後南朝

7:歴史から消える旧南朝

 ついに尊氏と後醍醐天皇の間で始まった南北朝の動乱は、三代将軍・足利義満と南朝四代・後亀山天皇、北朝六代・後小松天皇との間で、明徳の和約が結ばれ、幕を閉じました。


 その内容は、

 ①南朝・後亀山天皇より北朝の後小松天皇への「譲国の儀」における神器の引渡しの実施。

 ②皇位は両統迭立。

(後亀山天皇の弟・泰成親王、後亀山の皇子・小倉宮おぐらのみや恒敦つねあつなど南朝系皇族の立太子)

 ③国衙領を大覚寺統の領地とする。

 ④長講堂領を持明院統の領地とする。

 といったものでした。


 したがって、和約は南朝に少なからず配慮したものであったのですが、実際は、後小松天皇が持明院統の称光天皇に譲位したため、旧南朝の不満が高まるという事態を引き起こすというもので、現在の学説では「和約は実は無かったのでは」とさえ言われています。

 また③においても、実際に納められた年貢は僅かであり、大覚寺統は困窮したといいます。

 こういった不満が募り、世に言う「後南朝(=旧南朝勢力)」という反幕府勢力が皇統の合一に消滅することなく、にわかに生き延びたのでした。


 1392年、明徳の和約に従い、後亀山は南北朝合一により退位します。その後、1394年に、太上天皇(≒上皇)の尊号を受けるなど、比較的安定した地位を約束されていたものの、先述したように、和約が完全に実行されることはありません。

 1410年、後亀山は京・嵯峨さがから出奔し、南朝のあった吉野山に入るという事件が起きます。

 これは両統迭立を義満が守らず、後小松(北)→泰成親王もしくは小倉宮恒敦(南)が天皇になるのではなく、後小松(北)→称光(北)という北朝の治世となったからだ、とされています。


 せめてもの抵抗意志表示であり、1414年、4年前に京都を出奔して吉野に潜行していた南朝最後の天皇・後亀山上皇とその皇子・小倉宮を支持して伊勢いせ国司こくし北畠きたばたけ満雅みつまさが挙兵したのですが、室町幕府の討伐を受け和解。上皇は2年後、1416年に京に帰ることとなりました。


 北畠氏の解説は、前回触れましたが、南朝と伊勢神宮における斎宮との繋がりと、南朝のブレーン・北畠親房との親睦によって、強力な地盤を築いていた為、合一後も国司としてその地に関わり、また、足利義満とも親睦を深めていたため、雅という名を得ていました。



 しばらくして、称光天皇が、皇嗣こうし(≒皇子・次の天皇候補)不在で崩御したのですが、またしても後小松上皇と時の将軍・足利あしかが義教よしのりは、「伏見ふしみのみや家」から後花園天皇を猶子(≒養子)として迎え、即位させます。つまり、三代続いて北朝・持明院統という訳です。


 ちなみにこの第六代将軍・義教、実は将軍になる前は出家しており、僧侶時代は義円ぎえんと名乗っていました。

 五代将軍・義量よしかずは名ばかり将軍で、実権は父にして四代将軍・義持よしもちが握っていました。

 義量が死んでもなお、父・義持が引き続き政治を行なったのですが、なんと彼は後継者の指名を拒否したまま死んだのです。


 そこで評議の結果、六代将軍は、足利家の人間をによって決定することとなったのです。

 そうして決まったのが足利あしかが義教よしのりこと僧侶・義円であり、即刻還俗し、義宣よしのぶと名乗ったとのこと。

 そのため「くじ引き将軍」とも呼ばれましたが、幕府権威の復興と将軍親政の復活を目指しました。


 さて、後花園天皇が選ばれた為、後南朝・小倉宮家と北畠満雅がこれに反発。

 このとき、足利義教は「南方御一流、断絶さるべし」という、南朝根絶の方針を打ち出したのです。

 その一つは、旧南朝皇族を次々と出家させ、皇位につけないようにしたことであり、同時に、以下の戦乱における討伐としても現れます。


 ですが、嘉吉元年(1441)に播磨・備前・美作の守護である赤松あかまつ満祐みつすけが、義教を殺害し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるという騒動「嘉吉の変」が起きてもいます。それでも、「南方御一流、断絶さるべし」という考えが幕府から消えることはありません。

 また同様に、旧南朝が皇位につくことを諦めることもなかったのです。


 それは嘉吉3年(1443)、南朝遺臣や日野一族が御所に乱入し、旧南朝皇族の通蔵主つうぞうす金蔵主こんぞうす兄弟をかついで神璽しんじ・宝剣を一時奪還する「禁闕きんけつの変」として勃発します。

 宝剣はすぐに幕府の手で取り戻されたのですが、神璽は後南朝に持ち去られたままに。


 そもそも小倉宮家とは、後亀山天皇の皇子・小倉宮おぐらのみや恒敦つねあつ(=小倉宮家初代)から始まり、小倉宮おぐらのみや聖承せいしょうと続き、金蔵こんぞうで「後南朝初代」となるのですが、だいたいの系図のみで、この頃の代は既に誰の直系子孫か怪しいのです。つまり誰の子なのか、それとも誰の孫なのかが確定できない、後南朝の歴史はそういった闇に今もなお包まれています。


 後花園天皇の禁闕(=皇居内裏)への襲撃事件が「禁闕きんけつの変」であり、京にある二つの神器が後南朝によって奪われる、というものです。

 しかし、後花園天皇から凶徒追討の綸旨りんじ(追討令)が出ると、後南朝が居た比叡山は室町幕府に付くことを決め、管領・畠山持国が派遣した幕府軍や、後南朝への協力を拒んだ山徒によって、後南朝軍は鎮圧されました。

 また、金蔵主と日野有光はこの戦闘で討たれ、参加した楠木正威も戦死しています。



 次に、長禄元年12月2日(1457年12月18日)、赤松氏の遺臣らが後南朝の行宮を襲い、南朝の皇胤である自天王じてんのう忠義王ちゅうぎおう(後南朝の征夷大将軍)の兄弟を討って神璽を持ち去った事件、「長禄ちょうろくの変」が起きました。


 神爾は約15年の間、後南朝のもとにありましたが、長禄元年(1457年)に嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣が再興を目指して後南朝より奪い返し、翌年には北朝の手に戻したことで、赤松氏は赤松政則の家督相続を認められ、加賀半国を与えられて再興を果たしたのです。

 ですが、後南朝は実質的に消滅を迎えることとなります。

 既に怪しかった史料的系図も、ついには消え去るのです。


 最後に史料に登場する後南朝は、応仁の乱(1467年)の頃です。

 足利将軍家の権威・権力が失墜したことにより起きた、室町幕府内の長きにわたる政治抗争であり、細川氏率いる東軍と、山名氏率いる西軍が幕府の主導権をめぐって争ったものです。

 そしてその西軍の大義名分であり権威となったのが、後南朝最後の人物「西陣にしじん南帝なんてい」です。


 西軍によって一時的に「新主」として擁立され、小倉宮を称していたのですが、いみなは不明であり、南朝皇胤としてどのような系譜をたどるのかも定かではないです。

 吉野と熊野で南朝皇胤を称する兄弟の蜂起があり、年号を明応元年と制定したとの風聞が伝えられており、その実態は不明であるものの、年号を使っていたという情報がある以上、実質を備えた蜂起であった可能性が高いともされます。

 ともかく「西陣南帝」が擁立され、西軍は戦いましたが、応仁の乱の勝者は東軍であり、それに伴って、「西陣南帝」も歴史から消え去ったのでした。



 …………ちなみに、太平洋戦争後には西陣南帝の子孫を称する「熊沢くまざわ天皇」こと熊沢くまざわ寛道ひろみちなど、自らを正統な天皇の継承者と称する自称天皇たちが現れたとき、その多くは1911年(明治44年)に明治天皇の裁断によって南朝が正統とされたことを受けて、後南朝の子孫と主張していた、などの超・後日談もあったり。



 ☆南朝・後南朝の帝系

 ○後醍醐天皇(1318年 - 1339年)南朝初代天皇

 ○後村上天皇(1339年 - 1368年)南朝2代天皇

 ○長慶天皇(1368年 - 1383年)南朝3代天皇

 ○後亀山天皇(1383年 - 1392年)南朝4代天皇 


 ◇小倉宮恒敦(1410年 - 1422年)後亀山天皇の子

 ◇小倉宮聖承(1422年 - 1443年)小倉宮恒敦の子

 ◇金蔵主こんぞうす(1443年)

 後亀山天皇の弟(護聖院宮・惟成親王)の孫?、もしくは後亀山天皇の子である小倉宮良泰親王の子?。後南朝初代、禁闕の変で死去。

 ◇自天王じてんのう尊秀王たかひでおう)(1443年 - 1457年)

 長慶天皇流玉川宮の末孫?。後南朝2代、長禄の変で死去。

 ◇南天皇なんてんのう尊雅王たかまさおう)(1457年 - 1459年)小倉宮良泰親王の子?。後南朝3代。

 ◇西陣南帝(1471年 - 1473年)

 系譜不詳、小倉宮を称す。後南朝4代。以後、後南朝は史書より姿を消す。

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