第25錠 橘と慎司


「もしかして、橘さんですか?」


「?」


 名を呼ばれて男が顔を向ける。すると、それは、夫の慎司が警視庁で働いていた頃、一緒に警察官として働いていた男だった。


 名前は、たちばな 昌樹まさき。48歳。


 正確には、現在は、警視庁捜査一課の警部であり、慎司より9つほど歳上の元上司にあたる人だった。


「えと、お久しぶりです。早坂 慎司の妻の優子です」


「あぁ。こちらこそ、お久しぶりです。まさか覚えていて下さったとは」


 優子が頭を下げると、橘も同時に頭を下げた。


 墓地には二人の姿しかなく、夕日に照らされながら、優子と橘は久しぶりに言葉を交わす。


 ちなみに久しぶりとは、7年前の慎司の葬儀の時、会った以来だ。


「あの、今日は……」


「あー、たまたまこちらによる用事があったので、早坂に線香の一本でもと思いまして。でも、まさか優子さんに会えるとは……あ、そういえば、息子さんがいらっしゃいましたよね。お元気ですか?」


「はい。誠司も、もう高校生になりました」


「そうですか。大きくなりましたね~。最後にあったのは、小学2~3年生くらいだったか?」


「そうですね。そう言えば、橘さんにも、息子さんがいらしゃいましたよね?」


「はい。うちの子は、もう大学生ですよ。子供の成長とは早いものですね。優子さんはどうですか? 変わりありませんか?」


「……」


 橘がほがらかに話しかける。

 すると優子は、少しだけバツが悪そうな顔をして


「あの、実は私……再婚するんです」


 慎司が眠る碑石ひせきに目をむけると、優子は、申し訳なさそうに呟いた。


「明日、籍をいれるので……だから、せいが『早坂』のうちに、もう一度、主人に挨拶をと思いまして」


「そうでしたか…」


 優子の話を聞いて、橘も同時に碑石を見つめる。


 夕方の少し肌寒い風が吹き抜ければ、優子の柔らかな黒髪が、さらりとなびいた。


「あの…やっぱり、悲しみますかね? 私が、再婚なんてしたら」


「………」


「その……出来れば、ずっと早坂のままでいたいと思っていたんです。でも、やっぱり一人だと……色々、辛いことも多くて……っ」


 誠司と二人、ずっと夫を思いつづけて生きていくはずだった。


 だから、片親でも誠司が寂しくないよう、常に笑顔で、不安や憤りを感じさせないように頑張ってきた。


 だけど、ずっと、それを続けられるほど、強い人間ではなく。


 陰ながら支えてくれた葉一に、いつしか、安らぎを感じるようになってしまったことに。


 愛する夫に、操を立て続けられなかったことに、優子は後ろめたさを感じていた。


「優子さん」


 すると、今度は橘が優子を見つめる。


 しかし、その瞳は、どこか慈愛に満ちた、とても優しげなもので


「さっき、うちに大学生になる息子がいるといいましたよね」


「え?」


「うちの息子、今から10年ほど前に、クラスメイトの男の子と一緒に、誘拐事件に巻き込まれたことがあったんです」


「……?」


 突拍子もない話に、優子は目を丸くする。

 だが、その後、小さく笑みを浮かべた橘は、そのまま話し続けた。


「その時、息子は小学5年生で、夕方、妻の職場に向かう途中、路上にランドセルだけ残して、突然、行方不明になったんです」


「……」


「妻から電話を貰って酷く動揺しました。息子がいなくなったって聞いて、すぐに探しに行ってやりたかった。でも、俺は、その時、別の事件の担当をしていて、目の前の事件を勝手に放り出す訳にはいかなくて、息子のことを、他の警察官に任せようとしてしまったんです」


 どこか申し訳なさそうに目を細めた橘は、警察官というよりは、父親の顔をしていた。


「でも、そんな時、早坂に言われたんですよ。『アンタは警察官である前に、息子を持つ一人の父親だ』って『警察官の代わりならいくらでもいる。でも、父親はあんたしかいないんだ』って。だから『こっちは俺達でなんとかするから、今すぐ息子の所に行ってやれ!』って」


「………」


「俺達は、事件があれば休みの日でも出ていかなきゃならないし、日ごろ家族を犠牲ぎせいにして働いてます。でも、警察官だって人の子です。市民の生活を守るなんてカッコいいこと言っていても、なによりも守りたいのは、やっぱり自分の家族なんです。早坂は、俺と同じ息子をもつ親として、俺の気持ちを、誰よりも察してくれたんでしょう。おかげで俺は、自分の手で、大事な息子とその友人を救うことが出来ました」


「………」


「優子さん、早坂はそんなやつですよ。仕事熱心な熱いやつでしたが、それでも、自分にとって何が一番大切なのか、よく理解していました。なによりも、優子さんと誠司くん、あなた達『家族の幸せ』を、一番に願っていた。そんな早坂が、優子さんが再婚すると聞いて、喜ばないはずがないでしょう。だから、どうか、そんな顔しないで。早坂の分まで幸せになってください」


「……っ」


 その言葉に、優子の目には、じわりと涙が浮かんだ。


 危険と隣合わせの警察官。いつ殉職じゅんしょくしてもおかしくないからと、そんな時は「とっとと再婚しろよ」なんて、優子は慎司から、冗談半分に言われていた。


 でも、まさか、病気で亡くすとは思わなかったけど、彼が自分と誠司の幸せを一番に考えてくれていたことは、優子が一番よく分かっていた。


「ッ……ありがとう…ございます……橘さん…っ」


 言葉と同時に涙があふれてきて、優子は身をすくめ口元を押さえた。


 それを見て、橘はポケットからハンカチを取り出すと、そっと優子に差し出す。


「どうぞ」


「っ……すみません」


「いえ。こちらこそ、変な話をしました」


「そんな…! 今日また夫の話を聞けて、本当に良かったです」


 優子はハンカチで涙をぬぐいながら、ニッコリと笑う。


「でも、まさか上司に向かってそんなえらそうなこといってたなんて」


「あはは、俺も9つも下の部下にさとされるとは思いませんでしたがね。でも、早坂は本当に正義感が強くて、警察官としても、父親としても立派なやつでした」


「ありがとうございます。あと、私、その誘拐事件のこと、夫から少し聞いてました。新聞にも載ってましたよね? 小学5年生の男の子が誘拐されかけたって……橘さんの息子さんが巻き込まれたと聞いて、驚いたのを覚えてます」


「まぁ、誘拐のターゲットになったのは、うちの息子ではなく、もう1人の男の子なんですけどね。でも、本当に無事でよかったと、今でも思いますよ」


 橘は当時のことを思い返し、どこか安心したように微笑んだ。


 10年前におきた『男児誘拐未遂事件』


 それは、ここ城ヶ崎から3時間ほど離れた町、桜聖おうせい市で起きた事件だった。


 当時小学5年生の男の子が、誘拐犯の男に目をつけられ、その時一緒にいた橘の息子が事件に巻き込まれた。


 間一髪、二人とも助かったため、誘拐未遂事件として、地方紙の片隅に載った程度の小さな事件だったが、優子は慎司の上司である警察官の息子が巻き込まれたと聞いて、その事件のことはよく記憶していた。


「あの……そう言えば、それから、その誘拐犯はどうなったんですか?」


 すると、不意に気になり質問すれば、橘は少しだけ表情をくもらせながら


「誘拐未遂だけでなく、窃盗や詐欺など働いてまして、8年の懲役ちょうえきでした。でも、今は出所してます」


「え?」


 出所……してる?


 その言葉に、優子は表情を強ばらせた。


 子供を誘拐しようとした男が、今はおりから出て普通に生活している。そう思うと、不安を抱かないわけがない。


「そ、そうなんですか? あの、それ息子さんは……」


「うちの息子は知ってますよ。でも、誘拐の被害者である男の子は、多分まだ知りません。その子の父親が『今やっと事件から立ち直って、幸せに暮らしているから、また事件のことを思い出して、おびえさせたくない』と」


「そう、なんですね。10年前のこととはいえ、なんだか心配ですね」


「えぇ、それに少し……厄介な犯人でしたからね」


 言葉と同時に、橘が、深く眉根を寄せた。


 それを見て、優子は更に不安を抱くが、橘は、その後、柔らかく微笑むと、まるで心をほぐすように、明るく話しかけた。


「でも、大丈夫ですよ。あの犯人は、その男の子にしか興味がありませんし、今じゃ息子も、その子も大学生で、事件後、空手を習ったり、護身術を身につけたりして、かなり強くなってますから! あと、犯人も、ここより遥か遠い場所で暮らしてます。安心してください」


「そうですか。それなら、よかったです」


 橘の雰囲気と、その明るい返答に、優子は安堵あんどする。


「それでは、俺はこれで。どうぞ、早坂とゆっくりお話してください」


「はい。あ、ハンカチを! 洗ってお返しします!」


「いやいや、いいですよ! 貰ってください。家に妻のハンカチが腐るほどありますから」


 そう言うと、橘は軽く会釈えしゃくをして、その場から去っていって、優子は、橘を見送ったあと、また慎司の眠る碑石を見つめ、微笑みかける。


「……やっぱり、しんちゃんはカッコイイね?」


 独り言のようにポツリと呟く。


 まっすぐな性格が大好きだった。


 正義感が強くて、間違ったことは、相手がどんな人でも、屈さずに伝えていた。


「慎ちゃん、今日、橘さんと会えてよかった。私の知らない慎ちゃんの話を聞けて……本当に、よかった」


 優子は橘に改めて感謝すると、また涙を浮かべた。


 同級生で幼馴染みで

 ずっと一緒にいたからか


 離れ離れになる日が来るなんて、考えもしなかった。


 でも、このまま、ずっと

 後ろばかり向いているわけにもいかない。


「慎ちゃん……私、幸せになるね。だから、私と誠司のこと見守っていて──…」

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