番外編:東西南北朝!?北陸朝廷と日本国王

 さて、南北朝の動乱も残る<第三期>で南北朝合一を迎えますが、ここで番外編として、『実は南北朝ではなく、東西南北に王権が存在したのでは!?』という趣旨で、一つ簡単に解説してみたいことがあります。


 時代で申しますと、建武の新政が失敗し、足利尊氏と後醍醐天皇が戦うこととなってしばらく、湊川の戦いの後に、比叡山に逃れた頃合いです。

 その頃には当然、尊氏は京に入っており、後醍醐と尊氏は和議を交渉する段階にありました。したがって、<南北朝の動乱シーズン0>くらいですね。


 さて、仮に和議が成功した場合、損する人間がいます。

 それは、後醍醐でも尊氏でもなく、尊氏と戦うこととなった後醍醐派の総大将・新田にった義貞よしさだです。

 危機感を抱いた義貞たちは、後醍醐天皇の皇子・恒良つねよし親王と異母兄である尊良たかよし親王を奉じて1336年10月10日に北陸へ落ちて行きます(下向げこう)。

 なお、後醍醐はこの頃、多くの皇子を各地へ下向させているため、これも計画的なものであったと考えられます。


 というのも、建武の新政が始まると、後醍醐が寵愛した阿野あの廉子れんしが産んだ皇子の中で最年長だった恒良は建武元年(1334)に皇太子に指名され、そして北陸へ下向する際には、後醍醐より皇位と三種の神器を譲られています。

 この点は、以前にも説明した神器Aなどのくだりですね。


 恒良親王は、天皇の正式な文書『綸旨りんじ』を発給するなど天皇として活動しているため、南北朝時代に南朝方武将・新田義貞らによって擁立されたこの仕組みを〈北陸朝廷〉と呼びます。


 しかしご存知の通り『南朝四帝』とは、後醍醐→後村上(義良のりよし親王)→長慶ちょうけい天皇(寛成ゆたなり親王)→後亀山天皇(熙成ひろなり親王)です。


 ではなぜ、恒良親王は南朝の天皇とされていないか、それが神器Aの話題と結びつく点であり、つまりは、恒良親王が天皇としての活動を始めたほぼ同じころに、後醍醐は和議成立後、再び京を脱出して、吉野において、<南朝>を開き、後醍醐が天皇親政を始めた為に、恒良親王の即位は無意味・無効となったのです。

 …………どういった気分だったのでしょうね。ともかくここから、南北朝の動乱は始まりました。


 さて、これで南北東の朝廷が一時期存在したことがお分かりになったと思います。では西はというと、こちらは朝廷的な動きとは異なるのですが、懐良かねよし親王の活動に注目してみましょう。


 懐良親王も後醍醐天皇の皇子であり、彼は南朝方の『征西大将軍』という官職にありました。

 征夷大将軍というのは源頼朝、護良もりよし親王、足利尊氏、徳川家康などなど、多くの人が知る官職ですが、征西大将軍はどうでしょうか。


 征西大将軍とは、主に九州や四国を平定するために任命される存在ですが、この時期において九州とは、南朝の公家将軍・北畠きたばたけ顕家あきいえによってほぼ壊滅状態に陥った尊氏が逃げた場所です。

 すなわち、懐良親王が征西大将軍に任命されたのは、離反した足利尊氏(→北朝)を征伐するために、また九州の南朝勢力のシンボルとして派遣されたのであり、事実、懐良親王の征西府は一時期その軍事力で九州をほぼ実効支配下に置いたとされます。


 そして、九州といえば、防人さきもりの知識と結びつくように、中国・朝鮮との外交ならびに国防に重要な地であり、そしてその頃、みん洪武こうぶ帝(朱元しゅげんしょう)より、東シナ海沿岸で略奪行為を行う『倭寇』の鎮圧を『日本国王』に命じる国書が、使者により懐良親王のもとにもたらされます。


 つまり、懐良親王は天皇ではないにもかかわらず、明の皇帝から「日本国王」の冊封を受けるのです。

 これは当然ながら、足利義満が日明貿易の際に「日本国王」とされる以前の話です。正式名称は『日本国王 良懐りょうかい』です。


 国内は、京都に足利尊氏の幕府と光明こうみょう天皇らによる北朝が、そして奈良の吉野には後醍醐天皇による南朝があり、また一時期ではありますが、北陸にも恒良親王の『北陸朝廷』があるという動乱期・混乱期のなか、海外(明)においては、征西府にいる懐良親王こそが「日本国王」とされていたと思うと、非常に感慨深くはないでしょうか。


 たとえ懐良親王の勢力が衰退したと言えども、明側では「良懐」を冊封したことは既成事実ですので、足利義満が日明貿易(勘合貿易)を開始する際に、新たに明朝の第2代・建文けんぶん帝から冊封をうけ「日本国王」の位を受けるまでは、北朝や薩摩・島津氏なども明に使節を送る場合は「良懐りょうかい」の名義を詐称する偽使を送らねばならなかったのです。


 またその義満も、当初は明から「良懐と日本の国王位を争っている持明(北朝)の臣下」とみなされて、外交関係を結ぶ相手と認識されず、苦労していたとされます。



 南北朝の動乱は確かに「異形の王権」後醍醐天皇によって、巻き起こされましたが、その周辺人物もまた、動乱の歴史に名を残すほどの独特さを兼ね備えているのです。

 そのため、是非とも一人、興味を持った人物がいれば、その人物を頼りに、南北朝時代について調べてみてください。


 戦前教育では、 南朝と北朝 のどちらを正統とするかという『南北朝正閏論』論争の結果、明治政府の見解として南朝が正統とされ、楠木くすのき正成まさしげなどを『忠君』の模範とされ、文字通り、大楠だいなんこうと神社に祭られました。

 その是非は、戦後まもない教育によって、徹底的に修正され、ついに現在においても、意図してかあまり触れられない歴史分野となりました。


 ですがこのように、多岐にわたって、影響を及ぼし続けた時代であるからこそ、たった一人でも興味を持てる人物がいれば、是非とも積極的に学んで欲しいと、私は思います。


 では次回の、ついに両朝合一となる、南北朝<第三期>もよろしくお願いします!

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