第82錠 黒と色彩のアーティスト③ ~和歌~
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
◆◆◆
夜7時──マンションのエレベーターが開いた。
狭苦しい箱の中から出てきたのは、長い髪をした細身の女性。
そして、その女性は、小柄な身体には似合わない大きなキャンパスバックを肩にかけていて、浮かない顔で自宅へと進んでいた。
4階の奥にある部屋は、夫と息子と三人で暮らしている家だ。
重い足取りで家の前まで進むと、その女性──
──パタン。
「ただいま」
一声を発し、ブーツを脱いだあとは、すぐにリビングへと向かう。
そして、リビングの中にはいると、一続きになっているキッチンの奥で、葉一が料理をしているのが見えた。
ジュージューと、肉の焼ける音と、食欲をそそる香ばしい匂い。
どうやら、今日の夕食は、ハンバーグらしい。
そう、和歌は理解する。
そして葉一は、とても料理が上手かった。
逆に和歌は、全くと言っていいほど、料理が出来ないのだが……
「お帰り、和歌」
「ただいま」
葉一に笑いかけられ、和歌は、二度目の『ただいま』を言った。
現在32歳の和歌は、20歳の時に、3つ歳年上の葉一と結婚した。
その後は、子供にも恵まれ、今は三人家族。
夫婦仲は、良好な方だと思う。
ある一点だけを除いては──
「お腹がすいただろう。もうできるよ」
「ありがとう。彩葉は?」
ハンバーグを盛り付けながら言う葉一に、和歌が問いかけた。
焼きあがったハンバーグは、なぜか、2つしかなかったから。
「お腹が痛いと言って、もう寝たよ。夕飯も食べないそうだ」
「そうなの? 大丈夫かな? 彩葉……」
我が子を心配し、和歌が表情を暗くする。
彩葉は、時折こうして、寝込むことがあった。
お腹が痛いと言ったり、頭が痛いと言って──
「明日、病院に連れて言った方がいいかしら?」
「大丈夫だよ。いつものことだ。それより、今日は、どうだった?」
「──え?」
だが、その瞬間、和歌は息を呑んだ。
どうだった?──そう言われたせいか、キャンパスバックを掴む手に、無意識に力が入る。
「い、一応……描きあがったよ」
どこか歯切れの悪い返事をしつつ、和歌は、バッグの中から、キャンパスクリップでとめられた油絵を取り出す。
油絵は、描かれた面が、擦れたり汚れたりすることがないよう、同じサイズのキャンパスを二枚重ね合わせて持ち運ぶ。
二枚のキャンパスは、専用のクリップで止めれば、1センチほどの隙間が空く。
そして、そのクリップを、和歌は絵画を痛めぬよう、丁寧に外していく。
すると、それからしばらくして、リビングのテーブルの上には、和歌が描きあげた油絵の世界が広がった。
全面、黒で塗りつぶされた──漆黒の絵。
そして、その中央には、窓が一枚だけ描かれていた。
不気味で、抽象的な不思議な世界だ。
だが、それこそが『黒の魔術師』と評価された画家──黒崎 和歌が、紡ぐ世界だった。
「ど……どうかな?」
今日、描きあげたばかりの絵を見せ、伺うように、夫の葉一に問いかけた。
この絵を描きあげるのに、3ヶ月ほどの期間を費やした。幾重にも重ねられた絵の具の線は、その月日の長さを象徴する。
そして、その絵を間近で見ようと、葉一が、近づいてきた。
この絵は、正解だろうか?
それとも、不正解?
夫の顔色を伺う、和歌は、ゴクリと息を呑む。
すると、葉一は、絵を見た瞬間──
「違う!! 全然違う!!」
そう言って、声を荒らげた。
どうやら『不正解』だったらしい。
正面からは、まるで心臓を突き刺さるような怒号が、次々と投げつけられる。
「違うだろう! 君の絵は、これじゃない!! なんど裏切れば気が済むんだ!!」
「あ、ごめんなさい……っ」
裏切ったつもりはなかった。
精一杯、時間を費やし、文字通り命を削って、作品を描きあげた。
だけど、また描けなかった。
彼が望む絵を──
「ごめん、今度は、どこが……ダメなの?」
「どこ? 全部だ、全部! なにより、この絵には、なんの魅力も感じない! 俺は、もっと完璧な絵が見たいんだ! あの頃のような──」
あの頃とは、結婚する前の話だ。
和歌は、19歳の時に、一枚の絵画を描きあげた。
今と変わらない『黒い絵』を。
そして、その絵は、美術展の優秀賞を受賞し、海外からも高く評価された。
若い才能に、多くの大人たちが注目した。
そして、その中の一人に、葉一がいた。
美術館で知り合った二人は、すぐに意気投合し、葉一の熱烈なアプローチを経て、二人は結婚した。
だが、彩葉が生まれてから、和歌の才能は、失われてしまったのかもしれない。
ここ何年と、納得のいく作品が描けていなかった。
「やっぱり、子供を産んだのは失敗だったな」
「え? 失敗?」
「あぁ、君が育児に費やしてきた5~6年は、無駄以外の何物でもなかっただろう!」
「無駄って……子育てが、無駄だっていうの!?」
「そうだ! 彩葉が小さかった頃は、絵を一枚もかけていなかった! あの頃も描き続けていれば、こうは、ならなかった! 大体、君は子育てには向いてない! 料理もできないし、掃除もできない! それでよく子供が欲しいなんていったものだ!!」
「……っ」
ズバズバと刃物のような言葉が飛んできて、和歌はきつく唇を噛みしめた。
確かに自分には、出来ないことが多すぎる。
料理も掃除も、上手いとは言えないし、才能があるとしたら、絵を描くことだけ。
なにより、強い言葉でまくし立てられれば、体が震えて、反論なんて一切出来なくなる。
「ごめんなさい……確かに私は、出来ないことばっかりで、葉一さんに……迷惑かけてばかり……でも、私が絵が描けなくなったのは、彩葉のせいじゃないわ……これは、私の問題……だから、彩葉を産んだのが、失敗だったなんて言わないで……っ」
目に涙をうかべた和歌は、必死の思いで反論する。
彩葉は、何も悪くない。
だから、あの子を悪く言わないでほしい。
すると、その思いが通じたのかはわからないが、葉一が、怯える和歌を優しく抱きしめてきた。
「あぁ、すまない、和歌。少し言いすぎた。和歌を責めたいわけじゃない。君は天才なんだ。黒一色で、人を魅了する素晴らしい作品を作る。でも、あの絵を、もう二度と見られないのかもしれないと思うと、俺は悲しくて仕方なくなるんだ」
「……っ」
残念そうに、弱々しい葉一の声が耳元で響いた。
いつもこうだ。
キツくなじったあとは、必ず抱きしめてくる。
まるで、労わるように、優しい言葉をかけてくる。
そして、抱きしめられると、つい許してしまう。
きっと私が、またあの頃のような絵を描ければ、優しい彼が、また戻ってくるような気がして……
「うん……絶対に、また描けるようになるから」
そう言うと、和歌は、そっと目を閉じ、涙を流した。
愛する人の腕の中で
小さく怯えながら──…
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