第35錠 色


(確か、ここに入って行ったよな?)


 ビルの前に立った誠司は、薄暗い地下駐車場の奥へ、小走りで進んでいく。


 冷たいコンクリートで覆われた湿っぽいフロアは、電灯がついてはいるが、明らかに暗かった。


 反響して、微かに響くスニーカーの音を押さえつつ、車が駐車する地下フロアにつくと、その先で、目的の人物の声が聞こえてきた。


「一体、なんの用?」


 迷惑そうに、声を低くした彩葉の声が響いた。


 誠司は咄嗟に車の影に身を隠すと、彩葉と男の姿を覗き見る。


(アイツ、何してんだ?)


 確か、ちょっと前にも似たようなことがあった。


 セイラと遊園地に行く前に待ち合わせていた公園で、彩葉は女子大生くらいのお姉さんと、怪しげな会話をしていた。


 だが、今、男といるその雰囲気は、あの時の雰囲気とは、明らかに違っていた。


「本田くん! ずっと、探してたんだッ!」


 男がわなわなと身体を震わせ、今にも掴みかかりそうな勢いで声を発した。


 男から数歩距離を置いた彩葉は、すっと目を細めつつ、いつもよりドスの効いた声で男に話しかける。


「安西さん、いきなりこんなことされちゃ困る。それに、この前もいったはずだよね。あなたに、もう"色"は売らないって」


「そ、そんなこと言わないでくれ! か、金ならあるんだ! 今度、ちゃんと持ってくる! だから、だから」


「金って、借金して作ってきた金だろ?」


「くっ……」


 しんと静まる地下駐車場に、その二人の声はよく響いた。そして、その怪しい会話に、誠司は、ただただ困惑する。


 ──色を売る。


 身を屈め、その場にうずくまりながら、ぐるぐると考えた。


(『色を売る』って……確か、アレだよな)


 昔、遊郭とかで使われていた言葉で、今で言うところの『売春』みたいな?


(ははは……いやいや、まさか……っ)


 うん、さすがに、それはない。


 だって、仮に先日の女子大生が、百歩譲ってありだったとしても、今回はない!!


 だって、今話してる人、だし!!


「安西さん、奥さんと子供もいるんでしょ? 何度頼まれても答えは同じだよ」


「そ、そこをなんとか……っ」


「無理だよ。もうあなたに、色は売らない」


「……っ」


 再度強調したその言葉に、男がよろめき愕然とする。


 酷く、意気消沈した男。

 そして、それを見て、彩葉は深く息をつくと


「……安西さん、気づいてないかもしれないけど、あなたは、色に依存してる」


「ち、違う。俺は……」


「違わないよ。別に俺たちは、あなたを見捨てたりしない。この前、渡した医療機関の名刺、まだ持ってる? 早くそこを受診して、しっかり治して」


「…………」


 すると、全く聞きいれない彩葉に、男はこの世の終わりかとでも言うかのように暗く影を落とし、その後、何も言わなくなった。


 魂が抜けたように俯く男をみつめて、彩葉は、申し訳なさそうにするが


「じゃぁ、俺は行くから」


 そう言って、情けはかけないとばかりに、くるりと踵を返した。


「あ"あ"ぁぁぁあぁぁぁああああああ"ああぁぁぁああああああ"ああぁぁぁああああ"ああああぁぁぁああああ"ああああぁぁぁ!!!」


 だが、その瞬間、男が地響くような声を発した。


 獣のようなその声に、誠司は咄嗟に身を強ばらせ、口元を押さえて息を殺す。


 地下駐車場には、異様な空気が漂っていた。


 そして、耳に響いたのは、何を言っているか分からない男の叫び声と、ドサッと何かが倒れ込む音。


 何が起こっているか分からず、恐る恐る彩葉の方を覗き込めば、先程の男が、冷たいコンクリートの上に彩葉を押し倒しているのが見えた。


「っ──」


 その光景に、身体が硬直する。


 男は明らかに正気じゃなかった。

 それも、彩葉より一回り体格の大きい男。


 あんな男に馬乗りになられたら──


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