A long long long long
第32話 顔のない少年
「イザベラさん……僕が死んだら……アーテックの街を見下ろせる……見晴らしのいい丘の上に埋めてください……」
息も絶え絶えで僕は言う。
「……ハル……」
イザベラが神妙な顔で僕を見下ろす。最後に人の温もりを感じたくて、僕は残った力を振り絞って右手を持ち上げる。
僕の願いに答えるように彼女も右手を伸ばすけど、二つの手は触れ合う事なく、イザベラの右手は僕の右手を通り過ぎて顔の前までやって来る。
爪を短く揃えた料理人の中指がぺちりと僕の鼻面と弾いた。
「たかが風邪で縁起でもない事言うんじゃないよ」
呆れたようなしかめっ面で言うのだった。
ここは僕が借りている長期滞在の冒険者用の賃貸。一足遅い夏風邪を引いた僕は寝間着姿でベッドに寝ている。昨日の時点で僕の具合が良くない事を知っていたイザベラは、昼時になっても黒猫亭に顔を見せない僕を心配して様子を見に来てくれていた。
「えへへへ……一度言ってみたくて……けほ、けほ……」
「大丈夫かい?」
掠れた咳をする僕にイザベラは心配そうに尋ねる。
「たかが風邪ですよ」
強がって見せるけど、あんまり大丈夫じゃない。体温計がないからわからないけど、頭が痛くなるくらいの高熱が出ている。その癖寒くて、夏だというのに僕は押し入れから冬用の厚い毛布を引っ張り出していた。鼻水は止まらないし咳も酷い。関節が毒に冒されたみたいに鈍く痛んだ。
「にしては辛そうだけどね。医者にはかかったのかい」
イザベラの質問に、僕はハイキングで熊と出くわしたみたいにゆっくり視線をそらし、布団の中に潜り込んだ。
「ハールー」
ペロリと布団をめくってイザベラが怖い顔をする。
「病院ってあんまり好きになれなくて」
異世界にも病院はある。ちょっとした怪我や応急処置なら素人の医療術――回復魔法みたいなもの――でどうにかなるけど、ちょっとしてない怪我や病気は医術士の出番だ。
とは言え、異世界の病院は当たり外れが大きい。外科は優秀だけど内科はちょっと危ない。治療の為の薬の材料が魔境の怪しいキノコやら魔物の肝やらだから、インチキなのかまともなのか素人には判断がつかない。藪医者にかかって余計悪くなったなんて話もよく聞く。ただの風邪ぐらいで医者にかかる気にはなれなかった。
「気持ちは分かるけどね。あんまり悪そうなら見て貰った方がいいよ。魔境で妙な病気を貰って来たのかもしれないしね。毒って事もあり得る。あたしはあんたの墓穴なんか掘りたくないよ」
「うーん」
「ハル!」
聞き分けのない子供を諭すようにしてイザベラが名前を呼ぶ。
「……ちょっと辛くて、もう少し良くならないと起き上がるのは無理かなって……」
変に心配させたくなかったけど、他に言葉が見つからない。
「そんなに酷いのかい?」
「まぁ、ほどほどに」
イザベラはため息と共に肩をすくめる。
「わかったよ。後で知り合いの医術士を来させるから、そいつに診て貰いな」
「ご迷惑をおかけします……」
嬉しさ半分、申し訳なさ半分。
「迷惑なもんかい。前にも言ったろ、店の客はみんなあたしの子供みたいなもんさね。風邪でも食えそうな物作って来たけど、食べれそうかい?」
「……すみません。今はちょっと……」
「いいんだよ。いつ食べたって大丈夫なもんを作ってきたから。食べられそうな時に食べればいい。芋のスープとフルーツのシロップ漬けとビール粥だ。向こうのテーブルに置いとくよ」
イザベラの優しさに僕は泣きそうになり、唇を噛んで鼻がツンとするのを堪えた。
「ふふ。誰も見ちゃいないんだ。泣いたっていいんだよ」
汗まみれでぼさぼさになった頭を優しくなでるとイザベラは出て行った。明日もまた来てくれるという。忙しいのにありがたい事だ。
イザベラが帰ると、部屋は彼女がお見舞いに来る前よりも寂しく、広く感じられた。忙しい彼女の手を煩わせたくなくて、僕は早く風邪を治そうと思うけど、昨日の夜から寝てばかりだし、具合が悪くて全然寝付けそうにない。
寒さと関節の痛みと咳と諸々の不快感に苛まれながら、僕は義務的に目をつぶり、じっとして、時折収納腕輪から直接水を飲み、垂直の壁を登るような気持ちでトイレに立った。
そんな事を繰り返す内、僕はすっかり一人でいる事に飽きてしまい、心細さも相まって、誰かお見舞いに来てくれないかなと願うようになる。でも、イザベラの事だから、みんなにお見舞いに行くなと伝えていると思う。
お見舞いが来たら僕はきっとはしゃいでしまうし、やっかいな風邪をうつしてしまうかもしれない。それは良くないけど、でも、やっぱり誰か来て欲しいなと僕は思ってしまう。
そうこうしている内に僕はいつの間にか眠りに落ち、夢を見た。
気がつくと僕は制服姿で、そこは懐かしい故郷の商店街だった。僕は何一つ特別な力を持たないごく普通の高校一年生の朝倉春に戻っている。僕は物凄く寂しくて悲しい気持ちになるけど、またお母さんとお父さんに会える事に気づいて自宅へと走った。
ただの普通の高校一年生の僕は途中で何度も息を切らせてようやく家に着くけど、そこは空き地になっていた。茫然として近所の人に聞いてみるけど、そこはもう長い事空き地で、お隣の吉田さんは僕の事を覚えていなかった。
わけが分からず、僕はパニックになりながら、僕を知っている人を求めて学校に向かった。学校は丁度昼休みで、教室には見慣れた顔が並んでいた。僕はホッとするけど、みんなは誰だコイツ? みたいな顔で僕を見返す。僕はそれが何を意味しているかを理解するけど、気づかない振りをして哲也君に声をかけた。
「久しぶりだね」
震える声で呼び掛けると、哲也君は怯えた表情で言う。
「誰、君?」
「春だよ。朝倉春。幼馴染の……」
哲也君は気味悪そうに後退ると、そばにいた見知らぬ男子生徒の顔色を窺った。
後ろを向いていた彼は振り向くと、ニヤリと笑って僕に言う。
「朝倉春は僕だよ」
その少年には顔がなかった。
拝啓女神様、異世界に来て一年が経ちました。おかげさまで僕は楽しくやっています。 斜偲泳(ななしの えい) @74NOA
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