第83錠 黒と色彩のアーティスト④ ~本性~


(……お腹、すいた)


 薄暗い部屋の中で、彩葉は、ベッドの中にうずくまっていた。

 

 あの後、父に見つかった彩葉は、案の定、樋口との約束を破った。


 サッカーなんてできる状況じゃなかった。


 ぶたれた頬と蹴られた脇腹が、やたらと痛んで、オマケに父に監視されていては、家から出ることすらできない。


 だが、そんな痛みに苦しむ中でも、しっかりと宿題はやらされて、倒れ込むようにベッドの中に入ったあとは、ズキズキと痛む脇腹を押さえながら、目を閉じた。


 だが、そのまま眠ってしまえれば良かったのに、体が痛くて眠れない上に、腹だけは容赦なくくようで、人の身体というものは、ことごとく面倒だと思った。


 ──ガチャ


「彩葉?」


 だが、あれから、どれくらい時間が経ったのか?

 しばらくして、部屋の扉が開いた。


 暗かった部屋に、一筋の光りが入り込む。


 すると、やってきたのは、彩葉の母親である黒崎 和歌のようで、父の葉一ではなかったことに、彩葉はホッと息をつく。


「お母さん?」


「あ、ごめんね。起こしちゃった? お腹が痛いって聞いたけど、大丈夫? ご飯も食べれないって」


「………」


 彩葉の元にやってきた和歌は、心配そうに息子の顔を覗きこんできた。


 だが、その話を聞いて、彩葉は眉をひそめた。


 きっと父から聞いたのだろう。


 だが、お腹が痛いのは確かでも『ご飯を食べない』と言った覚えはなかった。


 でも、のは、分かっていた。


 テストの結果が、99点だった。


 つまらない間違いをして、100点を逃したことに、父はひどく怒っていた。


 そして、父を怒らせた時は、いつも食事抜きだ。


 だが、母は本気で、具合が悪くて食べれないと思っているらしい。


「お腹、まだ痛む? でも、少しでも食べた方が……」


「いらない…ッ」


 母の言葉をさえぎり、彩葉は、あからさまに拒絶をする。


 母は、父から殴られたせいで寝込んでいるなんて思ってもいないだろう。


 でも、本当の事なんて言うつもりはなかった。


 言えば、父に、もっと怒られるだろうから──


「そう……」


 すると、ただただ横になる息子を心配し、和歌は、優しく彩葉の頭を撫でた。


 触れられた手が心地よくて、彩葉は自然と目を閉じる。


 不思議と、父に与えられた痛みですら、和らいで行くような気がした。


 でも──


「あれ? ほっぺた、どうしたの?」


 息子の頬が、赤く腫れているのに気づいたらしい。

 和歌の手が、控えめに彩葉の頬に触れた。


 それは、暗がりでも分かるくらい赤かった。

 でも、彩葉は、いつも通り


「……学校で転んだ」


「えー、また転んだの!? この前も、同じこと言ってたじゃない!」


 先週も転んで、彩葉はアザを作っていた。

 それなのに、まさかと、和歌が困った顔をする。


 だが、そんな母を見て、彩葉は、笑いながら


「お母さんに似たんだよ」


「もうー、確かに、私もよく転んで、擦り傷いっぱい作ってたけど、私のダメなところは似なくていいのよ。親子揃って、ドジだなんて……!」


 まるで、似た者同士と、親子であきれ果てる。


 だが、本当は、転んではいなかった。

 この頬は、父にぶたれた痕だから。


 でも、母に似てると言われるのが、彩葉は嬉しかった。


 転んだと言っても怒ることなく、笑って慰めてくれる。それが嬉しかった。


 何より母は、とても優しい人だった。


 威圧的で怖い父とは真逆で、とても穏やかで温かい人。


 だから、父に殴られても、母が心配してくれるから、まだ耐えられていた。


 母さえいてくれたら

 もう、それだけで、大丈夫だと思えた。


 でも、そんな母は、父の事ばかりだった。


 この家から、少し離れたアトリエで、母は、ひたすら絵を描いていた。


 父が望む『完璧な絵』を描くために──



「絵は……描けた?」


 今日は、どうだったのだろう?

 心配になってといかければ、母な苦笑いを浮かべながら


「うんん。またダメだった。お父さんをがっかりさせてばかり」


 沈んだ顔をする母に、彩葉は胸を痛めた。

 もしかしたら、また父に怒られたのかもしれない。


 そして、母はいつも言うのだ。


「昔は、あんなに声を荒らげる人じゃなかったんだけど……私のせいかな?」


 自分のせい──母は、いつもそう言う。


 父が変わったのは、自分のせいだと。


 でも、またあの頃のような絵を描けるようになれば、優しかった頃の父が戻ってくるかもしれない。


 そして、その頃は、その話を鵜呑みにしていた。


 今の父は、本当の父ではないのだと。


 きっと、母の絵が完成すれば

 もう、殴られることはなくなると──


 でも、今ならよく分かる。


 父は、変わってしまったのではなく

 あれが、父のだったのだろうと──…


「彩葉、ゆっくり休んでね」


 すると母は、また彩葉の頭を撫でて、部屋から出ようと立ち上がった。


 だけど、ふと心細くなった彩葉は、そっと母の服を掴んだ。


 一人になると思うと、急に怖くなった。

 できるなら、母の傍を離れたくない。


 だって、母が側に居れば、父に殴れることは無かったから。


 父が手を挙げるのは、いつも決まって、母がいない時。


 だから、そばにいて欲しかった。

 一人にしないで欲しかった。

 

「どうしたの? もしかして、眠れない?」


「……うん」


 力なく返事をすれば、母は、また膝をつき、彩葉の手を優しく握りしめてきた。


「じゃあ、久しぶりに子守唄を歌ってあげよっか」

 

 穏やかな声で、そう告げると、母は、のびのびと歌を歌い始めた。


「──🎶$%&¥%?♫&@」


 それは、ひどく外れまくった歌だった。

 お世辞だとしても、上手いとは言えない下手すぎる歌。


(俺が音痴になったのは、絶対に、お母さんのせいだ……)


 そんなことを聞きながら思ったが、その慣れ親しんだ子守唄は、同時に安心する音でもあって


 彩葉の思考は、ゆらゆらと意識を手放し、深い眠りの世界へと落ちていった。


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