第110錠 黒と色彩のアーティスト㉛ ~決着~
「和歌は、しばらく帰ってこない」
薄暗い部屋の中で、葉一が呟く。
覇気のない声。
どこか虚で、疲れ切ったような声。
そして、その返答に、彩葉は息を呑んだ。
帰ってこない?
それは、どうして?
お母さんは──
「お母さんは、どこにいるの?」
恐る恐る問いかければ、葉一は、彩葉に視線を移しながら
「アトリエだ」
「アトリエ?」
「ああ、アトリエで、絵を描いてる」
ドクン、ドクンと、鼓動が加速する。
絵を描いてる?
じゃぁ、今この家に、母はいない。
つまり、自分と父だけ。
でも、なんで?
なんで、こんな時に絵を描いてるの?
「彩葉」
「……っ」
瞬間、父に声をかけられ、彩葉は肩を震わせた。
なにを言われるのか?
いや、何をされるのか?
昼間のこともあるからか、彩葉の背筋は、凍りつく。
すると、葉一は、彩葉の前に歩み寄りながら
「和歌は、彩葉の子守りより、絵を描く方が大事なんだ。だから、邪魔はするな。昼間のことは、水に流してやる。だから、俺のいうことは、絶対に聞きなさい」
「…………」
凍り付いたのは、背筋だけか?
まるで、心まで砕かれるようだった。
俺のことより、絵の方が大事?
お母さんが、そう言ったの?
いや、違う。
お母さんは、そんなこと言わない。
描かされてるんだ。
お父さんに、命令されて──
「いやだ……っ」
思わず漏れたのは、その言葉だった。
命令なんか、もう聞きたくない。
助けなきゃ。お母さんを。
きっと、監禁されてる、アトリエの中に──
「どこに行く気だ!」
「痛ッ!」
瞬間、駆け出そうとした彩葉の腕を、葉一が掴んだ。
力強く握り締められたせいか、山根に手当てされたばかりの傷が、鈍く痛みを発する。
だが、その痛み以上に、心の方が痛かった。
「アトリエに行く! お母さんを、助けにッ」
「なにをいってる。ただ絵を描いてるだけだ」
「嘘つきッ! 描かせてるんだろ!!」
反抗的な言葉と目が、葉一の心に突き刺さる。
そして、その言葉は、もっとも言われたくない言葉だった。
嘘つきなのは、自分がよくわかっている。
でもだからこそ、自分より弱い存在に、それを指摘されるのが腹立たしくて仕方なかった。
「うるさい! 相変わらず、彩葉は悪い子だ」
「悪いのは、どっちだよ! 俺を虐待してるのも、全部、母さんになすりつけて、うわッッ」
瞬間、口答えが過ぎたのか、彩葉を床に叩きつけられた。
フローリングの上に倒れ込めば、馬乗りになった葉一が、彩葉の細い首を掴む。
「ぅ、ッ──」
キュッと締め上げる感覚に、彩葉は咄嗟に、葉一のワイシャツを掴んだ。
そして、暴れて抵抗するうちに、ワイシャツのボタンが弾け飛び、葉一の肌があらわになる。
父の肌は、傷一つないように見えた。
自分の身体は、痣だらけなのに。
理不尽なその対比に、彩葉は、父の諸行を呪った。
だが、そんな彩葉に向かって、葉一は、さらに冷たい言葉を投げかける。
「謝れ。謝らないなら、このまま殺す」
「っ……!」
指の力が強まれば、同時に、死の恐怖が襲いかかった。
本気だろうか?
いや、本気で、殺すつもりなんてない。
この人は、自分が、不利になるようなことはら絶対にしない。
こうして脅すことで、いうことを聞かせるつもりだ。
「い、や…だ」
苦しみながらも、彩葉は必死に言葉を紡いだ。
自分の首を絞める父をみて、涙が溢れそうになるのは、何故だろう。
好きだけど、大嫌いで
早く死んで欲しいのに
生きていて欲しいとも思う
グチャグチャになった感情は、複雑に入り組んで、正解には決して辿り着けない。
どうして、お父さんは、こんなふうになってしまったんだろう?
本当に、病気なの?
本当に、治ってくれるの?
苦しさと絶望を味わう中、彩葉は、ポケットの中に忍ばせていた注射器を握り締めた。
きっと、俺が謝るまで、お父さんはこの手を離さない。
俺の首を絞めるのを、絶対やめない。
なら──
──プシュッ
「……?」
瞬間、それは音もなく、葉一の肌に突き立てられた。
乱れたワイシャツの隙間から見えた、左胸。
そして、そこから10秒間、彩葉は微動だにせず、苦しみに耐える。
これで、終わる。
苦しかった、12年間。
ずっと、生きている気がしなかった。
そんな日々が、やっと終わる。
「何をやってる?」
彩葉な微かな抵抗に、葉一が失笑する。
ペンのようなものを押し付けられたところで、それは痛くも痒くもなく、だからこそ葉一は、無駄な抵抗だと吐き捨てた。
だが、それは、彩葉には都合がよかった。
注射器には、赤いランプが着いていた。
それが、カウントするごとに、一つ二つと増え、三つ目の表示がつけば、接種が開始され、全ての表示が青に変われば、接種完了となる。
どうか、このまま気づかずにいてほしい。
この表示が青に変わるまで。
あと、6秒、いや、5秒──
意識が遠のきつつも、彩葉は必死にカウントする。
あと少し、もう少し。
お父さんが、変わってくれてれば
お母さんを、助けることができる。
だから──
(2、1──)
───0…
瞬間、ピピッと注射器の表示が、赤から青に変わった。
「うぅッ」
そして、首を掴んでいた葉一は、微かに苦しみ出すと、その後、彩葉の上に倒れ込んだ。
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