第25錠 橘と慎司
「もしかして、橘さんですか?」
「?」
名を呼ばれて男が顔を向ける。すると、それは、夫の慎司が警視庁で働いていた頃、一緒に警察官として働いていた男だった。
名前は、
正確には、現在は、警視庁捜査一課の警部であり、慎司より9つほど歳上の元上司にあたる人だった。
「えと、お久しぶりです。早坂 慎司の妻の優子です」
「あぁ。こちらこそ、お久しぶりです。まさか覚えていて下さったとは」
優子が頭を下げると、橘も同時に頭を下げた。
墓地には二人の姿しかなく、夕日に照らされながら、優子と橘は久しぶりに言葉を交わす。
ちなみに久しぶりとは、7年前の慎司の葬儀の時、会った以来だ。
「あの、今日は……」
「あー、たまたまこちらによる用事があったので、早坂に線香の一本でもと思いまして。でも、まさか優子さんに会えるとは……あ、そういえば、息子さんがいらっしゃいましたよね。お元気ですか?」
「はい。誠司も、もう高校生になりました」
「そうですか。大きくなりましたね~。最後にあったのは、小学2~3年生くらいだったか?」
「そうですね。そう言えば、橘さんにも、息子さんがいらしゃいましたよね?」
「はい。うちの子は、もう大学生ですよ。子供の成長とは早いものですね。優子さんはどうですか? 変わりありませんか?」
「……」
橘が
すると優子は、少しだけバツが悪そうな顔をして
「あの、実は私……再婚するんです」
慎司が眠る
「明日、籍をいれるので……だから、
「そうでしたか…」
優子の話を聞いて、橘も同時に碑石を見つめる。
夕方の少し肌寒い風が吹き抜ければ、優子の柔らかな黒髪が、さらりとなびいた。
「あの…やっぱり、悲しみますかね? 私が、再婚なんてしたら」
「………」
「その……出来れば、ずっと早坂のままでいたいと思っていたんです。でも、やっぱり一人だと……色々、辛いことも多くて……っ」
誠司と二人、ずっと夫を思いつづけて生きていくはずだった。
だから、片親でも誠司が寂しくないよう、常に笑顔で、不安や憤りを感じさせないように頑張ってきた。
だけど、ずっと、それを続けられるほど、強い人間ではなく。
陰ながら支えてくれた葉一に、いつしか、安らぎを感じるようになってしまったことに。
愛する夫に、操を立て続けられなかったことに、優子は後ろめたさを感じていた。
「優子さん」
すると、今度は橘が優子を見つめる。
しかし、その瞳は、どこか慈愛に満ちた、とても優しげなもので
「さっき、うちに大学生になる息子がいるといいましたよね」
「え?」
「うちの息子、今から10年ほど前に、クラスメイトの男の子と一緒に、誘拐事件に巻き込まれたことがあったんです」
「……?」
突拍子もない話に、優子は目を丸くする。
だが、その後、小さく笑みを浮かべた橘は、そのまま話し続けた。
「その時、息子は小学5年生で、夕方、妻の職場に向かう途中、路上にランドセルだけ残して、突然、行方不明になったんです」
「……」
「妻から電話を貰って酷く動揺しました。息子がいなくなったって聞いて、すぐに探しに行ってやりたかった。でも、俺は、その時、別の事件の担当をしていて、目の前の事件を勝手に放り出す訳にはいかなくて、息子のことを、他の警察官に任せようとしてしまったんです」
どこか申し訳なさそうに目を細めた橘は、警察官というよりは、父親の顔をしていた。
「でも、そんな時、早坂に言われたんですよ。『アンタは警察官である前に、息子を持つ一人の父親だ』って『警察官の代わりならいくらでもいる。でも、父親はあんたしかいないんだ』って。だから『こっちは俺達でなんとかするから、今すぐ息子の所に行ってやれ!』って」
「………」
「俺達は、事件があれば休みの日でも出ていかなきゃならないし、日ごろ家族を
「………」
「優子さん、早坂はそんなやつですよ。仕事熱心な熱いやつでしたが、それでも、自分にとって何が一番大切なのか、よく理解していました。なによりも、優子さんと誠司くん、あなた達『家族の幸せ』を、一番に願っていた。そんな早坂が、優子さんが再婚すると聞いて、喜ばないはずがないでしょう。だから、どうか、そんな顔しないで。早坂の分まで幸せになってください」
「……っ」
その言葉に、優子の目には、じわりと涙が浮かんだ。
危険と隣合わせの警察官。いつ
でも、まさか、病気で亡くすとは思わなかったけど、彼が自分と誠司の幸せを一番に考えてくれていたことは、優子が一番よく分かっていた。
「ッ……ありがとう…ございます……橘さん…っ」
言葉と同時に涙が
それを見て、橘はポケットからハンカチを取り出すと、そっと優子に差し出す。
「どうぞ」
「っ……すみません」
「いえ。こちらこそ、変な話をしました」
「そんな…! 今日また夫の話を聞けて、本当に良かったです」
優子はハンカチで涙を
「でも、まさか上司に向かってそんな
「あはは、俺も9つも下の部下に
「ありがとうございます。あと、私、その誘拐事件のこと、夫から少し聞いてました。新聞にも載ってましたよね? 小学5年生の男の子が誘拐されかけたって……橘さんの息子さんが巻き込まれたと聞いて、驚いたのを覚えてます」
「まぁ、誘拐のターゲットになったのは、うちの息子ではなく、もう1人の男の子なんですけどね。でも、本当に無事でよかったと、今でも思いますよ」
橘は当時のことを思い返し、どこか安心したように微笑んだ。
10年前におきた『男児誘拐未遂事件』
それは、ここ城ヶ崎から3時間ほど離れた町、
当時小学5年生の男の子が、誘拐犯の男に目をつけられ、その時一緒にいた橘の息子が事件に巻き込まれた。
間一髪、二人とも助かったため、誘拐未遂事件として、地方紙の片隅に載った程度の小さな事件だったが、優子は慎司の上司である警察官の息子が巻き込まれたと聞いて、その事件のことはよく記憶していた。
「あの……そう言えば、それから、その誘拐犯はどうなったんですか?」
すると、不意に気になり質問すれば、橘は少しだけ表情を
「誘拐未遂だけでなく、窃盗や詐欺など働いてまして、8年の
「え?」
出所……してる?
その言葉に、優子は表情を強ばらせた。
子供を誘拐しようとした男が、今は
「そ、そうなんですか? あの、それ息子さんは……」
「うちの息子は知ってますよ。でも、誘拐の被害者である男の子は、多分まだ知りません。その子の父親が『今やっと事件から立ち直って、幸せに暮らしているから、また事件のことを思い出して、
「そう、なんですね。10年前のこととはいえ、なんだか心配ですね」
「えぇ、それに少し……厄介な犯人でしたからね」
言葉と同時に、橘が、深く眉根を寄せた。
それを見て、優子は更に不安を抱くが、橘は、その後、柔らかく微笑むと、まるで心をほぐすように、明るく話しかけた。
「でも、大丈夫ですよ。あの犯人は、その男の子にしか興味がありませんし、今じゃ息子も、その子も大学生で、事件後、空手を習ったり、護身術を身につけたりして、かなり強くなってますから! あと、犯人も、ここより遥か遠い場所で暮らしてます。安心してください」
「そうですか。それなら、よかったです」
橘の雰囲気と、その明るい返答に、優子は
「それでは、俺はこれで。どうぞ、早坂とゆっくりお話してください」
「はい。あ、ハンカチを! 洗ってお返しします!」
「いやいや、いいですよ! 貰ってください。家に妻のハンカチが腐るほどありますから」
そう言うと、橘は軽く
「……やっぱり、
独り言のようにポツリと呟く。
まっすぐな性格が大好きだった。
正義感が強くて、間違ったことは、相手がどんな人でも、屈さずに伝えていた。
「慎ちゃん、今日、橘さんと会えてよかった。私の知らない慎ちゃんの話を聞けて……本当に、よかった」
優子は橘に改めて感謝すると、また涙を浮かべた。
同級生で幼馴染みで
ずっと一緒にいたからか
離れ離れになる日が来るなんて、考えもしなかった。
でも、このまま、ずっと
後ろばかり向いているわけにもいかない。
「慎ちゃん……私、幸せになるね。だから、私と誠司のこと見守っていて──…」
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