよ。」

と、責任者は言っている。

「真奈だって?」

と、杉ちゃんがいうと、

「そう、真奈さんだ。津島真奈。名前を聞いてピンとくる人も多いだろう。今、演技は女優としてブレイクしている女優だよ。」

スタッフの一人が言った。

「そうかも知れないけど、僕たちみたいな人がいるってこともまたわかってもらいたいな。」

と、杉ちゃんはそれに対抗した。水穂さんが、口についた液体を拭き取って、

「わかりました。僕たちは移動しますから。」

そう言って立ち上がろうとしたが、足がふらついてしまって、座り込んでしまった。

「監督、今日はもうここまでにしてください。この二人が、かわいそうです。また私達は、やり直せばいいじゃないですか。それで、いいことにしましょう。」

津島真奈さんと言われた女性が、そういったため、ロケのスタッフたちは、仕方ないな、今日は、もうやめようかと口々に言った。中には、これでもし、別のシーンを差し替えることになったら、ドラマの視聴率は急激に落ちるぞと言っているスタッフもいる。

「そんなこと言わないで、この二人のことを考えてあげてください。私は、視聴率を取れなくなることに怒っているのではありません。ただ、こういう人たちだって、電車にのってどこかへ行こうということはあると思いますよ。そういうことじゃないですか?それは、仕方ないというより、当たり前のことです!」

真奈さんは、しっかりとした口調でそういうことを言った。

「良かった。おまえさんもまだ完璧な女優さんじゃないんだな。ありがとう。」

と杉ちゃんが言うと、真奈さんは、大丈夫ですよ、それよりお二人は大丈夫ですか?と心配そうな顔をした。

「いや、僕たちは大丈夫だ。テレビの仕事も大変だね。視聴率がすべての世界だからね。」

と、杉ちゃんはカラカラと笑った。

「まもなく、千頭駅に到着いたします。」

と、車内アナウンスが流れる。杉ちゃんたちは、じゃあ、ここでおりますからと言った。千頭駅では、先回りしていた係員が待っていた。SLが止まると、係員がやってきて、杉ちゃんたちを駅で降ろしてくれた。

「じゃあ、頑張ってな、怒りに負けるなよう。」

杉ちゃんと水穂さんは、SLを降りながら、そういうことを言って、駅のホームを移動していった。




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怒りに負けるな 増田朋美 @masubuchi4996

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