第109話 黒と色彩のアーティスト㉚ ~静寂~


 もう直、夜になろうとする19時ごろ。


 彩葉は山根と別れ、自宅であるマンションに戻ってきた。


 夏の夕暮れは、ゆっくりを月を動かし、宵闇の迫る今の景色は、ほんのり薄暗い。


 そして、父の元から逃げたせいだろう。


 山根から、解決策を提示されても、彩葉の足取りは重かった。

 

 反抗し逃げ出した。

 帰ったら、何をされるかわからない。


 それでも、父親を治す方法を教えてもらった彩葉は、母親の和歌を心配するがあまり、自ら戻ってきた。


(本当に、こんなので治るのかな?)


 マンションのエレベーターに乗ったあと、一人きりの箱の中で、彩葉は注射器を見つめた。


 だが、注射器といっても、見た目は、ペンライトみたいな形状で、全く注射器には見えない。


 でも、これでも注射器らしく、山根は、この注射器の使い方もしっかり教えてくれた。


 先の蓋を外せば、中には、微細な注射針が何本も連なっていた。


 最新の技術で作られた注射針らしく、肌にあてても痛みを感じないのだそうだ。


 そして、この注射器を使って、中の薬剤を、葉一に投与する。


 だが、少し注意すべきことは、10秒間、確実に肌に押し当てていなくてはならないということ。


 この注射針には、対象者の体重や血液型などの情報を瞬時に読み取るセンサーが付いていて、肌に押し当てた瞬間、適切な量の薬剤を、注射器側で測定し、注入してくれる。


 だから、医者じゃなくとも、誰でも接種が可能で、子供の彩葉でも扱いやすい注射器らしい。


 だが、その測定に10秒ほどかかるため、途中で測定が中断された場合、薬剤は投与されず、接種は失敗に終わる。

 

 だからこそ、確実に10秒間は肌に押し当てていなくてはならない。


(10秒か……短いようで、長い)


 父の身体に、10秒もこの注射器を当てておくことができるのか?

 起きている時には、確実にできない。


 こんな得体のしれないものを突き立てられたら、殴られて、きっと取り上げられる。


 だからこそ彩葉は、深夜、父が寝静まったとに決行するのがいいだろうと考えていた。


 寝ている時であれば、父だって、そう簡単には起きないだろうから……


(五十嵐さんに、これ以上、迷惑をかけるわけにはいかないし……)


 正直、少し怖かった。

 でも、五十嵐さんを巻き込むわけにはいかない。


 それでも、どうやって接種するかと考える時、五十嵐さんは、かなり悩んでいた。


 子供に危険なことはさせられないと、自分が、接種する方法を模索していた。

 でも、五十嵐さんが接種するためには、家の中ではなく、外で行わなければならない。


 だからこそ、父とタイミングよく接触し、接種するのは、なかなかに難しいことだし、あまり時間をかけると、彩葉への虐待も、その間、ずっと続く。


 だからこそ、彩葉は、自ら、その役目を買って出た。

 

 自分を信じてくれた五十嵐さんに、これ以上、迷惑はかけたくない。

 

 それに、母の事も心配だった。


 父と母は、話をしたのだろうか?


 そして、話したのだとしたら、そのあとは、どうなったのだろう?


 母の話を聞いて、父が虐待を認めるとは思えなかった。


 自分がやっていた虐待の事実を、全部、母のなすりつけるような人だ。


 絶対に、穏便に済むわけがない。


(俺が、何とかしなきゃ……っ)


 山根から手渡された注射器を手に、彩葉は覚悟を決める。


 家に帰るのは、すごく恐かった。


 だけど、逃げ出した時ほどの恐怖を感じていないのは、この注射器を手にしているおかげかもしれない。


 本当に、これで父の病気が治るのか?

 性格が変わって、穏やかな人になってくれるのか?


 それは、まだ半信半疑ではあったけど、不思議と希望のようなものも感じた。


 これで、闇の中を彷徨っていた時間が終わるかもしれない。


 母が希望を込めて描いた、あの黒い絵のように――


 ――ピンポン!


 エレベーターが四階に着くと、彩葉は足を進めた。


 自宅前に着くと、ふぅと深く息を吸って、玄関を開ける。

 

 なぜか、鍵は、かかっていなかった。


 中はとても静かで、父と母が言い争っている気配もない。


 だが、その静けさが、逆に不気味だった。


 夕暮れの空が、ゆっくりと光を失う。

 太陽が、完全の闇の飲み込まれたのがわかった。


 夜が、やってきた。


 門限だって破ってる。

 それでも、帰ってきたのは、母がいると思ったからだ。


 母が、一人で、父と戦ってると思ったから――


「……ただいま」


 玄関で、帰宅の挨拶をした後、彩葉はリビングに向かった。

 父の靴はあったし、確実にいる。


 だけど、なんでここまで静かなのかと、彩葉の鼓動は、よくない方に加速する。


 ギシッ――と、廊下の床が音を立てると、彩葉は、意を決してリビングの扉を開けた。


 すると、そこには、父がいた。


 薄暗い部屋の中で、電気も付けず、たった一人で……


「……お父さん?」


 恐る恐る声をかけると、葉一は、ぬっと顔を上げ


「あぁ、彩葉か。おかえり」


「え……?」


 おかえり。まさか、そんなことを言われるとは思わなかった。


 逃げ出して、しかも、こんなに遅く帰ってきた。


 だからこそ、第一声は罵声だろうと覚悟していた。


 でも――


「今から、夕飯を作るから、手を洗ってきなさい」


「…………」


 状況が呑み込めず、彩葉は凍りついたまま動けない。


 父の様子がおかしい。

 それに、母は今、どこにいるのだろう?


「……お母さんは?」


 お風呂に入っている気配はない。


 なら、寝室だろうか?

 父と、話はしたのだろうか?


 さまざまな内容が、頭の中をぐるぐるとまわっていた。


 すると、それから一呼吸して、葉一が、その答えをだした。


「和歌は、しばらく帰ってこない」


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