第101錠 黒と色彩のアーティスト㉒ ~虐待~


「彩葉。服を脱いで」

「……え?」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 いや、分かっていたのに、分からないフリをしたかった。


 だって、服を脱いたら、気づかれてしまうから。


「………」

「彩葉?」


 うまく言葉が出せず、ただただ黙りこくる彩葉に、和歌が優しく語りかけた。


 自分だって、そうだった。


 親に虐待されていても、怖くて誰にも言えなかった。言ったら、もっと叱られるかもしれない。もっと、痛い思いをするかもしれない。


 だから、適当に誤魔化して、嘘をついて、いつも、大丈夫なフリをしていた。


「……ごめんね」


 すると和歌は、一言だけ謝ると、了承も得ることなく、彩葉の服を捲りあげた。


 薄手の黒いTシャツを捲り上げる。そして、その身体にできたアザを見つけた瞬間、和歌は息を呑んだ。


 殴られたのか、蹴られたのか、脇腹や背中には、痛々しいくらいの青痣ができていた。


 それも、一つではない。

 薄いアザもあれば、最近できた濃いアザまで、無数にある。


 そして、思い返せば、彩葉はよく怪我をしていた。学校で転んだと言っていたけど、本当は違ったのかもしれない。


 よくお腹が痛いと寝込んでいた。あれも、本当は、虐待された痛みによるものなのかもしれない。


「これ、やったの?」


 そして、そのアザが、衣服の下の見えないところばかりにつけられているのがわかって、和歌は表情を強ばらせた。


 誰かなんて聞いたが、思い当たるのは一人しかいなかった。

 だけど、信じたくなかった。

 

 自分のが、息子を傷つけているなんて──

 

「葉一が……やったの?」


 その後、和歌は、目に涙を浮かべたながら問いかけた。


 彩葉が、虐待されてる。


 そして、その相手が誰なのか、和歌にはすぐにわかった。

 

 すると、もう誤魔化せないと思ったのか、彩葉は、唇を震わせ後、しゃくり上げるように、大粒の涙を零しはじめた。


「っ、ごめん……なさ……っ」


 泣き出した彩葉は、普段の落ち着いた姿が、嘘みたいに泣きじゃくっていた。


 止まらない涙は、頬を伝って、フローリングの床に落ちた。


 ずっと、一人で耐えていた。

 本当は助けて欲しくても、たった一人で──


「なんで、彩葉が謝るのよ……ごめんね、ごめん、彩葉……今まで、気づかなくて……っ」


 その後、泣いている彩葉を優しく抱きしめ、和歌もまた、涙を流した。


 何度も何度も謝り、今、起こっていることを受け止める。


 これ以上、この子を泣かせたくない。


「もう、大丈夫だから……大丈夫」


 そう言って、和歌が彩葉を抱きしめると、彩葉は、震えながら、母の胸で泣きじゃくった。


 母の言葉は、まるで春の木漏れ日のように優しく、やっと終わるかもしれないと思った。


 やっとやっと、暗い闇を抜けて、光につづく扉の前にやってきた。


 母の描く、あの黒い扉の絵のように、僅かな希望が見えたような気がした。



 ◇


 ◇


 ◇



「それでは、黒崎さん! 今日は一日、ありがとうございました!」


 美術館の視察を兼ね、イタリアに滞在していた葉一は、同僚との会話を終えたあと、ホテルに戻ってきた。


 芸術品に目がない葉一は、この仕事が大好きだった。美術館の職員は、日がな一日、美しい絵画や美術品を眺めていられる。


 もちろん、事務処理や雑務などもあるため、暇ではないが、時折、このようなが海外出張がある時は、海外の貴重な美術品ですら堪能できる。それは、まさに天職といってもいいくらいで、今回の出張も、葉一にとっては、とても有意義なものとなった。


「……あさって、帰国か」


 だが、もう少し堪能したいところだが、これは、あくまでも仕事。


 イタリアでの滞在期間は、3日。

 そして、移動を含めた出張の期間は、5日。

 

 だからか、明日の夜には飛行機にのり、イタリアを経ち、あさっての昼には、日本に帰ることになっていた。


 だが、よい土産話は、たくさんある。

 葉一は、機嫌よく、頂いたシャンパンをグラスに注ぐと、イタリアの夜景を眺めながら、堪能する。


 だが、そんな時だった。葉一の携帯に、珍しく、和歌から着信が入った。


 出張中は、滅多にかけてこない。

 だが、上機嫌な葉一は、穏やかに応答する。


「和歌か。どうしたんだ。珍しいな、出張中にかけてくるなんて」


「………」


 シャンパンを飲む葉一の声は、とても落ち着いていた。


 そして、それは、普段、聞いている優しい声で、和歌は、静かに目を閉じる。


 この声を聞けば、虐待をするような人たなんて思えない。


 でも、あの後、彩葉から、葉一にどんなことをされたのかを聞いた。


 もちろん、彩葉が、嘘をついているとは思えなかった。


 なにより、その手口や、いたぶり方が、あまりにも巧妙で、生々しく、和歌は耳を塞ぎたくなったくらいだ。


 でも、しっかり向き合ったのは、他でもない、彩葉のためだった。


 これ以上、あの子を、傷つけさせない。


 なにより、妻にすらバレないように、我が子をいたぶり続けてきた葉一の行いが、和歌は、どうしても許せなかった。


「葉一。帰国したら、話したいことがあるの」


「話?」


 藪から棒にきりだせば、上機嫌だった葉一の声が一変する。


「話ってなんだ? なにか、あったのか?」


 何か──それを今、告げるべきか迷った。


 だが、遅かれ早かれ、話すことになることだ。


 和歌は、深く息を吸うと、重く重く言葉を放った。


「葉一は、彩葉を虐待してるの?」




 ◆


 ◆


 ◆



「行ってきます!」


 あれから、二日が経ち、元気よく家を出た彩葉は、早足で公園に向かっていた。


 公園に向かう理由は、五十嵐に会うためだった。


 数日前、彩葉の家に児童相談所の職員が、やってきた。


 いきなりのことで、驚いた。


 だが、児相に通報したのは、もしかしたら、五十嵐さんではないかと、彩葉は考えていた。


 しかし、終業式の日に別れて以降、彩葉は、なかなか、五十嵐と会えずにいた。


(今日もいない……昨日の、夕方もいなかったし)


 五十嵐は、いつも、彩葉が公園に来るタイミングで来ていた。


 だから、夕方ならいると思い、いつもと同じ時間に公園にいったのだが、あれからずっと、会えずにいる。


 そんなわなくで、今日は時間を変えて、午前中にやってきた。だが、彩葉がどれだけ待っても、五十嵐は、訪れなかった。


 なにより、これまでは、二人きり公園も、夏休みに入ったからか、人がまばらに増え始めていた。


 ここまで賑やかで、日差しがつよいなら、昼寝はできないだろうし、もうここに五十嵐さんが、来ることはないかもしれないと思った。


(お礼、言いたかったな……?)


 もうすぐ父が、イタリアから戻ってくる。


 そうなれば、次はいつ家から出てこられるかわからない。


 だから、その前に、会ってお礼を言いたかった。助けてくれて、ありがとう──と。

 

 きっと、父が帰ってくると分かっていても、普段より気が楽なのは、母が味方になってくれたからかもしれない。


 母は、もう大丈夫だと言ってくれた。

 私が、何とかするから──と。


「どうするのかな、お母さん……」


 公園を出ると、彩葉は、とぼとぼと街中を歩いていく。


 雑踏の中は、時折人とすれ違い、蝉の声が絶えまなく響く。


 だが、すれ違う人も、セミの声も気にならないくらい、彩葉は、ずっと考え事をしていた。


(やっぱり、お父さんと直接、話すのかな?)


 お母さんが『もう、虐待しないっていえば、お父さん、辞めてくれるのかな?


 母が、どんな方法で、父を止めるのか、分からなかった。


 いや、想像できないといったほうがいいかもしれない。


 少なからず、彩葉の言葉に、父が耳を傾けることはなかったから。


 言葉で変わるのか、全く予測できない。


 だが、希望がないわけではない。


 母の言葉なら、父も反省するかもしれないし、変わってくれるかもしない。


 彩葉は、一筋の光に縋るように、必死に祈っていた。


 どうか、上手く行きますように。

 

 いつか、家族みんなで、仲良く過ごせる日がきますように──


「あの、本当に性格が変えられるんですか!?」


「!?」


 だが、その瞬間、どこからか切迫つまったような声が響いた。


 どうやら、路地裏からなのか?


 潰れたビルとホテルが隣接する、その間。どこか薄暗い、その場所を覗き込めば、そこには、今まさに探していた人がいた。


「五十嵐さん、本当なんですよね。色を飲めば、俺は別人として、生まれ変われるんですよね!?」

 

「加藤さん、少し落ち着きましょう。それと、もう少し、声を落として──」


 そこにいたのは、五十嵐さんだった。

 

 スーツをきっちり着込んだ五十嵐は、まさに仕事中といった、出で立ちだった。


 だが、話の内容が分からず、彩葉は首をかしげる。


(……色? 生まれ変わる?)


 一体、なんの話しをしているのだろう?


 気にになりつつも、その後、五十嵐は、男と二人、ホテルの中に消えていき、彩葉は、五十嵐に声をかけることすらできなかった。







*後書き*

https://kakuyomu.jp/works/16816927861981951061/episodes/16818093086600174442

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