第99話 黒と色彩のアーティスト⑳ ~幸福~
「化学って、どうやったら発展するの?」
そして、その絵が見たいあまりに、俺は早急に問いかけた。すると母は、小首を傾げながら
「うーん、賢い人達が、色々研究してくれて発展していくんだよ」
「そうなんだ。じゃぁ、いつか見れるようになる?」
「そうね、いつか、そうなったらいいなぁ……でも、私みたいな無名の画家の絵には、そこまでする価値なんてないだろうから、実現は厳しいかな?」
「きびいしいの?」
「うん。でも、いいのよ。わからないままなら、わからないままでも。アートに答えなんてない。扉の奥に何があるのか、その答えは絵を見た人が、それぞれ導き出すものだから。作家の思想や意思なんて、あえて知る必要はないのよ。だから、今の話は、彩葉とお母さんだけの秘密ね?」
そういって、笑った母は、まるで内緒話でもするように、口元に指をたてた。
きっと、あの扉の奥に何が描いてあるのか?
母は、誰にも話していないのだろう。
でなければ『黒の魔術師』だなんて、偏った異名がつくはずがない。
でも、二人だけの秘密と言われれば、それはそれで、嬉しかった。
「お母さんは、すごいね。お父さんも、もっと、お母さんの絵を褒めてくれればいいのに」
だが、母が凄いと思うと同時に、父は、なぜ母の絵を褒めてくれないのか?と思った。
母が、黒い絵を描き上げてくるたびに、父は、ダメだと言って否定する。
だが、母は決して、父を悪く言うことはなく
「仕方ないよ。実際に描けてないんだから」
「でも、お母さんの描いてきた絵、全部、怖いよ?」
「あはは、ありがとう。彩葉って、ホント優しい。でも、まだ足りないかな?」
「足りない?」
「うん、扉の奥にある風景を際立たせるために、私は、扉の世界を、あえて
「感性?」
「うん、私ね。幸せになっちゃったの」
黒い絵を見つめながら、母は穏やかな声で続けた。
「子供の頃は、毎日のように死にたいって思ってた。絶望が身近に存在していて、生きるのが、すごくしんどくて。でも、あの屋敷で、穏やかな時間を過ごすうちに、意識が変わったの。自分の未来に夢を見れるようになった。絵を描くのに夢中になってからは、他人の嫌味なんて気にならなくなったし、高校生の時に賞をとったら、私の絵を資産家の男性が高く評価してくれて、パトロンにもなってくれた。絵を描くだけで、私は食べていけるようになって、それだけでも十分だったのに、私と結婚したいと言ってくれる人まで現れた」
母の話を聞いて、それが、父の葉一なのだと思った。
「葉一は、私の絵に一目惚れしたんだって。こんなに素晴らしい絵を描く人は、どんな人なんだろうって、私に興味を持ってくれた。
それは、とてもいいことのように感じた。
絶望の感覚が鈍るくらい、今が幸せなのだと。
でも、あの黒い絵を描き上げることに関しては、致命的だったのかもしれない。
「感性が鈍ると、上手く絵に落とし込めなくなっちゃうね。子供の頃のあの絶望感を思い出そうと、色々試してはいるんだけど、なかなかうまくいかない。今は、描いても描いても、黒が優しい色になっちゃう。葉一は、それを見抜いてるんだろうね。だから、何度描いても、ダメだしされる」
母は、深くため息をつくと、絵を片付け、またイスに腰掛けた。
食べかけの夕食は、ほどよく冷めはじめていた。母は、こげた玉子焼きを、ひとつ箸でつまむと
「まぁ、そうはいっても、幸せなのはいいことだし、描き続けていれば、いつか納得いく絵が描けるはずだから、彩葉は心配しなくていいからね! 私、絶対、葉一に、これだ!って言わせる絵を描いてみせるから!」
「う、うん……」
無邪気に笑った母は、少しだけ無理をしているように感じた。
息子に心配をかけまいと、大げさなくらい笑っていたのかもしれない。
だって、父の言葉は、いつもきつかった。
鋭くて、威圧的な言葉。
それに、何度と心を引き裂かれたかわからない。
きっと、母だって、そうだろう。
何度もダメだしを繰り返されれば、心は疲弊していく。
そして、それは、父に恐怖心を抱いている自分だからこそ、痛いほどわかる感情だった。
「ほら、彩葉。ごはん、食べよう!」
「……うん」
だけど、俺に何ができるのだろう?
結局、母の頼ることしかできない俺は、母が絵を描き上げるのを待つしかなかった。
だから、俺にできるのは、母を励ますことだけ。
「お母さん、俺、お母さんの絵、大好きだよ」
それは、純粋な感想だった。
母は、あらゆる色を巧みに表現する
筆一本で、未来への希望を描き出す。
そう思ったら、もうあの絵を怖いと思うことはなく、純粋に母を尊敬した。
「黒い扉の絵も、色鮮やかな景色の絵も、お母さんの描く絵は、全部好き!」
「ふふ。ありがとう、彩葉!」
その後、母は嬉しそうな声を上げ、俺たちは、お互いに笑いながら、二人きりで食事をした。
父のいない夜は、とても静かで穏やかだった。
焦げた玉子焼きの表面は苦くても、中はとても甘くて、幸せを感じる味だった。
ずっと、この時間が続けばいい。
そう、願って仕方なかった。
だけど、幸せな時間は、ここから急激に崩れさる。
――ピンポーン。
家の中に響いた、ベルの音を引き金に――…
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