6:ファイナルシーズン・南北朝合一
今回で、鎌倉時代末期における両統迭立から建武の新政を経て起きた南北朝の動乱という内紛も、ついにラストです。
いわゆる第三期は先の幕府内紛(観応の擾乱など)の克服~南北朝が合体するまでです。この時期に、室町幕府はそのたくわえた権勢でもって、有力守護大名の統制をほぼ達成し、九州の南朝勢力を切り崩すことによって、幕府政治を確立させました。
江戸幕府における武士はある種のサラリーマンですが、鎌倉幕府と室町幕府は、大まかに言えば、自立した武士たちのまとめ役です。それ故に内紛が巻き起こった訳ですが、二頭政治が弟・足利直義の死などによって壊滅したことにより、権威が定まったと言えるでしょう。
さて、正平23年・応安元年(1368)4月、幼将軍・足利義満が元服し、その烏帽子親となった室町幕府・
頼之は所領訴訟に対する基本方針を定めた法令である「寺社本所領事(→応安大法」を発布し、幕府の安定性を確立していきました。
同年、南朝では強硬派の
そのため、正平24年・応安2年(1369)、頼之は南朝方の中心的武将・正儀を幕府側に帰順させることに成功します。
南朝は強硬路線をとったことで、主要人材を失い、かえって勢力を落とし、幕府方が体制を確立することになってしまうのです。当初より、ことごとく南朝は劣勢ですね。
文中2年・応安6年(1373)、頼之は、細川氏春・楠木正儀・
ですが、戦に失敗したことが、政敵・
その頃、頼之と協同して北朝・室町幕府の安定化を計ったのが、連歌を完成した中世最大の文化人の一人であり、北朝の摂政・関白・
良基は、義満の指南役となって朝廷文化を伝え、公家側に引き込むことで、北朝と室町幕府の一体化を促しました。これによって武家の
南朝が衰微していく一方で、足利義満の相次ぐ有力守護大名勢力削減策により、幕府はますます中央集権化を進めていき、その勢力差は歴然となった頃、ついに話は再び持ち出されます。
弘和2年・永徳2年(1382)には、ようやく楠木正儀が南朝へ帰参し、
和平派・正儀が参議という高官として台頭したことや、弘和3年・永徳3年(1383)に
その時の劣勢的状況をまとめると、
・和平派の後亀山天皇が在位。
・楠木正儀、北畠顕能、懐良親王、宗良親王といった中枢人材が相次いで死去。
・楠木氏の象徴である
このような情勢の中で元中9年・明徳3年(1392)、足利義満の斡旋で、①
『大乗院日記目録』は「南北御合体、一天平安」と記してもいます。
南北朝合一を機に、九州も幕府の支配下に収まり、その後、足利義満が新たに
ついに南朝は幕府を容認するという、後醍醐天皇の理念とは異なった政治体系の中へと融合することで、日本において未曾有の動乱が幕を閉じます。
ですが、本当に「南北御合体、一天平安」となるには、もう少し時間がかかるのです。
それが次回、「
☆南朝の帝系(四代)
後醍醐天皇→後村上天皇→
☆北朝の帝系(六代)
(
☆キーワード【
○室町幕府において将軍に次ぐ最高の役職。将軍を補佐して幕政を統轄。
また、幕臣の筆頭として、足利将軍家における重要な儀式(元服・就任・任官関係)に参列して行事を執り行った。足利氏家宰である「執事」の後継。
○「三管領家」→
☆キーワード【
○和歌を使った文芸のひとつ。和歌の上の句(五・七・五)と、下の句(七・七)を多数の人たちが交互に作り、ひとつの詩になるように競い合って楽しむ。
能楽と並び室町文化を代表する遊戯の1つとされる。
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