第111錠 黒と色彩のアーティスト㉜ ~愛情~


 注射器の表示が青に変わった瞬間、父の葉一は、彩葉の上に倒れ込んだ。


 重くのしかかる父の体温を感じながら、彩葉は大きく息を吐き、その後、手にしていた注射器を床に落とした。


 接種は、完了したのだろう。

 

 薬剤が注入されると、一時的に眠くなると、五十嵐さんがいっていた。


 脱力した父を見て、終わったことを実感した彩葉は、その後、のそのそと父の元から這い出てると、父のポケットの中から、鍵の束を取り出した。


 その鍵の中には、母のアトリエがいるの鍵も混ざっていた。


 すると彩葉は、弾かれたように家を飛び出した。


 父に閉じ込められている、母のもとへと――









   黒と色彩のアーティスト ~愛情~


 





 ***



 日が落ちかけた夕闇の世界は、とても不気味だった。


 夏の暑さが肌にまとわりつく感覚が、気持ち悪い。


 それに、首を絞められていたからか、呼吸はまだ落ち着かず、それでも彩葉は、急いで母のもとに向かった。


 お母さんは、大丈夫だろうか?

 父と話した後、何があったのだろう?


 心の中に芽生えた不安は、どうしても消えなかった。


 それは、夕日が沈むにつれて、彩葉の中を真っ黒に染めあげ、否応にも増殖させていく。


 だけど、もう終わった。

 何もかも、全部。


 きっと、お父さんは、はずだから──


「お母さん!!」


 その後、アトリエにつくと、彩葉は、勢いよくドアを叩いた。


 鉄筋コンクリートでできた真っ白なその建物は、父が絵を描く母のために購入した物件だった。


 何かの事務所だったその場所をリノベーションし、絵を描くためだけの空間を作り出した。


 そして、このアトリエには、幼い頃に、何度か来たことがあった。


 ここにくると、いつも母が笑顔で出迎えてくれた。


 それが、いつからか行かなくなったのは、父に命令されたからだった。


 と──


 そして、行ったら殴られると確信してから、まったく寄り付かなくなった。


 ──ガチャ!


 父からくすねてきた鍵の束から玄関の鍵を見つけだすと、彩葉は手早くアトリエの中に侵入した。


 そして、作業部屋に続く扉を開けると、そこには母がいた。


 彩葉の母親である、黒崎 和歌が──


「え……?」


 だが、その和歌は、アトリエの中で倒れていた。


 キャンパスの前に、力なく横たわり、ピクリともしない母親を見て、彩葉は慌てて駆け寄る。


「お母さん! お母さん、大丈夫!?」


 必死に声をかけ、母親を揺さぶる。


 カラン──

 

 だが、その瞬間、足元に何かが触れた。


 側に転がっていたのは、透明なビンだった。


 そして、その瓶の中には、錠剤が何粒か残っているのが見えた。


「え? なにこれ……?」


 薬だ。薬の瓶。

 

 そして、それを手に取った瞬間、同じ瓶が、部屋中に転がっているのがわかった。


「え……?」


 そして、その他の瓶は、全て空になっていた。

 

 山のように転がる薬瓶。


 そして、その異様な光景を見てして、彩葉は蒼白する。


(これ……何の薬?)


 ドクンドクンと、鼓動が早まる。


 こんなに、たくさん何に使ったの?

 

 まさか、飲んだの?

 これだけの薬を、全部?


「お、母さん! ……お母さん!」


 瞬間、横たわる母を、必死に揺さぶり、彩葉は起こそうと試みる。

 

「起きて……! 起きて、お願い、お母さん、起きてよ!!」


「っ……」


 すると、その瞬間、和歌が、うっすらと目を開けた。


「ぃ、ろ……は?」


「お母さん……ッ」


 弱々しく声を発した和歌は、たしかに息子の名を呼び、彩葉は涙目になった。


「お母さん、なんで……何があったの? この薬は、なに?」


「なにって……ただの、精神あんてぃ剤よ……これを……飲むとね? 絵が……よくかけるきがするの……っ」


「描けるって……っ」


 その言葉に、彩葉は困惑する。


 だから、こんなに飲んだの?

 いつも、薬に頼りながら描いてたの?


 でも、なんで?

 なんで、そこまで、あの絵を描こうとするの?


「病院……病院に行こう! こんなに飲んだら……!」


「ダメ……わたしは、ここから出られない……私が、ここを出たら……また彩葉に、酷いことするって……っ」


「……っ」


 それは、父が言ったのだろう。


 息子を人質にとって、父は、強制的に母に絵をかかせているのだと分かった。


 でも、もう終わった。

 全部、何もかも──

 

「もう、いいよ! もう描かなくていい! お父さんは、元に戻ったから……!」


 昔、母が言っていた、優しい人に。

 きっと、戻ってくれたはずだから──


 だが、彩葉が必死に訴えるも、和歌は、涙を流しながら


「戻ら、ないよ……ごめん、ね……わたし間違ってた……葉一は……私のことなんて…愛してなんてなかったの……愛してたのは……っ」


 あの人が愛してたのは、私が描く絵だけ。

 

 あの真っ黒な絵の為だけに、彼は私と結婚した。


 だから、元になんて戻らない。

 

 優しかったあの人は、もう戻ってこない。


「ごめんね……いろは……わたし、離婚してって言ったの……でも……離婚して…もらえなかった……っ」


 涙を流す和歌は、息子を助けてあげれないことを悲観していた。


 だが、それでも朦朧とする体を起こした和歌は、また筆を握りしめた。


「でもね……ひとつだけ、お願いを……聞いて貰えることに…なったの……あの絵を、に描きあげたら……離婚して…くれるって……っ」


 目の前のキャンパスには、色鮮やかな世界が広がっていた。


 まるで天国のような、光にあふれた華やかな世界。


 澄み渡った青空。

 光り輝く湖。

 そして、色鮮やかな花々。


 どこからか小鳥の囀りですら聞こえてくるような‪、色彩豊かな世界。


 だが、その世界は、すでに半分ほど、真っ黒に塗りつぶされていた。


「お母さん、もう、やめて……もう、いいよ、もう」

 

 ふらつきながらも描き続ける和歌を、彩葉が、必死になって静止する。


 だが和歌は、それでも描くのをやめなかった。

 

「あと、少し…なの……今なら、描けそうなきがするの」


 忘れかけていた絶望を、やっと思い出した。


 だから──


「だから、もう少しだけ……待ってて……っ」


 そう言って微笑んだ和歌は、不安がる彩葉を、きつく抱きしめた。


 まるで、幼子をあやす様に。


 そして、その瞬間、昔は甘かった母の香りが、全て塗り替えられていることに気づいた。


 毎日、毎日、書き続けてきた油絵の香り。


 それが今の、母の香りだった。

 

 そして、その香りに包まれた瞬間、腕の中に収まった彩葉に向けて、和歌が優しく囁く。


「もう、だいじょうぶよ……いろは、私が、絶対に…守る……もう、あんなにひどいこと…させたりしない……っ」


「……っ」

 

 そう言われた瞬間、彩葉は涙を流した。


 母は、何を言っても描くのを辞めなかった。


 だけど、こうまでして絵を描いているのは


 全部全部、俺のためなのだと──


「っ……お母さ」


「彩葉……いろは……もう、だいじょうぶだから……やっと、描けそうなの……あと少しで、扉の向こうに行ける……明るい場所にでられる……だから……っ」


 だから──


「もう泣かないで……この絵が完成したら……二人だけで……暮ら…せる……から……ね」


 だが、その言葉を最後に、和歌は目を閉じた。


 カタン──と、筆が落ちる音が響くと、和歌は、彩葉を抱きしめたまま動かなくなった。

 

 あと少し。

 扉は、もう目の前にあった。


 だが、和歌は、その扉を開けることなく、力尽きてしまう。



 薬を飲みすぎたことによる、オーバードーズ。


 息子を守るために


 少しでも絶望に近づこうとした母親は

 

 結局、その絵を描き上げることなく


 生涯を閉じた。



 腕の中に、彩葉を抱きしめたまま。



 彼女は、最後の最期まで



 愛する子の幸せを願っていた──…


 

 

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