第100錠 黒と色彩のアーティスト㉑ ~救済~


 ✣✣✣


「だ、誰が来たの?」


 あれから、どれくらいたっただろう。

 

 ホテルに缶詰を食らった彩葉と葵は、神木家のマンションを見守りながら、ずっと話をしていた。


 梁沼に狙われている神木君を守るために、今夜は、眠らずに見張ることになった。


 ホテルの中には、彩葉と葵の二人だけ。


 そして、彩葉のことを『もっと知りたい』と葵に言い出したため、彩葉は、退屈しのぎになるかと、昔話を始めた。


 幼い頃の話だ。

 この組織に入るきっかけになった話。


 だが、思いおこせば、なかなかに辛い記憶で、心はどんより暗くなる。


「ていうか、夜に鳴るインターフォンって不気味だよね?」

 

 だが、心は重いが、横から葵が『次はどうなるの?』『五十嵐って、山根さんでしょ?』なんて言いながら、子供のように話しかけてくるため、ホテルの中は、思ったより明るかった。


「私、一人暮らししてるんだけど、夜の鳴るインターフォン、苦手なんだよねー」


「まぁ、女の一人暮らしなら、当然なんじゃない?」


「そうかな? まぁ、私強いし。強盗とか暴漢がやってきたとしても、ねじ伏せる自信はあるんだけどね!」


「……そう」


「で、けっきょく、誰が来たの?」


「誰だと思う?」


「ちょっと、質問に質問で返さないでよ。気になってるのに」


 のんびりお菓子をつまみながら、二人きりで話をする。


 内容は、そこそこ重いはずなのに、葵が定期付きに、どうでもいい雑談を入れるからか、そこまで深刻にならないのは、むしろ助かった気がした。


「つーか、何となく分かるだろ。流れ的に」


 すると、彩葉が呆れたように、笑う。


 今の話の流れから、何となく来た人物が分かると思った。だが、葵は首を傾げながら


「えー、流れ的にって、やっぱり、父親?」


「なんでだよ。あの時、親父は海外に出張中だった」


「でも、仕事が早めに終わって帰ってきたとかあるじゃん」


「そうだけど。残念ながら不正解」


「え~。じゃぁ、誰だろう?」


 葵が、うんうん唸りながら首を捻る。

 だが、どうやら、本当に分からないらしい。

 

 すると、彩葉は──


「しいて言うなら、救世主かな?」


「救世主?」


「あぁ、あの日、俺を助けようと、わざわざ来てくれた人。でも──」


 今更、過去は変えられない。


 だからこそ、あの時の後悔が、今も胸の奥でつかえてる。

 

「時々、思う。あの時、俺を助けようと伸ばしてくれた手を、しっかり掴んでいたら、また違った未来があったかもしれないって」


 あの日、あの時、あの瞬間が、全ての分岐点だったのかもしれない。


 あそこで、差し伸べてくれた他人の手を、臆することなくとれていれば、素直に『父に虐待されている』と話せていたとしたら


 母が死ぬことは

 なかったかもしれないと──…



 




 黒と色彩のアーティスト ㉑

 ~救済~






 

◆◆◆

 

 ──ピンポーン。


 インターフェンが鳴った瞬間、彩葉は身構えた。もしかしたら、父が帰ってきたのかと思った。


 だけど、よくよく考えたら、父は仕事で海外にいるはずで、それは、ありえなかった。


 だが、父でないなら誰なのか?

 少しだけ冷静になりつつも、彩葉は首を傾げた。


 すると再び、インターフォンが鳴って、和歌が立ち上がった。


「はーい」


 スタスタとリビングを出た和歌は、玄関まで向かう。


 今の時刻は、19時すぎ。そして、覗き穴から外を確認すれば、そこには女性が一人立っていた。


 40代くらいの髪の長い女性だ。

 

 モスグリーンのジャケットに、白のパンツ。首には社員証のようなものをかけていて、怪しい雰囲気は全くない。

 

 だが、どう考えても知らない女性だった。


「あの、どちら様ですか?」


「夜分に遅くに失礼致します。こちら、黒崎さんのお宅で、お間違いないでしょうか?」


「はい、そうですが」


「あの、私、児童相談所の職員の渡部と申します」


「お? 児童……相談所?」


 和歌が玄関をあけた瞬間、渡部と名乗った女性は、深く頭を下げる。


 だが、その女性が、児童相談所の職員だと聞き、和歌は困惑する。


(児相が、なんで、うちに?)

 

 心当たりは、全くなかった。


 だが、児童相談所がどんな所か、和歌はよく分かっていた。


 こうして前触れもなく訪れるのは、子どもを守るためだから──…

 

「あの、なにかあったんですか?」


「はい。大変申し上げにくいのですが、虐待の通報がありまして、状況を確認させて頂きたくて……今、黒崎 彩葉くんは、いらっしゃいますか?」


 その言葉を聞いて、和歌はすぐに納得する。

 

 彼女は、通報があったから虐待の事実がないかを、確認しに来たのだろう。


 和歌も、そうだった。

 幼い時、児童相談所の男性が訪ねてきた。

 

 だけど、なんで彩葉が?


「……お母さん?」


 すると、玄関先のやりとりを聞いていたのか、彩葉が、リビングから顔をだした。


 和歌は、彩葉と目を合わせると、今一度、虐待という言葉を咀嚼する。


 彩葉は、学校にもちゃんと行っている。

 

 身なりだって綺麗だし、清潔な家に住み、しっかりとした食事をとっていた。


 それは、和歌が幼かった時の環境とは、全く違う幸せな環境だった。


 和歌の両親は、暴力を振るう親だった。


 家もとても汚くて、足の踏み場もないくらい、たくさんの物で溢れていた。


 ゴミがいたる所に散乱していて、タバコと生ゴミが交ざったような臭いが、身体に染み付いて離れなかった。


 そして、あの時の自分と、今の彩葉は全く違う。


 だからこそ『虐待で通報された』という言葉を、上手くのみこめなかった。


「あの、なにかの間違いじゃないですか? うちは虐待なんて」


「とりあえず、彩葉くんと、お話させていただいてもいいですか?」


 児童相談所の職員は、優しく和歌を諭すと、その後、彩葉にも笑いかけた。


 そして、話をと言われ、彩葉は緊張の面持ちで、女性の前に立つ。


(通報、誰がしたんだろう?)


 もしかしたら、五十嵐さんかもしれない。

 なんとなく、そう思った。


 五十嵐さんは、いつも傍にいてくれた。

 

 『暑いだろ』と、笑いながら、ジュースを奢ってくれて、絵だってもらってくれた。


 そして、気づいたのだと思った。

 

 いや、気づいてくれた。

 俺が、苦しんでるって──


 そして、気づいて助けようとして切れた人は、五十嵐が初めてだった。


「こんばんは。突然、ごめんね。彩葉君は、今いくつ?」


 すると、また職員が話しかけてきて、彩葉との会話は穏やかに進んだ。


 会話の内容から、彩葉が虐待を受けていないかを探っているようだった。

 

 そして、その光景を、和歌は、じっと見つめていた。


 ありえないと思った。

 彩葉が、虐待されてるなんて──


「あの、やっぱり彩葉は、虐待なんて」


 和歌が、割り込めば、渡部と名乗った女性は


「そうですね。でも、学校が終わったあと、家に帰らず、公園で宿題しているそうで。あと、身体にアザがあるようなことも」


「アザ?」


「はい、殴られた跡があるかもしれないと。彩葉くん、誰かに殴られたり、痛い思いをしたことはない?」


「………」


 そして、その言葉に、今度は彩葉が押し黙った。

 

 痛い所なら、ある。

 父に蹴られた脇腹。


 だから、素直に『ある』と言えばいいのかもしれない。でも──


(どうしよう……っ)


 なぜか、迷ってしまった。

 

 言ったら怒られるかもしれない。

 そう思うと、言葉が全く出なくなった。


「あ、……っ」


「彩葉くん? 本当のことを話していいのよ?」


 女性は、優しく語りかけてくれた。決して無理はさせないように、急かすことなく、待ち続けてくれた。


 だけど、話したことを、父に知られたらと思うと怖くて仕方なかった。


 だから、せっかくのチャンスを、彩葉は掴むことなく突き返した。

 

「だ、大丈夫です……虐待なんてされてません。それに、公園で勉強していたのは、友達と遊ぶ約束をしていたから、公園でやった方が早くいけると思って……っ」


 実際、家に帰ってやるより、公園の方が、みんなとの待ち合わせ場所に近いから都合がよかった。


 そして、それっぽい言い訳をすれば、渡部さんは、それ以上、深くは追求してこなかった。


「そっか。お家に帰りたくない理由があったのかなと心配しちゃった」


「ご……ごめんなさい」


「うんん。こちらこそ、いきなり来て虐待なんて言ってごめんね。奥様も、気分を害されましたよね?」


「…………」


「奥様?」


「あ、いえ……大丈夫です。もう、帰ってもらえますか?」


「はい。では、お騒がせ致しました。失礼します」


 その後、玄関が閉まれば、家の中には、また彩葉と和歌の二人だけになった。


 少々、空気が重いのは、虐待という言葉が出たせいだろう。


 彩葉は、気分を明るくしようと、できるだけ笑顔で母に話しかけた。


「お母さん、ご飯食べよ!」


 そう言って、母の手を引き、彩葉は、リビングに戻る。


 食事は、もう冷えきっているかもしれない。

でも、母の料理は、残さず食べておきたかった。


 だが、そんな彩葉とは対象的に、和歌は食事には、一切目をくれず


「彩葉。服を脱いで」


「……え?」


 そう言って、彩葉の前に膝をついた和歌は、息子の両肩を掴むと、真剣な表情で、問いかけてきた。

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