第92錠 黒と色彩のアーティスト⑬ ~通報~
(さて、どうするかな?)
その後、しばらく経ち、昼下がりの公園の中。一人きりで、ベンチに腰掛ける山根は、ずっと彩葉の絵を見つめていた。
あれから、ひとしきり泣いたあと、彩葉は、山根に絵を渡し、家へと帰っていった。
だが、捨ててと言ったその絵は、とても才能に溢れた絵で、なにより、子どもが一生懸命描いた絵を、捨てられるはずがなかった。
しかし、親に見せたくないと言い張っていた彩葉は、その後、山根が絵を預かると、ほっとしたような笑顔を見せた。
『ありがとう、おじさん!』
そう言って、無邪気な笑顔を浮かべた彩葉は、とても子供らしくて。
何よりその笑顔は、ずっと無愛想だった彩葉が見せた、初めての笑顔だった。
だが、親に絵を見せずにすむことに、あそこまで喜ぶなんて……
「やっぱり、虐待されてるよな、あの子」
ずっとかかえていた疑いは、確信に変わり、山根は深くため息をついた。
彩葉は、親に怯えながら暮らしてる。
一番、安らげるはずの家の中で、恐怖を感じながら生きてる。
「……なんとかしてやらなきゃな」
そして、何よりも心配すべきことは、これから夏休みに入るということだった。
夏休みなどの長期休みの期間は、虐待がエスカレートする危険性が、最も高い期間だ。
学校という逃げ場をなくし、なおかつ、親と子が、一緒に過ごす時間が長くなればなるほど、虐待は日常化していく。
なら、早急に手を打つ必要がある。
あの子の身の安全を確保するためにも──…
(児相に連絡すれば、すぐに出向いてくれるだろう)
すると、山根は携帯を取り出し、すぐに『189』の番号を押した。
それは、児童相談所の虐待対応ダイヤルだった。
通報すれば、48時間以内に児童相談所の職員が、虐待の疑いがある子供の家に出向き、状況を確認してくれる。
万が一にでも、命の危険性があるなら保護されるし、児相に情報を伝えておくのは、とても大事なことだ。
なにより、佐々木の言っていたように、あっちはプロ。自分の何倍も、虐待に関する知識がある。
「すみません。虐待の疑いがある子がいるのですが……」
担当者がでると、山根は、重い声色で答えた。
彩葉の住むマンションは、ここ数ヶ月の間に確認していた。もちろん、部屋番号も。
仕事柄、警察や探偵のように動き回るのは、得意だった。
だが、家の近くまで行ったが、虐待の証拠は掴めず、きっと、家の中だけなのだろう。
彩葉の親が、鬼に変わるのは──…
「はい、マンションの4階です。男の子」
職員の質問に答えながら、山根は、あらためて彩葉が書いた絵を見つめた。
見ていると、不思議と心が落ちつく優しい絵。
きっと、あの子自身が、とても優しい子なのだろう。
そして、何より、人を魅了する才能に溢れた子だと思った。
なにより、その特徴は『紫の遺伝子』を持つ可能性が高いことにも繋がる。
だが──
(もう、会うことはないかもな?)
虐待をうけることがなくなれば、彩葉が、ここにくることはなくなるだろう。
なら、もう会うことはないかもしれない。
「はい、よろしくお願いします」
山根は、少しばかり寂しさを感じつつも、担当者との電話を終え、ベンチから立ち上がった。
彩葉の描いた絵を、大事に大事に小脇に抱えながら、山根は、東屋から出る。
空をみあげれば、照りつける夏の日差しが、ジリジリと降り注いでいた。
まるで、この先始まる
過酷な夏を象徴するかのように──…
◇
◇
◇
ピンポン──
マンションについた彩葉は、その後、エレベーターに乗りこんだ。
自分の家がある4階までは、あと少し。
重い足取りで、家へ向かう彩葉は、緊張の面持ちで、エレベーターが止まるのを待っていた。
(帰ったら、通知表を見せなきゃ……っ)
できるなら、見せたくなかった。
だが、流石に、通知表まで捨てるわけにはいかず、彩葉は、エレベーターの中で覚悟を決める。
怒られる覚悟と、殴られる覚悟。
だが、学校にいる時よりも、心做しか気持ちが楽になったのは、オジサンが、絵をもらってくれたからかもしれない。
(また、逢えるかな?)
エレベーターの中。彩葉は、また五十嵐(山根)のことを思い出した。
公園で仲良くなったおじさんは、とても陽気で、優しい人だった。
学校帰りに寄り道してるのに、怒ることなく傍にいてくれて、たまに、ジュースやアイスをご馳走してくれる。
そして、そんな五十嵐の存在は、母しか拠り所がない彩葉にとって、もうひとつの癒しだった。
(夕方に行けば、逢えるかな?)
夏休みが始まれば、学校がない。
だが、それでも同じ時間にいけば会えるかも?
そう考えるも、さすがに夏真っ盛りの時期になると、スーツ姿のオジサンが、あそこにいるとは限らない。
だが、それでも彩葉は、五十嵐に会うのを楽しみにしていた。だからか、最近は、友達と約束していなくても、あの公園に行くほどになっていて。
それに、さっき言われた言葉が、たまらなく嬉しかった。
『彩葉のせいじゃないから、安心しろ』
ただ、それだけの言葉が、泣くほど嬉しくて──
「っ……」
思い出したら、また涙が溢れそうになって、彩葉は、ゴシゴシと目を拭うと、エレベーターから降りた。
今は、泣いている場合じゃない。
だって、家に帰るのだから──…
(お父さん……もう、帰ってるかな?)
家の前に立つと、彩葉は、ポケットから鍵を取りだした。
この場所にたつと、いつも緊張する。
心臓は早鐘のように動き、嫌な汗が流れる。
(……どうか、帰ってきていませんように。帰ってきていても、機嫌が悪くありませんように)
そんな願いを、何度と唱えながら、彩葉は玄関の鍵を開けた。
──ガチャ。
静かに。
極力、音を立てないよう、彩葉は我が家に入る。
「ただぃま……」
そして、消え入るような声で、一応の挨拶をし、中の様子をうかがう。
すると、そこは、とても暑くて、エアコンが効いてないことがわかった。
昼過ぎ。一番、陽が高い時間帯。
だが、エアコンがついていないということは、今この家には、誰もいないということ。
「よ、よかった……っ」
その瞬間、ひどく安堵して、彩葉は、また別の意味で泣きそうになった。
中は蒸し暑くて、全く快適な環境じゃないのに、この灼熱のような暑さに、彩葉は感謝した。
だが、この喜びも、一時的なもの。
喜んだところで、解決したわけじゃない。
だって、遅かれ早かれ、見せなくてはならないのだ。あの通知表を──…
だが、それでも、今すぐではないことに、彩葉は安心し、ランドセルを部屋に置くと、すぐさまリビングのエアコンをつけた。
ピピッと、エアコンの起動音が響くと、生暖かい風が、室内を循環しはじめる。
そして、喉が渇いたのか、彩葉はキッチンにいき、冷蔵庫を開けると、麦茶をコップに注いだ。
(そういえば、明日、行くって行ってたっけ? あのお化け屋敷に)
すると、ふと樋口との約束を思い出した。
施錠された、お屋敷の中に入る方法を樋口は知っているらしく、明日、行ってみようという話になった。
もちろん、夜ではなく昼間だけど、その話には、不思議とワクワクしていた。
だから、今夜、お父さんに殴られたとしても、明日は、ちゃんと行けるようにしておきたい。
(あまり、殴られないといいな……?)
麦茶を飲みながら、彩葉は祈るように目を閉じた。
どうか、どうか。
痛みが軽いもので、ありますように──
そう、何度と祈る。
──ガチャン!
「……!」
だが、その時だった。
玄関から、鍵が開いた音がした瞬間、彩葉の身体は鉛のように重くなった。
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