第93錠 黒と色彩のアーティスト⑭ ~依存~


 ──ガチャン!


 突然、玄関から音がした。


 鍵が開いた音。

 その事実に、彩葉は身を強ばらせた。


(お父さん……かな?)


 喉を潤したばかりのなのに、とたんに息苦しくなったのは、並ならぬ恐怖が襲ってきたから。


 声が出ない。まるで、鬼に見つかってしまったかのように、手が震える。


 ――バタン。


 すると、次の瞬間、玄関が閉まる音がして、帰宅した人物が、こちらに向かってくるのがわかった。

 

 ただただ硬直し、声を殺す。


 怒られる覚悟はしてきたはずなのに、その恐怖が、いざ目の前に現れると、身体は無意識に委縮した。

 

(怖い……ッ)


 怖い、怖い、怖い。

 どうか、せめて、今日の機嫌が悪くありませんように――


「ただいまー、遅くなってゴメンねー」


「……!」


 だが、リビングの扉が開かれた瞬間、聞こえてきたのは、父の声ではなかった。


 明るくて穏やかな声。


 それが、母の声だとわかって、思わず、崩れ落ちそうになった。


「お、母さん……っ」


「彩葉、おかえり。今日も暑いわねー」


 にこやかに笑った母の和歌は、スーパーの袋を抱えていて、彩葉に声をかけながら、キッチンへと移動していく。


 だが、ふと彩葉の様子が、おかしいと気づいたらしい。


「あれ? 顔色悪いけど、大丈夫?」


「…………」


 顔色は、確かに、真っ青かもしれない。


 だが、帰ってきたのは、父ではなかった。

 

 彩葉は『大丈夫』と、小さく小さく返すと


「お母さんこそ、どうしたの? こんなに早く」


 いつもなら、母が帰ってくるのは、夜の7時過ぎだ。

 アトリエで、一日中、絵を描いたあと帰ってくる。


 だから、帰宅は父の方が早くて、今日だって、そうだと思っていた。


 だが、和歌は──


「あれ、もしかして、お父さんから聞いてない?」


「え?」


「葉一、今日から5日間、出張で海外に行ってるの」


「え、海外……?」


「うん。イタリアだったかな? 美術館の視察だって。だから、今日からしばらくは、私がご飯を作るからね!」

  

「…………」


 全く知らなかった。


 だが、その話を聞いたと同時に、彩葉は、ほっと息をついた。


(しばらく、いないんだ……お父さん……っ)


 純粋に喜んでいる自分がいた。


 だって、その5日間は、叱られることも、怯えることもないから……


「彩葉、おなかすいたでしょ~。お昼食べましょうか?」


 そういって、和歌が朗らかに笑うと、彩葉も釣られて微笑んだ。


 テーブルの上に並べられたのは、スーパーで買ってきたお弁当だった。

 

 母は、あまり料理が得意ではない。


 でも、父が作ってくれる料理の何倍も美味しいと感じてしまうのは、この空間が、彩葉にとっては、とても落ち着く空間だから。


 その後、席に着いた彩葉は、母と二人だけで、お昼を食べた。


 まるで、神様にお願いでもするように、手を合わせて――


 


 *


 *


 *



 

「やっぱり、彩葉は凄いなぁ~」


 その後、遅めの昼食をとった二人は、ソファーに腰かけ、通知表を見ていた。


 前回から、◎の数が減った通知表でも、母は『すごい、すごい!』と褒めてくれて、厳しい父とは正反対だと思った。


 でも、母は、できないことや苦手なことが多すぎるからか、自分をダメな人間だと思っていたのかもしれない。


「やっぱり、葉一に似たのかなー。私の通知表は、△だってあったのに」

 

 などと言って、息子の優秀さは、父から受け継いだものなのだと言っていた。


 でも俺は、父に似ていると言われるのが、あまり好きではなかった。


 どんなに優秀で、そんなに人望があっても、激しく怒鳴りつけたり、痛いことをしてくる父に似ているとは思われたくなかった。


 でも、母はそれを知らないし、なにより、俺自身が、父のことを嫌いではなかったと思う。

 

 どうすれば、父に喜んでもらえるのか?

 どうすれば、父に好かれるのか?


 殴られるたびに考えていたのは、そんなことで。


 できるなら、愛されたかった。

 抱きしめて、頭を撫でてほしかった。

 母と同じように、優しく笑いかけて欲しかった。


 そして、そんな父の姿を、どれだけ想像しただろう?


 でも、そんな未来は、なかなかこなくて、唯一、望みがあるなら、母の絵が『合格』すること――


「お母さん……絵は描けそう?」


 そして、その希望に縋るあまり、俺もまた、母を追いつめていたのかもしれない。

 

 母の絵が完成すれば、父がイライラすることはなくなるかもしれない。


 優しくなってくれて、怒鳴ることもなくなってくれて、3人で仲良く暮らせるかもしれない。


 だから、描き上げてほしかった。


 あの不気味で重苦しい、黒い絵を――…


「夏休みも、アトリエに行っていいからね」


「え?」


「俺、一人で留守番できるよ。だかは、お母さんは、絵を描いて」


「な、何言ってるの?」


「今日、オジサンが言ってたんだ」


「おじさん?」


「うん、お母さんの才能は、ちゃんとお母さんの中に残ってるって……だから、絶対に、また描けるようになるから、早く描き上げてほしい」


「…………」


 俺の言葉を、母はどんな気持ちで聞いていたのだろう?

 

 「描け」と望まれた絵を、何年と描けずに苦悩しづづけていた中で、父だけでなく、息子にまで、それを求められるのは、一体どんな気持ちだったのだろう?


 それでも、母は『無理だ』とも『できない』とも言わず。


「……うん、お母さん、頑張るね」


 そういって、俺のことを優しく抱きしめてくれた。


 でも、もしかしたら母は、笑いながら、泣いていたのかもしれない。


 それでも、幼い俺は、母に縋るしかなかった。


 昔の父は、優しかったらしい。

 怒鳴る人じゃなかったと、母は言っていた。


 きっと、父を優しい人に戻せるのは、母だけで――


(早く、描きあがるといいな……っ)


 母の腕の中は、いつも油の匂いがした。


 身体に染み付いた絵の具の匂いは、俺にとっては、母の匂いで、安らぎを感じる香り。

  

 安心した。

 幸せを感じた。


 でも、その香りも、今となっては




 匂いになってしまったけれど――…


  







✣あとがき✣

https://kakuyomu.jp/works/16816927861981951061/episodes/16818093083465350522

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