〝架空の犬〟
アオイ・M・M
〝架空の犬〟
――俺の視界の中にはいつだって犬がいる。
それが俺、
犬がいる、というのは比喩でもなんでもない。
いつも視界の中に、いや中にというのは正確な表現ではないかもしれない。
視界の端に、か。
俺の視界の端にはいつだって犬がいる。
たぶん、黒くて大きな犬だ。
小さく感じる事もある。
性別はわからない。
そいつは凝視しようと、真っすぐ見つめようとすると居なくなる。
いや、居なくなるというのは正確な表現ではないかもしれない。
そちらに視線を向けるとまた視界の端に移動するのだ、常に。
そいつは視界の中央に絶対に収まらない。
そちらを見ないようにしながら、視界の端に捉えて観察する事もある。
主に暇なときに、暇つぶしに。
色は黒、体毛はふわふわと柔らかそうに見える、気がする。
長さはよくわからない、短いようにも長いようにも見える。
大きさもその日の感覚でまちまちというか。
2mくらいありそうな時も、30cmもないように見える時もある。
昔、小さい時はそれが居るのが当然だと思っていた。
というか、みんながみんなそうなのだろうと思っていた。
自分だけがおかしいだなんて夢にも思っていなかった。
何かの拍子、だったのだろうと思う。
幼い俺は両親にそれの話をした。
両親は当初それを俺の空想だと思って笑って聞いていたらしい。
だがその話をあまりに繰り返すものだから、いよいよ薄気味悪くなったそうだ。
……まあ、今ならわからなくはない。
だいぶんそれは気持ち悪かっただろう。
両親は俺を香川の祖母(母方の方だ)に預け、遠ざけた。
建前上は病気の療養、ということだったそうだ。
実際、居もしない犬が見えるというのは一般的には病気であろう。
さて。
小学校の高学年に上がる頃には、
両親は成長中の妄想癖かなにかはすっかり消えたのだろうと安心していたのようで。
今となってはあの頃は変な事ばかり言って大変だった、と笑い話にするくらいだ。
――他人事のように独白して、俺は薄く嘆息する。
実際のところ、見えなくなったわけではなかった。
御覧の通り今、俺の視界には犬がいるわけで。
俺は大学の講義室の隅に座り込んだ真っ黒い犬を視界に捉えている。
今、この瞬間も。
つまるところ、難しい話ではないのだ。
他人に(あるいは肉親にすら)話せば気味悪がられると理解し。
それを口にしないだけの分別が身についたというだけの話で。
かくして少年はほんの少しだけ大人になり、嘘と建前で武装する事を知った。
中学に入る頃、俺は四国を出て本州の両親の下へと帰った。
帰りたかった、と言っても良い。
四国は……、悪いところではないのだが少々刺激が薄過ぎた。
俺が他人に犬の話をしなくなったのは、そういう切実な理由もあった。
このまま犬の話を続けると両親はいつまで経っても俺を本州に戻さないだろう。
そういう危惧があったのだ(そしておそらくこれは事実そうだろう)。
そんなわけで
だいぶん懐いていた祖母の下を離れるのは少々、正直なところ苦痛ではあったが。
それでも本州へ戻りたいという欲求を止めれるほどの愛着でもなく。
いつだって笑ったり馬鹿にしたり、気味悪がったりせず。
ゆったりと笑いながら俺の話を聞いてくれていた祖母が、まあ大好きだった。
今も大好きではある。
照れくさい話ではあるが。
だがそんな祖母も俺が高校を卒業すると同時に没した。
享年102歳だったというが、もう少し若いと思っていた、90歳くらいとか。
大差ないか、ないな。
大往生だよ、
カラオケでパンクだかロックだかスラッシュメタルだかを大音響で歌ってる最中にぶっ倒れるのは一般的に見て死を惜しまれるより先に苦笑されると思うんだよな。
実際そうなったし。
俺は講義室の長机の上に頬肘を突いて嘆息する。
思い出して楽しい話ではまるでないが、幼い俺と真面目に犬の話をしてくれたのは祖母だけだったので、犬の事を考えるとどうしても切り離せずに浮上する話題ではあるのだ。
「――また、犬?」
「え」
横手から囁くようにかけられた声に驚いて視線を巡らせる。
人のまばらな講義室、すかすかの長机の1つ、3mほど先に座った女生徒。
知った顔だった。
下の名前は知らない。
ゼミが同じで、合コンでたまたま隣の席だっただけの相手だが、妙にウマはあった。
周囲に陽キャが多過ぎるから消去法で、とも言うかもしれない。
顔は良い、童顔で背は低いがスタイルは良いし美人である。
だが、なんというかモテないらしい。
というか口説こうとか好みだとかいう男は記憶になかった。
わからなくはない。
他の同級生が猫ならこいつは虎だった。
遠くから美人だなと眺めておくのが一番いいだろう。
とはいうものの知り合ってしまって、ウマがあってしまったので仕方ない。
残念ながら色恋沙汰になりそうな気配はないのだが。
教授が腕時計を見て「今日はここまでにします」と言うと同時、俺は立ち上がって卯月のところへ歩み寄る。
長机に腰を下ろして、よ、と手を上げる俺。
立ち上がって去りかけていた卯月は眉をしかめて座り直した。
なんやかんやで付き合いは良いやつだ。
めんどくさいとばかりに本音を隠さないのも気が楽ではある。
「何ですか」
「昼飯喰わね?」
「食べますけど」
と、言ってから卯月はシャギーの入ったおかっぱみたいな髪を軽く手でかきあげて。
「昼食は食べますけど、あなたと食べる理由は特にないです」
とわざわざ言い直した。
「まー、そう言わずに、うどんならおごるからさ」
「まあ、断る理由も特にないですけど」
こういうやつである。
食堂の券売機に2人で仲良く並ぶ。
なんてことは、なかった。
卯月はすっと席に座って「
まあ席を取っといて貰えるのはありがたくはあるんだけど。
食堂のうどん系で一番高いのを選びおるか。
その薄水色のワンピースでカレーうどん食うとはなかなか剛毅なやつよの。
と思わず武将になる俺だった。
食費へのダメージを鑑みて素うどんにするか数秒迷ったが、さすがに悲し過ぎたので(素うどんよりは高い)きつねうどんにする、した。
カウンターのおばちゃんに食券を渡し、番号札を貰って卯月のいる席に行く。
「で、何かご用ですか」
卯月は組んだ両手を膝の上に綺麗にのせてそう尋ねて来る。
良いところのお嬢様らしいという噂にも頷ける上品さ。
市内でも有名な名門、
「別に用事は、あるけど」
「でしょうね。
真鍋くんが用事もなく私に声をかけて来るとは思えませんし」
まあそうだね。
理由も無く虎に近寄るやつはいない。
ただ。
「なんで俺が架空の犬見てたのわかった?」
濁すのもなんだったのでド
卯月は軽く小首を傾げ、ああ、とつぶやく。
「あれ、〝架空の犬〟って言うんですか」
「まて、まさか見えるのか……?」
「ん?
いえ、前にゼミコンで少し話を聞いた覚えがあるだけですよ」
それはわかる、酔った勢いでこっちも話して聞かせた記憶はある。
「いやだって、あれって」
「直接は見えません。
けど、真鍋くん自覚ないんですか。
こう、独自の首の振り方というか、頭の揺れ方してる時ありますよ。
あれ、その〝架空の犬〟を見てる時でしょう?」
「……なんでわかんの」
「他の人はそんな動きしてませんから。
あとは状況証拠というか消去法というか」
「他の人に指摘されたことがねーよ。
あ、いや――」
そうでもないか。
高校の時、
「なにか?」
「いや、他にもう一人だけ、犬見てる時の動きに気づいた奴いたなって。
高校の同級生に1度だけ指摘されたことあるわ、そういえば」
「へぇ。
ああ、もしかして普通の犬の話題と区別がつかないからですか」
「う?」
「〝架空の犬〟」
「あ、ああ。
そうそう、紛らわしいからそういう呼び方したんだ、確か」
そういえばそれ以来か。
あの犬について考えるとき脳内でもその呼び名を使ってる気がする。
食堂の、マスクをつけたおばさんがトレーを抱えてやって来て、会話が途切れる。
安っぽいスチールに机の上に置かれる、きつねうどん。
と、
おばさんはちゃんときつねを俺の方へ、カレーうどんを卯月の方へ置いて去る。
日頃、
卯月は割りばしたてから割り箸を抜き、綺麗に2つに分割する。
合掌して目を閉じ、「いただきます」と小声だが良く通る声で言って食べ始めた。
特盛だけあって丼の直径は小柄な卯月の顔ほどもあるのだが、滑らかな動作でうどんは消えて行く。汁を飛ばして服を台無しにするようなこともない。
「
俺の言葉に、卯月が手を止めて一瞬だけこちらを見る。
「いえ?
食事のマナーは教わる時間がありましたけど。
……そういえばカレーうどんの食べ方というのはなかったですね」
「
俺は呆れながらそう返して七味をきつねうどんに叩き込む。
皮肉も冗談も通じない、というかそう受け取られてないような気がするんだよな。
というかマナーの授業はあんのか、セイジョ。
その後は特に会話も無く黙々と食べ続けた。
恐るべきことに食べ終わるのはほぼ同時、3倍近い質量差があったはずなのだが。
卯月、恐ろしいやつ。
特に汚れてもいない口元をこぎれいなハンカチで拭い、卯月が視線を上げる。
小憎らしいことに割り箸も先端、全長の1/5ほどしか汚していなかった。
完璧超人かよ。
「その私以外に視線を指摘したという同級生は、いえ。
その指摘をされたのは2018年の7月12日より前ですか、後ですか」
唐突に放たれた卯月の言葉に俺は固まった。
なんだそのやけに具体的な日時指定。
意味が分からない、わからないが。
「たぶん、前。
クラス同じになってからすぐだったし」
3年ほども前の事だが印象に残っていたので覚えている。
というか、7月12日……?
「――2018年の7月12日、市外のキャンプ場で、
俺は、油揚げを取り落とした。
スープの上に油揚げが落着し、汁が跳ね上がって袖口をわずかに濡らす。
「なんでこんなことを私が知っているかと言うと。
猟奇事件をスクラップ帖に纏めるきわどい性癖がある、わけではなく。
あなたとゼミコンでその〝架空の犬〟の話をしたときに思い出したから当時の記事を少し漁っただけです。
そういえばよくわからない事件があったな、と」
「よくわからない、って」
「見つからなかったんですよ、加害野犬。
かなり大型の、黒毛犬だったそうですけど、なぜか目撃者もなにも出なかった。
まあ、逃げた野生動物を見つけるのが大変なのはそうですけど」
不思議ですよね、と卯月が言う。
膝の上に両手をのせてお人形のように座るその瞳は、俺を見ている。
何が言いたいんだ卯月。
卯月は
「そういえば、真鍋くんも
「だったら、なんだよ」
今度は俺がコップを手にして、水を
今まさに水を飲んだばかりだというのに喉がやけに乾いていた。
「――ゼミで話した時の事を覚えていますか」
「ああ」
「お
卯月が、言う。
その言葉に思い当たる事は1つしかなかった。
『犬の話を人にするのはやめたがええけど、してもええ。
けどな
「――犬に名前をつけちゃいけない」
記憶の中の祖母の言葉を、目前の卯月が引き継いで発する。
いよいよ俺は喉の渇きを覚えて再びコップを手に取る。
既にコップは空で、俺はぎょっとして腰を浮かせかけた。
卯月が無言で自分のコップを押し出して来る、半分ほど残っていた水を呷る。
喉が、乾く。
「つかぬことを尋ねますが。
野犬に襲われたという男子生徒、もしかして同級生ですか」
俺は無言。
「仲が悪かったりしましたか」
俺は無言。
「なるほど、だいたいわかりました」
「――俺は、あれに名前なんて付けてない」
「真鍋くんはお祖母ちゃんっ子みたいですからね。
約束を破るような悪い子ではないでしょう」
表情を変えぬまま、卯月は丼ののったトレーを手に立ち上がる。
「ごちそうさまでした、真鍋くん。
おいしかったです、
こつ、と。
卯月の靴のかかとが床を叩く。
俺は顔を上げる事ができずに、きつねだけが残った丼を覗き込んでいる。
数歩進んだところで卯月は体を半回転させ、完全には振り向かずに、言った。
「まあ、特に不安がる必要はないでしょう。
思うにそれは、あなたを害するものではないと思いますし」
視界の端には、いつものようにあの犬が見える。
「――ただ、そうですね。
つまらない屁理屈ですけど」
――名前でしょう、〝架空の犬〟というのは。
卯月はつまらなそうにそう言って、今度こそ振り返らなかった。
視界の端には、いつものようにあの犬が見える。
いつもの、ように。
〝架空の犬〟 アオイ・M・M @kkym_aoi
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