第81錠 黒と色彩のアーティスト② ~約束~


「じゃぁ、あとでなー!」


 家の近くまで来ると、再度、サッカーで集まる約束をして、樋口と別れた。


 その当時の俺の家は、5階建てのマンション。


 と言っても、大して高級感もない寂れたマンションで、住んでいる人も、普通の人ばかりだった。


 安月給で働いているサラリーマンとか、夫が浮気をして離婚したシングルマザーとか、あとは、やたらと子沢山な一家とか。


 みんなそれぞれが、不平不満をこぼしながらも、穏やかに暮らしていた。


 そして、そんな環境下で、俺は両親と3人で暮らしていた。


「黒崎さん、今日も素敵だったわねぇ」


「……?」


 マンションの階段を上っていると、踊り場で雑談をしている主婦たちがいた。


 3~40代くらいの女の人が3人。


 そして、黒崎と言う名前から、父のことを話しているのだと、すぐにわかった。


 なにより、父は、このマンションでは、少し異質な存在だったかもしれない。


 いや、それは、だったかもしれないけど……


「黒崎さんって、いつもカッコいいわよね、品があって」


「私立美術館で働いてるんでしょ?」


「知的な感じよねー。しかも、料理も得意なんだって。奥様の代わりに、黒崎さんが作ってるって」


「え、そうなの! いいわねぇ。爪の垢を煎じて、うちの旦那に飲ませたいくらいだわ!」


「わかるわー。家庭的で優しくて、オマケに仕事もできるなんて、羨ましいわよねー。学校行事にも、よくきてくれるし」


「そうなのよ。でも、逆に奥さんの方は、全く出てこないわよね?」


「そうねぇ。でも、仕方ないわよ。だって、あそこの奥さんは」


「こんにちは!」


 普段より、声をあげて挨拶をすれば、井戸端会議中の主婦たちの声が止まった。


 俺の姿に気づいたのか、その主婦たちは


「あら。彩葉くん、おかえりー」


 などと口にしながら、挨拶をしてきた。


 話はしっかり聞こえていたけど、何も聞かなかったことにして、ペコリとお辞儀をすると、俺は、そのまま上の階へと走っていく。


 すると、それからしばらくして、また、主婦たちの声が聞こえてきた。


「彩葉くんも、とっても優秀なんですって」


 どうやら母の話から、俺の話に切り替わったらしい。


「テストで、よく100点とってるみたいよ。うちの子が言ってたわ」


「まぁ、お父さんに似たのね。父子おやこで優秀だなんて、凄いわねえ」


「本当、どうして、こんなところで暮らしてるのかしら?」


 どうして──それは、まるで、この場所には不適切と言われているようにも感じた。


 だけど、確かに不適切だったのかもしれないし、もしかしたら異質だったのは、父や母だけでなく、だったのかもしれない。


 でも、その時は、それが「普通」だと思っていた。


 このマンションで暮らしている人たちと同じように、俺の家族も、ごくごく「普通の家族」だと思っていた。




 ◆


 ◆


 ◆



 カチャ──


 階段を上り、四階の奥の自分の家まで辿り着くと、俺は、音を立てないように、玄関の鍵を開けた。


 主婦たちの会話の内容から、父が、もう帰宅しているのだと、なんとなく察した。


 でも、あくまでも知らないフリにして、インターフォンを鳴らさずに自宅に入ると、俺は、父に気づかれないように、静かに靴を脱いだ。


 そろりそろりと、まるで泥棒に入るみたいに、息を殺して、自分の部屋に急ぐ。


 2LDKのこの家は、あまり広いとは言えない。

  

 そして、入ってすぐのところには、両親の寝室があった。


 父が今いる場所は、どこだろう?

 

 寝室だろうか?

 それとも、リビング?

 

 一番奥にある、自分の部屋にたどりつくまでの時間が、とても長く感じた。


 生きた心地がしない。


 まるで、鬼に見つかったら殺されてしまう子供のように、一歩一歩、進むたびに痛いくらい鼓動が加速していく。


(どうか、見つかりませんように……っ)


 そう、祈りながら、俺はランドセルを置いたら、すぐに家を出ようと、気持ちだけを急がせた。


 樋口と、サッカーをする約束をした。

 行かなかったら、心配するかもしれない。


 いや、もう心配はしないだろうか?


 約束を破ったのは、一度だけではないから……



「はぁ……っ」

 

 部屋の前につくと、ドアノブを掴んだ瞬間、小さく息が漏れた。


 気が緩んだのか、あと少しで中に入れるとわかって、こわばっていた表情が無意識に緩む。


 だけど──


「……ッ」


 扉を開けた瞬間、ゆるんだ表情が、一気に青ざめた。


 俺の部屋の中には、何故か父がいた。


 俺の父──黒崎くろさき 葉一よういちが。


 そして、スーツ姿で立つ父は、そっと俺に視線を向ける。


 父は、人当たりがよくて、穏やかで、保護者からの信頼も厚い。


 だからこそ、誰もが『優秀で素敵な人』と、そんな風に噂する。


 だけど、それがで、家の中では、全く違う顔を持つことを、大人たちは誰も気づかない。


「彩葉。お前は『ただいま』も言えないのか?」


「ぁ…ごめ…っ」


 冷たい視線と目があった瞬間、『今日は、どこを殴られるんだろう?』そんなことを思った。


 ドアノブを握る手が、砕け散るくらい冷たくなって、自然と身体が震えだす。


 そして、今日もまた、樋口との約束を破ることになる。


 そう確信して、目の前が





 ──真っ黒になった。


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