第107錠 黒と色彩のアーティスト㉘ ~正解~
「どこに逃げても……絶対、連れ戻される…っ」
その言葉に、山根は息を呑む。
だから、彩葉は、父親の性格を変えたいと言っているのだろうか?
父親が、別人に生まれ変われば、安心してくらせるかもしれないと、考えて──
(連れ戻される、か……)
この子の言っていることが正しいなら、警察に駆け込むのが正しいかどうかすら、判断に迷ってしまう。
いや、警察に行くのが一番いい。
警察だって馬鹿じゃないし、事情を話せば、すぐに保護してくれる。
だが、問題は、その後だ。
一時的に保護されたとしても、外面のいい父親の場合、すぐに連れ戻される可能性がある。
そして、その後は──
「……っ」
嫌な想像が過って、山根は唇を噛み締めた。
彩葉にとっては、恐怖しかないだろう。
外面のいい父親は、外では善人を装い、家のなかでは、悪魔のような所業をくりかえしている。
それに、葉一は、彩葉の母親にも、執着しているようだった。
お母さんの絵が好きだから──と子供の口から出た言葉は、とても微笑ましい言葉だが、現状は、狂気的な言葉でしかない。
「痛…っ」
「大丈夫か?」
瞬間、彩葉が、肩を押さえた。
怪我をした場所が痛むのだろう。
山根は、一旦話を中断すると、佐々木からもらった薬や救急箱を手にして、また戻ってくる。
「先に、その肩を手当をしよう。起き上がれるか?」
「……うん」
彩葉が、ゆっくり起き上がれば、手当てをするため、Tシャツを脱がせた。
すると、彩葉の上半身が露わになったことで、山根は眉を顰める。
佐々木が診察する時は、ちゃんと見れなかったが、虐待のあとがひどかった。
強く掴まれたのか、肩は赤くなっていて、爪が食い込んだ箇所は傷つき、血がにじんでいた。
「ひどいな。この肩も、父親にやられたのか?」
「うん。さっき、エレベーターの中で」
「そうか……ちょっと、染みるけど、我慢しろよ」
「いッ、オジサン……痛い…っ」
「だから、しみるって言っただろ」
消毒する際に染みたのか、彩葉が泣きそうな声で、そう言って、早く手当てを終われるよう、山根は、テキパキと手を動かした。
できるだけ痛みを与えないよう、丁重に扱いながら、消毒をし、ガーゼを当てる。
そして、そんな山根に向かって、彩葉が、小さくつぶやく。
「おじさん……オレ、これから、どうすればいいのかな…っ」
その切実な声は、恐怖の蝕まれていて、彩葉の不安が、山根の心にも伝わってくるようだった。
逃げ場のない毎日を必死に耐えて、今ここにたどり着いた。
だが、このままこの子を、こちら側の世界に引きずり込んでいいものか、山根は迷っていた。
一度、この世界に足を踏み入れてしまえば、もう普通の生活には戻れない。
裏社会で、生きるということは、そういうことだから──…
「お母さんは、今、どうしてるんだ?」
恐がってる彩葉に、山根が問いかけた。
彩葉は、顔を俯かせたまま
「多分、家にいる……お父さんが帰ってきたら、話してみるっていってたから」
「話すって、虐待の事についてか?」
「うん」
「……そうか」
息子を虐待していたことについて、夫婦で話し合う。
なかなかに、重い内容だ。
そして、その話し合いの引き金を引いたのは、自分なのだろう。
児童相談所に通報したのは、自分だから──
「心配だよな。お母さんのこと」
「うん。お母さんは、お父さんが、元に戻ると思ってるから」
「え?」
「お母さんが、絵を描けなくてなってから、お父さんは、イライラするようになったんだって。だから、また、あの黒い絵を描けたら、お父さんは、元に戻ってくれるって──」
だから、母は、今も父を信じてるかもしれない。
母は、そう言う人だから。
大切だからこそ、信じようとする。
家族だから、理解しようとする。
でも──…
「元に、戻れば……良かったのに…っ」
不意に、彩葉の瞳から涙が溢れ出した。
押さえ込んでいた感情が決壊するように、悲しみの涙が、ともどなく頬を流れる。
元に、戻れば良かった。
優しい方が、本当のお父さんであって欲しかった。
でも──
「戻るさ」
「え?」
不意に、山根が口を挟んだ。
「もし戻せたら、彩葉は、その後、どうしたい?」
「……っ」
山根の言葉に、彩葉はくしゃりと表情を変え、また涙を流した。
戻せるわけがない。
それは、よくわかっていた。
でも、もしも、戻せるのなら
「三人で……仲良く暮らしたぃ……っ」
涙は止まることなく流れて、それは、同時に純粋な思いを吐き出させた。
そして、これが、彩葉の本心なのだろう。
どんなに痛い思いをしても、それでも、耐えてきたのは、いつかそんな日が来るかもしれないと、願っていたから。
両親に愛されて、仲良く笑い合える日が来ることを──
(きっと、一番正しい判断は、警察に行くことなんだろうな?)
そんなのは、よくわかっていた。
きっと、普通の大人なら、そう判断する。
だが、残念ながら自分は、普通の大人ではなかった。
倫理も常識もあいまいな社会で、自分たちが思う『正義』を貫いている、普通とはかけはなれた歪な存在だ。
でも、だからこそ、わかることがある。
今、この子に必要なのは『正解』ではないということも──…
「俺が、治してやろうか?」
「え?」
そう言って、山根が優しく笑うと、彩葉は大きく目を見開いた。
父親は、嘘つきで
母親は、騙されていて
本音で話せる大人がいない中、彩葉は山根の元に来た。
なら、今、この子が唯一、弱音を吐ける相手は、自分しかいないのだろう。
なら、全て受け入れてやるしかない。
警察に行けば、なんとかなるなんて、そんな曖昧な正解をつきてけても、彩葉の不安は消えやしない。
それどころか、さらに心を閉ざしてしまうかもしれない。
この人も、自分の言葉を信じてくれないのかと──
今、この子に必要なのは、自分の話を信じて、どんなわがままも聞き入れて、なにもかも肯定してくれる大人の存在。
なら、たとえ『不正解』でも、この子の心が救われる道を選ぼう。
この子が、もう二度と『大人を信じない』と、諦めてしまう前に──
「な、治せるの?」
彩葉が、困惑ぎみに見つめれば、山根は、明るく笑いながら
「あぁ、治せるぞ! 彩葉のお父さんは、今、病気にかかってるんだ」
「病気?」
「そう。そして、俺はそれを治す方法を知ってる。でも、ここから先は、絶対に誰にも言っちゃいけない。父親にも、母親にも、誰にもだ。約束できるか?」
その話に、彩葉が、微かにホッとした表情を見せた。
そして、彩葉は涙で顔をいっぱいにした彩葉は、小さくだが、しっかりとした声で「うん」と頷いた。
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