第106錠 黒と色彩のアーティスト㉗ ~呪縛~


 彩葉が目が覚ますと、そこは知らない場所だった。

 

 白い天井と、大きめのベッド。そして、ふと目を逸らせば、その先には、五十嵐がいた。


「ありがとうございました、佐々木さん」


 部屋の扉の前。

 五十嵐は、誰かと話をしているようだった。


 昼間、一緒にいた若い男の人とは違う。

 ちょっと渋い感じのおじいさん。


 品のいいワイシャツを着たそのおじいさんは、佐々木というらしい、ペコペコ頭を下げる五十嵐に向かって、少し仏頂面で答える。


「別にかまわん。これでも、元・医者だ。頼りたい時は、頼れ。それと、一応、呼吸は安定したし、脈拍も正常だ。ただ、虐待の痕がな。薬と湿布も処方しとくから、起きたら、手当してやれ」


「はい。本当に、助かりました。ちょっとワケありっぽい子なので、病院に連れて行っていいものか迷いまして……やっぱ、持つべきものは、医師免許を持った上司っすね! いやー、マジ助かる!」


「相変わらず、調子の良い奴だな、お前は。それより、仕事は大丈夫なのか?」


「はい。ちょうど 一段落ついたところでしたし、夜までフリーですよ」


「そうか。じゃぁ、ワシはもういく。その子のことは頼むぞ」


「はい」


 佐々木というおじいさんは、その後、部屋から出ていって、五十嵐は、扉をしめた後、パソコンの前にこしかけた。


 よくみれば、ここは、ホテルの中だった。

 

 初めて入ったホテルの中は、なんだか、さっさりしていた。


 白を基調とした、落ち着いた空間。

 中はとても広くて、男の人がひとりで過ごすには、少し違和感があるくらいだった。


「彩葉? 起きたのか?」


 すると、彩葉が目を覚ましたのに気づいたらしい。

 

 パソコンに向かっていた山根は、一旦それを中断し、彩葉がねむっていたベッドの前までやってくる。


「大丈夫か?」


「………」

 

 山根に声をかけられて、彩葉は、ゆっくりと顔をあげる。


 大丈夫かといわれたら、大丈夫ではなかった。でも──


「……大丈夫」

 

「大丈夫ってお前、どうみても大丈夫じゃないだろ。びっくりしたんだぞ。急に倒れるから」


 無我夢中で走って、気がついたら、この人がいた。


 無意識に助けを求めようとしたのかもしれない。他に、頼れる人はいなかったから。

 

「さっきの人は?」


「え?」


 すると、彩葉が佐々木のことを尋ねて来た。

 山根は、彩葉の前にイスを置き、それに個しかけると


「佐々木さんは、医者だよ。もう引退してるけどな。腕は確かだ。あと、診察する時に、少し服をまくり上げた。見られたくなかったかもしれないが、仕方なかった。ゴメンな」


「……」


 ごめんな。そういって謝る山根を、彩葉は、何も言わず見つめていた。


 見られたんだ、身体の痣。

 

 一時期よりは、マシになった気がしたけど、この反応だと、マシではなかったらしい。


 すると彩葉は、父親の元から、逃げ出したことを思い出す。

 

 逃げても、何も解決しない。

 それなのに逃げてしまった。


 そのせいか、顔色が一気に悪くなった。


「彩葉、何があったんだ?」


 すると、絶望的な顔をした彩葉をみて、山根が声をかけてきた。


 何が──そういわれた瞬間、さっきのことを思い出した。


 信じられなかった。

 あの父の言動が──


 あろうことか父は、自分が行なっていた虐待を、母のせいにした。

 

 まるで自分は、関係ないとでもいうように、母だけを悪者にした。


 だからこそ、ショックを隠せなかった。

 

 父は、家族を愛していない。

 むしろ、大切にしようとすらしていない。

 

 あの人が、大切にしているのはだ。


「おじさん……人って変えられるの?」


「え?」


「人の性格って、どうやったら変えられる?」


「……」


 不意に予想外の話をふられ、山根は、息を呑んだ。

 

 今しがた、客とそんな話をいていたからか、脳裏には、すぐさま例の薬のことが過る。


 だが、colorfulのことは国家機密だ。   


 気軽になさせる内容ではないし、なにより、子供には、絶対に関わらせてはいけない


「そうだなぁ、やっぱり、自分で変わる気にならないと、性格って変わらないもんだと思うぞ」


「……自分で?」


「あぁ、他人が変えるのは、まず無理だ。だから、自分で気づくしかない。彩葉は、自分の性格を変えたいのか?」


「ううん。俺じゃない。変えたいのは、の方」


「……え?」


 虚ろな目をした彩葉は、冗談ではなく、本気で、そう言っていた。


 父親の性格を変えたい。

 

 そして、そう思ってしまうくらい、彩葉の心は、もう限界を迎えていた。

 

「お母さんの……せいに……したんだ」


「え?」


「俺を殴ってるのは、お父さんなのに……全部……お母さんが、やった話に……された…っ」


 思い出すと、身体が震えた。


 平気で嘘をついて笑っている父が、怖くて仕方なかった。


 あの人は、人間じゃない。

 人間だったら、あんなこと言ったりしない。


 人は、もっと優しいものだ。

 そう信じていた。


 だから、いつかは、元に戻ってくれると思っていた。


 お母さんが言っていたように、今のお父さんは、本当のお父さじゃないんだと。


 だけど、もうハッキリわかった。


 お父さんは、変わらない。

 あの人に、愛情なんてない。

 

 だから、変えなきゃいけない。

 

 お母さんのためにも──…


「おじさん、知ってるんでしょ? 人の性格を変える方法」


「……っ」


 瞬間、彩葉が、山根を見つめた。


 純粋なその瞳は、吸い込まれそうなほど綺麗で、嘘をついても、見抜かれてしまいそうなほどだった。


 そして、まるで確信しているような彩葉の言動に、山根は眉を顰める。


「お前……もしかして、聞いてたのか?」


「うん」


「どこで?」


「お昼前、ホテルの外で、お兄さんと話してたのを聞いた。色が、どうのって言ってた」


 色──そう言われた瞬間、山根は頭を抱えた。


 どうやら、彩葉は、客との会話を聞いてしまったらしい。


 そして、それは、山根にとっては、大失態と言ったところで


(マジかよ! しかも、こんな子供に?!)


 確実に、上からお叱りを受けそうな事態だった。減給、もしくは、資格剥奪?


 残念すぎる未来がよぎって、山根は脱力する。


 だが、知られてしまったとしても、子供を巻き込む訳にはいかなかった。


「彩葉、今すぐ警察にいこう。だから、その話は忘れろ」


「え、警察……?」


「あぁ、虐待の被害を受けてるって言えば、警察が、父親を逮捕してくれる」


「逮捕? できるの?」


「できるさ」

 

「どうかな? だって、俺のお父さん、すごくだし」


「え?」


「みんな騙されるんだ。先生も、友達も、お母さんも、みんな騙されてる……警察だって、きっと、同じだ。お父さんと話してるうちに、みんな、いい人だと勘違いして、逮捕までいかない」


「そ、そんなことは」


「あるよ。お父さん、そういうのが上手いから。きっと、おじさんも、俺より先に、お父さんと出会ってれば、お父さんの方を信じてるよ」


「……っ」


 ベッドに横たわる彩葉は、決して取り乱すことなく、淡々と答えた。


 波紋ひとつ浮かばない湖のような穏やかさは、全く子供らしくなく、どこか、心をなくしているようにも見えた。


 まるで、糸がプツンと切れてしまったように、感情の波がない。


 そして、そうなってしまったのは、この子が、これまでに見てきた世界のせいなんだろう。

 

 外面のいい父親に、周りの大人たちは、みんな騙されてる。


 そして、そのせいで、この子は、助けを求めることをやめてしまったのだろう。


 大人を信じることが、できなくなってしまったから──…


「お願い、おじさん。迷惑はかけないから、やり方だけ、教えて……っ」


 その切実な声が、心に重くのしかかる。


 どうしてやるのが、一番いいのか?

 この子の、これからを考える。


 すると、山根は

 

「彩葉、やっぱり、警察に行こう。俺がちゃんと話してやる。そうすれば、すぐに保護されて」


「でも、俺が保護されたら、お母さんが、一人になる……俺がいなくなったら、今度は、お母さんが、酷いことされるかもしれない……それは、絶対にヤダ……っ」


 静かに話す彩葉の目には、涙が溜まっていた。


 この子は、母親のために、ここまで我慢をしていたのだろうか?

 

 自分が保護されても、残されたあとの母親のことを心配して──


「大丈夫だ。お母さんのことも一緒に話せば、母子ともに保護してもらえる」


 山根が、明るく提案する。

 だが、彩葉は、ふるふると首を振ると


「ムリだよ。絶対、逃げられない」


「え?」


「お父さんは、お母さんの絵が大好きだから、絶対に、お母さんを手放さない。だから、どこに逃げても……絶対、連れ戻される……っ」


 それは、どことなく狂気を孕んだ言葉で、山根は息を呑んだ。


 連れ戻される?

 逃げられない?


 だから、彩葉は、父親の性格を変えたいと言っているのだろうか?

 

 父親が、別人に生まれ変われば、安心してくらせるかもしれないと、考えて──



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