夏休み、とある月夜
藤崎珠里
1
「こんばんは、いい夜ですね」
そんな、純文学に出てきそうな挨拶を、現実で受けるとは思わなかった。
とはいっても普段純文学は読まないから、これが本当に純文学っぽいのかはわからないけど。
気温が高くて湿度まで高い、不快な夏休みの夜のことだった。
「――今のわたし、すっごい決まってませんでした!?」
……不快な夜を一瞬にして、気が抜けて笑ってしまうような夜にしてしまうのだから、彼女はすごいと思う。
「こんばんは、
大きな満月は嘘偽りなく美しく、だから別にこの言葉は、告白なんかじゃなかった。
そうじゃないったらない。久しぶりに偶然会えて、しかも向こうから声をかけてくれたことに浮かれてなんかない。……はずだ。
だって、浮かれてぽろっとこんな言葉が出てしまったんだとしたら、すごくかっこ悪い。
「月も綺麗ですし星も綺麗ですけど、今感想求めたのは違うとこですよ、チカくん先輩!」
「決まってた決まってた。すっごい決まってた」
「でっしょう。言わせた感が強いですけど、まあ先輩、嘘つきませんからね! やったぁ、わたし決まってた~!」
にこにこはしゃぐ狭霧さんは、一個下……現在高三の後輩。
彼女は一年生から二年生に上がる頃まで、約一年ほど俺のことを同学年だと勘違いしていた。そのときに「チカくん」と呼んでいた流れで、今でもチカくん先輩なんていうトンチキな呼び方をしてくる。
勘違いしていた理由は、たぶん俺の背が低いからだろう。狭霧さんの背が高めというのもあるが、女の子である彼女より小さいのは、正直結構情けない。
「久しぶりだね。卒業式以来?」
「です! 大学はどうですか、先輩。お友達できてます? 彼女は!?」
「んー、まあ高校のほうが楽しかったかな。友達はそこそこ。彼女はいない」
「やっ……! んん、高校のほうが楽しかったっていうなら、たまには部活顔出してくださいよ。わたしまだ引退してませんし」
「そうだねぇ、今度行こっかな」
ちなみに部活は囲碁部である。特に大会でいい成績を残したりもしていない、弱小部。普段はお菓子を食べて喋りながら打っているのだから、強いはずもない。
「っていうか、こんな時間にこんな場所でどうしたの。一人だと危なくない?」
「ご心配ありがとうございます! 塾の帰り道です! チカくん先輩は?」
学校からも、おそらく狭霧さんからの家からも微妙な距離だと思うんだけど……それでも来たくなるようないい塾、この辺にあったっけな。
「俺は散歩」
「さんぽ」
「うん、家が近くなんだよね。夏休みだからただでさえ運動しないし、お風呂前にちょっと歩くくらいはしたほうがいいかなって」
「えらい! めちゃくちゃ偉いですねチカくん先輩。類を見ない偉さ。今この瞬間、この世で一番偉いのは先輩と言っても過言じゃありません」
「あはは、ありがとう。でもこんな時間まで勉強してた狭霧さんも偉いと思う」
「ありがとーございます! 受験生として当然ですけど、やったぁ!」
そこでふと、狭霧さんの動きが固まった。そしてぎこちなく瞬きをして、そっと首をかしげる。
「……わたし今、いつにも増して変じゃないですか? だいじょぶですか?」
「え、そう? いつもどおりっぽいけど」
「ほんとに!? ならよかった~! 今自分でも引くほどテンション上がってて、べらべら何喋ってんのかわかってません」
くふくふ笑う狭霧さんは、なるほど、確かにすごくご機嫌に見えた。
「いいことでもあった?」
「そりゃもう! 詳しいことはヒミツですけど、ちょっとした偶然に期待して塾選びをした甲斐がありました!」
「そうなんだ……? いいことあったならよかった。俺もちょうど今さっきいいことあったよ」
「ふふっ、お揃いですね」
いいことがあったっていうより、現在進行形だけど。
久しぶりに会った好きな子は、やっぱりどこまでも眩しかった。
「駅行こうとしてた? 送るよ。久しぶりに会ったんだし、狭霧さんともうちょっと話したい」
これくらいのことならためらわずに言えるくせに、いざ告白をしようとしていた卒業式には、「またね」としかいえなかった。
別に、それを後悔しているわけじゃない。恋人になりたいわけでもなかったし、伝えたいだけの自己満足な告白なんて、ただ迷惑なだけだと思った。今でもそう思う。
狭霧さんには、どこかで、誰かと幸せになってほしい。……誰かと一緒じゃなくてもいい。とにかく幸せになってくれれば、それでよかった。
俺が幸せにしたい、わけではなかったのだ。
「わたしもです! ほんとはわたしがチカくん先輩のお散歩にご一緒しようかな~って思ってたんですけど」
「それだとさらに帰るの遅くなるでしょ。勉強で疲れてるだろうし、早く帰ったほうがいいよ」
「今は元気満タンですよ! 最近でいっちばん元気です。せ、先輩の、おかげで!」
「ふふ、俺も狭霧さんのおかげで、最近で一番元気」
お世辞だとしても嬉しくて、駅のほうに歩き出しながら本心で返す。
狭霧さんは俺のことを、先輩として慕ってくれている。始まりが始まりだったから、先輩の中で一番狭霧さんと距離が近い自信もある。
その事実だけで満足できてしまうのだ。
「言っときますけど、お世辞じゃないですからね!」
「そうなの? ありがとう。俺のもお世辞じゃないからね」
「それは知ってますけど!? 先輩がいっつもそんなだから……! ほんっとに! わたしの顔面でろんでろんになってません!?」
「でろん……? いつもどおりだよ」
「それはそれでハズいっすね!!」
狭霧さんは大体いつも、楽しそうに笑っている。それが狭霧さんの言うでろんでろんなのかもしれないけど、恥ずかしいものなのかな。
狭霧さんは表情を隠すように両頬に手を当て、小さく深呼吸をした。
「ところでなんですけど、チカくん先輩って……花火大会とか、行きたいなーって思ったり、します?」
「あー、なんかあったっけ。人混み苦手だから、花火はテレビで見るくらいが好きだなぁ」
「……そ、ですか。やっぱり。ですよね。だと思ってました!」
「……もしかして、俺のこと誘おうとしてた?」
しゅん、と狭霧さんが落ち込んだように見えて、浮かんだことをストレートに訊いてみる。
「はいっ!?」と目を見開いた狭霧さんは、慌てたように手をあたふたと動かした。
「そんなわかりやすかったですか!?」
「あ、ほんとにそうだったんだ」
「カマかけ!? チカくん先輩そんな器用なことできんの!?」
「カマかけってほどじゃないけど!? いや、なんか落ち込んでたっぽいし……期待してた答えじゃないなら、そういうことかなって。周り皆受験生だもんねぇ。花火大会行きたくても誘いづらいよね」
その点、すでに大学生の俺なら誘いやすいだろう。花火大会に男女二人で行くってめちゃくちゃデートっぽいけど。あんま狭霧さん、そういうこと気にしないタイプだしな。
「そうそうそうそういうことです!」
「めっちゃ力いっぱい肯定するじゃん……微妙に違った?」
「いえカンッペキにそういうことっす、さっすがチカくん、賢い。そっか、そういう口実が」
絶対違ったな。俺のことをチカくんって呼んじゃうときは、大抵動揺しているときなのだ。
でもこの言い方だと、普通に俺のことをデートに誘おうとしていただけみたいに聞こえてしまう。
……まあ、ぱちぱち拍手をしてくれる狭霧さんは本気で感服しているようなので、追及はしなくていっか。
「でも何日だっけ。バイトじゃないといいな……」
「えっ、先輩バイトやってるんですか!? どこどこ!?」
「駅の本屋さん」
「似合う~! え、駅って最寄りのですか? 今度塾帰りに寄っていいです!?」
「全然いいよ。このくらいの時間だとしたら、夏休み中は月木かな」
「絶対行きます!」
張り切って拳を握る狭霧さんに、くすくす笑う。
バイト姿を知り合いに見られるってちょっと恥ずかしいけど、会える機会が増えるのは嬉しいからそんなことも言っていられない。
「えっと、日にちですっけ。七日の十九時からですね」
「七日……ちょっと待ってね」
立ち止まってスマホで予定を確認する。……よっし、オフ。急に入ってほしいとか言われても絶対断ってやる。
「行けるよ」
「やっっったぁ! じゃあ約束ですよチカくん先輩! 花火大会! 一緒に行きましょう! あとわたし、先輩の歩きスマホしないとこ尊敬してます!」
予定を確認し終えてまた歩き出した俺に、狭霧さんはそんなことを言う。
「お、おう。そっか。尊敬ポイントそこなんだ」
「他にもいーっぱい尊敬してますよ!」
「えー、ほんとかなぁ」
冗談っぽく疑ってみせれば、「ほんとですよぉ!」とむくれる狭霧さん。どうも本当らしい。照れる。
尊敬される先輩やれてたんだなぁ。その割に、他の後輩たちにも舐められてたっていうか、大分タメみたいな態度取られてたけど。楽しかったから問題はない。
「待ち合わせ時間とかはまた今度決めましょ! ら、……ラインして大丈夫ですか」
「いいよ」
「用がないときでもラインしていいですか?」
「うん? いいよ」
「毎日ラインしたらさすがにウザいですか?」
「別にいいよ。すぐに返信できるかわかんないけど」
毎日のラインで勉強がおろそかにならないか心配だけど、狭霧さんならまあ、大丈夫だろう。なんだかんだで狭霧さん、結構な進学校だったあの高校でクラス順位も上のほうだったし。
……用がなきゃ連絡取っちゃ駄目だと思って、卒業してから誕生日くらいにしかしてなかったけど、もっとしてよかったのか。いやでも、受験生の邪魔になっちゃいけないし、やっぱ俺からは駄目だよな。
「――それから、せんぱい」
なんとなく、その声は震えているように聞こえた。
駅はもう、すぐそこだった。
「せ、先輩的に、女子と二人で花火大会って、どうなんですか」
「……どうって?」
「ほら、世間一般的には? そういうのってデートみたいじゃないですか? 付き合ってもない子と行くの、その、チカくんとしてはどうなのかな~って……思って……」
歯切れの悪い話し方は、狭霧さんらしくなかった。狭霧さん『らしく』なんて語れるほど俺は狭霧さんのことを知らないのだ、って言ったらそれまでの話なんだけど。
狭霧さんは両手の指先をちょんちょん、と付けたり離したりしながら、「どう、ですかね?」と上目遣いで訊いてきた。狭霧さんのほうが背が高いのに、上目遣いってできるものなんだな。
それにしても、どう、とは。
デートみたいで嬉しい、と言ったら俺の気持ちもモロバレだし。かといって、他にどう言えばいい? 狭霧さんとなら嬉しい、っていうどうとでもとれる言い方するか? それもバレる?
でもなんか……なんかさ……俺の推測が正しければ……いや間違ってるとは思うんだけど……なんか…………。
狭霧さん、もしかして、俺のこと好き?
……いや、恥ずかしい勘違いはやめておけ。狭霧さんのことだからこの質問にも深い意味は……深い意味は……なくてもおかしくないな、ほんとに……。
先輩として、あるいは人間としては好かれている。それは間違いない。そうじゃなきゃ、わざわざ花火大会になんか誘わないだろうし。
だけど、恋愛的な意味ではどうなんだ? そもそも狭霧さんって、そういう感情あるのか? ……っていうのは失礼だろうけど、なんだか狭霧さんとそういうものが結びつかない。
一瞬のうちにこれでもかってくらい悩んで、結局、直接的ではないにしろ割とストレートな言葉を選んだ。
「こう言って気持ち悪く感じたら申し訳ないんだけど……狭霧さんと行くなら、どこでも嬉しいかな」
「キモい要素がどこに!?」
「いや、なんか……なんかさ……」
下手したら勘違い野郎っていうか……こういうストレートな言葉って、人によってはウワッて感じない? そうでもない? わっかんないんだよな、こういうの。
でも女子って、好きでもない男子にこういうこと言われたらやっぱ困るんじゃないの? 俺女心とかわかんないけど。……うん、なんもわかんない。少なくとも目の前の狭霧さんが、全然まったく気持ち悪がってもないし困ってもないってことくらいしかわからない。
「わたしだって、チカくん先輩と行くならどこだって嬉しいんですからね!」
勘違いしそうになる。勘違いじゃないのかも、って勘違いしそうになる。
改札に着いた。だけど俺たちはどっちも、またね、とも言わずにその場に立ち止まっている。
今日の満月は明るかったけど、それでも顔色を照らすほどではなかった。こうして駅の明かりの下で見ると――狭霧さんの顔は、いつからこんなに赤かったんだろう、と思った。
「……あのさ、狭霧さん。狭霧さんにとっては、どうなのかな」
「どう、っていうのは……」
「付き合ってない男と、花火大会二人で行くの」
狭霧さんは、そろりと目を逸らそうとして、けれど思い直したように、俺の目をまっすぐに見つめてきた。
「それは……その。えっと。つ、付き合ってるみたいで、嬉しいじゃないです、か?」
どうぞ勘違いしてください、と言われてるような気がしてきた。
だから――
「……ほんとは卒業式の日に告白しようとしてたんだ、って言ったら、意気地なしって怒る?」
目どころか体ごと背けたいのをこらえて、まっすぐに見つめ返す。「おっ……」はく、と空気を求めるように口を動かした狭霧さんの顔は、さらに赤く赤く染まっていった。
「…………怒るわけなくないですか? それじゃわたしだって、同じに、なるし」
「……そうだった、んだ?」
「そうです、よ?」
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「……わたし、チカくん先輩の最寄り、知ってたじゃないですか」
「うん、そうだね」
「だから、ちょっとした偶然……き、期待しちゃってたんですよね~」
「あー……そういう」
「そういう、です」
かっ、かっ、と俺の顔も熱くなってくる。
今日のやりとりを思い出すと、なんだか俺、大分鈍感な奴みたいになってて恥ずかしい。いや、でも好きな子相手には鈍感になってもしょうがなくない? 勘違いして嫌われたくないし。
そういうとこが駄目だったんだろうな、とは思う。
「ええっと、じゃあ、狭霧さん。改めて」
「ま、待ってください! 場所移動しましょ! もちょっと人いないとこ行こ!」
「それもそうだね……」
ということで、二人揃って駅を出る。かっこつかないな……。
そんなに栄えた駅でもないので、それほど離れなくても
「はい! それでは改めてどうぞ、チカくんせんぴゃ、い」
笑ったら駄目だ、と思ったのに、ぷっと吹き出してしまった。「うわ~~~」と呻く狭霧さんが可愛い。
「わ、笑うなぁ! チカくんも次噛んでください! わたしが笑ってあげるので!」
「次は改めて告白をしようと思ってたんでしゅが……」
「ほんとに噛んでくれた! さすが優しい!!」
「噛まなくてよかったの!?」
しかも笑ってはくれなかった。約束が違う。さっきと違う恥ずかしさで顔が熱い。
息を吐いて、狭霧さんと向き直る。緊張したように、狭霧さんは直立不動で俺の言葉を待っていた。
「……狭霧さん、好きです。俺と付き合ってくれますか?」
声にならない声、のようなものを上げてから、狭霧さんは力なく息を吸った。だけど、吐き出された言葉は力がいっぱいだった。
「わたしも好きです! だーいすきです! もちろん付き合います! やったぁ!」
すっかりいつもの狭霧さんのようでいて、やっぱり顔は赤い、のだと思う。駅を出てきたのは失敗だったかも、とほんの少しだけ思った。
「チカくん先輩にだらしない奴って思われたくないので、受験生のうちはちゃんとデートとか我慢します! 夏休みも、花火大会以外ほとんど特別なことをしないって誓います!」
「偉い。今この瞬間、この世で一番偉いのは狭霧さんって言っても過言じゃない」
えっへん、と胸を張る狭霧さん。
「ですよね~ですよね~! でもたまに気晴らしでお茶とかお誘いしてもいいですか!? 勉強会とかも!」
「それはもちろん、いつでも呼んで」
「呼びまーす! 呆れられない程度に! ほどほどに! あとあと、花火大会は可愛い浴衣着ていくので、いーっぱい褒めてくれると嬉しいです!」
「うん、可愛いんだろうな」
「えっへ、可愛いと思いますよ」
それなら俺も浴衣買おうかなぁ。着たことないけど。……初めてのデートでそういう初挑戦はしないほうが無難か?
まあ、何か失敗したとしても、それはそれで楽しいだろう。狭霧さんと一緒なんだし。
「チカくん先輩!」
嬉しそうに、幸せそうに、狭霧さんは笑う。
彼女の上では綺麗な満月が輝いていたけど、それよりよっぽど眩しい笑顔だと思った。
「――月も綺麗ですし、わたし、死んでもいいですよ!」
「…………さっき言ったの、覚えてたの?」
「先輩顔真っ赤~」
「ここで見えてるわけないじゃん」
「見えちゃってます、わたし目がいいので」
「じゃあ俺も目がいいから、狭霧さんが真っ赤なのわかります」
「あっずる~い!」
一瞬の沈黙、のちに、二人して顔を見合わせて笑う。
ああもう、ほんっとうに……いい夜になっちゃったなぁ。
駅まで再び狭霧さんを送り届けて、「またね」「はい、また!」と笑い合う。
……それしか言えなかったことを、やっぱり少しだけ後悔してたんだな、とようやく気づけた。
そしてたぶん、それは狭霧さんも同じなのだ。
彼女なら、「お揃いですね!」とまた笑うのだろうけど。
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