第105錠 黒と色彩のアーティスト㉖ ~離婚~
「すまない、和歌。俺が悪かった」
「……っ」
抱きしめられた瞬間、和歌は目を見開いた。
謝っているということは、反省しているのだろうか?
その腕は、とても頼りがいのある腕だった。
大きくて、逞しくて、優しい夫の腕。
抱きしめられると、とても安心したし、愛されてると実感して、心も満たされた。
だから、この腕を、ずっと信じていた。
疑ったことなどなかった。
優しい夫は、家族を愛してくれてると思っていた。
だけど、今思えば、葉一は、いつもこうだった。
喧嘩になった後は、必ずと言っていいほど抱きしめてくる。
優しい声で『すまなかった』
『俺が悪かった』と言って、甘い声をかけてくる。
そして、単純な私は、それで許してしまっていた。
どんなに酷いことを言われても、謝ってくれるなら、それでいいって。
でも──…
「やめて! そうやって、簡単に丸め込もうとしないでッ」
その瞬間、葉一の手を振りはらった和歌は、大声を上げて反駁した。
「いつもそう! 一方的に謝って、終わらせようとする! でも、今回は、私のことじゃない! 子供の、彩葉のことなの!」
自分のことなら、許してあげられた。
でも、今回は違う。
子供のことだけは、彩葉を傷つけたことだけは、絶対に許せない。
「なんで、虐待なんかしたの…!」
脳裏には、彩葉が、泣きながら謝る姿が浮かんでいた。
何も悪くないのに、彩葉は、何度も何度も、謝っていた。
まるで、自分がダメな子だとでもいうように。
そして、あの姿を思い起こせば、彩葉が、どれほども恐怖を抱えて過ごしていたのかが、よくわかった。
「どうして、あんな酷いことができるのよ……彩葉の身体、叩かれたり殴られたりした痕が残ってた。それも、見えないところにばかり!」
泣きそうになりながら、必死に話をする。
冷静に話し合おうと思ったのに、心の中には、悲しさと後悔でいっぱいになり、それが堰を切ったように溢れ出した。
いくらなんでも、あれはあんまりだ。
「どうして……? しつけが行き過ぎたにしても、あそこまでする必要はないじゃない! 彩葉、怖くて家に帰れなくて、暑い中、公園で宿題やったしてたって……っ」
声は、ところどころ震えていた。
彩葉の気持ちを考えると、今にも涙があふれそうだった。
幼い日の、自分が重なる。
親が怖くて、仕方なかった。
家に帰るのが嫌で、毎日毎日、親の機嫌をうかがいながら、生きていた。
今日は、機嫌がいいだろうか?
それとも、悪いだろうか?
虫の居所が悪ったら、まるで、憂さ晴らしでもするように、殴られたり、蹴られたり。
そして、夫婦喧嘩だって耐えなくて、家の中には、常に乱暴な言葉が飛び交っていた。
そして、そんな世界にいたからこそ、私はあんな親になりたくないと思った。
私は、絶対に子供に手を上げない。
子供が安心してくらせる、優しい家族を作りたい。
そう、思っていたはずなのに──…
「信じてたのに……葉一は、絶対にそんなことしないって…ッ」
信じていた。
愛していたからこそ──
だけど、これは紛れもない現実で、夫に裏切られたからか、和歌の瞳からは、大粒の涙がこぼれ出した。
優しい人だと思っていた。
いや、実際に優しい人だった。
だけど、そんな葉一が、彩葉を虐待していた。
彩葉が、お腹や頭が痛いといっていたのは、葉一に殴られた痛みのせいだった。
テストで悪い点を取ったら、ご飯すら食べさせてもらえなかったらしい。
でも、それを、葉一に口止めされていた彩葉は、誰にもいえず、一人で抱え込んでいた。
不自然にできた痣も、学校で転んだと嘘をついて、私にすら内緒にしていた。
そして、それに気づいてあげられなかった自分が、一番腹立たしい。
「もう、二度とこんなことしないで。それに、謝るなら、私じゃなくて彩葉に謝って! あの子が、どんな思いで、今まで──ッ!!」
瞬間、和歌は崩れ落ちた。
頬に鋭い痛みが走り、壁に強くぶつかった和歌は、ずるずると廊下の床にへたり込む。
「え…?」
何が起きたか、よくわからなかった。
だが、頬が痛いと実感した瞬間、叩かれたのだと気付いた。
口の中には、血の味が広がっていた。
口の中を切ったのかもしれない。
そして、そっと口元に手を添えた和歌は、肩を震わせる。
(た、叩かれた……っ)
声すら出せなくなったのは、幼い頃の記憶が甦ってきたからかもしれない。
それに、初めてのことだった。
葉一に、手をあげられたのは──
「和歌」
「い、痛いッ」
瞬間、和歌の髪を掴んだ葉一は、乱暴に和歌の頭を揺さぶった。
「上からものを言うな。まるで、俺が悪いみたいだ」
「わ、悪いって、虐待してたのは葉一でしょ!」
「そうだな。でも、お前はどうなんだ? 家事も育児もせず、彩葉のことは、俺にまかせっきりだっただろ」
「っ……そ、それはそうだけど。でも、葉一が、するなって」
「そうだな。だって、お前、どんくさいんだよ。下手に動くと、逆に仕事が増える」
「……ッ」
渇いた笑みを浮かべた葉一は、まるで別人みたいだった。
この人は、誰だろう?
私が愛した人は、こんな風に笑う人だっただろうか?
「ご、ごめんなさいっ。葉一に、任せっきりだったのは謝る。でも、だからって、彩葉にあたる必要はないでしょ! 私に文句があるなら、私に言えばいいじゃないッ」
「五月蝿い。お前は、口答えする資格はない。それに、彩葉も同じだ」
「え?」
「お前と一緒で、いつも、つまらないミスばっかりで、全く完璧じゃない」
「……かん、ぺき?」
その言葉に、和歌は目を見開いた。
(完璧じゃないから、虐待したの?)
だいたい、完璧ってなに?
人は、完璧になれるものなの?
「なに言ってるの? 葉一だって……完璧じゃないでしょ?」
力なく、それでも疑問に思ったことを問いかければ、葉一は迷うことなく
「俺は完璧だよ。昔から、ずっと、そう言われてきた。だから、お前達も、そうならなきゃいけない」
「え?」
「俺に、相応しい妻と子になるんだよ。彩葉は、あと少しだ。やっぱり、俺の育て方は間違ってなかった。そして和歌、お前は絵の才能だけはある。それだけは完璧だ。むしろ、それしかない」
「……っ」
それしかない。
そう言われた瞬間、和歌は唇を噛み締めた。
絵だけは完璧だから、ずっと絵を描けといっていたの?
あなたに、相応しい妻になるために?
「なにそれ……っ」
話についていけなかった。
確かに、葉一は器用だし、なんでもできる人だ。
だから、完璧に近い存在なのかもしれない。
だけど、これだけは言える。
他の何が優れていても、子供を虐待する人が、完璧であるはずがない。
「あなたは、完璧なんかじゃないッ」
暴力を振られながらも、和歌は必死に抵抗した。
なにより、葉一は全く反省してなかった。
それどころか、自分が『正しい』と思っていた。
だから、きっと繰り返す。
完璧を求めれ葉一は、この先、ずっと彩葉をいたぶり続ける。
なら、離れなきゃいけない。
彩葉を守るためにも──
「離婚、してッ」
瞬間、和歌は絞りますように、そう告げると
「リビングの引き出しの中に、離婚届が入ってる。そんなに、私と彩葉がダメだっていうなら、今すぐ離婚して!」
張り上げた声は、真夏の廊下に響いた。
和歌の長い髪を力強く掴む葉一は、むりやり和歌の顔を上げると、冷えた言葉を投げかける。
「離婚? 彩葉を一人で育てる気か?」
「そうよ! 離婚して、私が育てる! それに、私と彩葉は、完璧になりたいなんて思ってない! あなたの理想を、勝手に押付けないで──きゃッ!」
バタン!!
瞬間、激しく床に叩きつけられた和歌は、小さく悲鳴をあげた。
「ぃたぃ、やめ…お願いッ」
痛みが増す度に、和歌は涙を流した。
彩葉は、こんな仕打ちに耐えていたの?
ショックを受けつつも、暴力がエスカレートして行く葉一に、和歌は何度も「やめて」と懇願する。
だが、葉一はやめてくれなかった。
それどころか、髪を引っ張り、罵声をあびせつづける葉一は、和歌に言い聞かせるように
「謝れ。俺を侮辱したこと。それに、絵を描くしか脳がない女が、子供を一人で育てられるわけがないだろう。俺がいないと何もできないくせに」
「ぃ、……っ」
暴力の合間に、心を抉るような言葉をたくさん浴びせられた。
お前ダメな女で、苦手なことばかりで、妻としては、全くふさわしくない。
まるで、心を折ろうとでもするように、それは、絶え間なく続いた。
なんだか、子供のころに戻ったみたいだった。
否定され続けた、あの日々。
痛みに支配された日々。
だが、一つだけ違うのは──
「あぁ、すまない。手は大丈夫か?」
「……え?」
その瞬間、優しく手をとられた。
まるで、いたわるように手を握る葉一は、和歌の知っている葉一だった。
だが──
「手は大事にしろ。怪我をしたら、絵が描けなくなる」
「……っ」
そう、いわれた瞬間、和歌は全て理解した。
暴力を振るっておきながら、手の心配はする。
葉一にとって価値があるのは、私の描く絵だけった。
世界から高く評価された、あの『黒い絵』だけ。
「私や彩葉より……絵が…大事なの?」
乾いた笑みが、もれる。
葉一は、なんで私と結婚したの?
私のこと、本当に愛してた?
「あぁ、大事だよ。だから、離婚はしない。お前は、俺の言うことを聞いていればいいんだ。だから、描け。死ぬまで、ずっと──」
死ぬまで──そう言われた瞬間、和歌は涙をながした。
葉一は、私のことなど愛してない。
家族のことなんて、全くあいしていない。
愛してるのは──"自分"だけだ。
「おねがぃ……もう、許して……っ」
力なくお願いするが、葉一は、決して離婚するとは言わなかった。
そしてそれは、まるで闇の中に、沈みこむような感覚だった。
久しく思い出せずにいた「絶望」に
再び、会えたような──…
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